四十 報酬
「起きなさい、エイナ。もう朝よ」
優しい声とともに、誰かが肩をそっと揺さぶった。
泥沼の底から、もがきながらゆっくりと意識が浮上してくる。
「……お母さん?」
まだはっきりしない頭で、エイナはかすれた声でつぶやいた。
だが、上から覗き込んでいる顔が、母親のものであるはずがなかった。
焦点が合った目に映ったのは、微笑んでいるユニの姿である。
エイナはのろのろと身を起こした。
「痛ぁったたたたた!」
途端に彼女は顔をしかめる。
全身の骨がばきばきと音を立て、筋肉が悲鳴を上げた。
「あんた、大丈夫?」
ユニが少し心配そうに訊ねる。
エイナの身体に大きな損傷がないことは、昨日のうちに確かめている。
魔法武器の暴走で絶対零度の魔法が発現し、至近にいた彼女は反動で弾き飛ばされ、隧道の天井に叩きつけられた。
普通なら骨も内臓も潰れているところだが、防具工房が鍛えた魔法の鎧は、どうにかエイナを守り切った。
全身に打撲を負ったのは止むを得ないが、彼女は吸血鬼の血を引くだけあって、人間離れした回復能力を持っている。
そうでなければ、数日は寝込んでいただろう。
「えとあの、身体中が痛いですけど、まぁ……大丈夫です」
「そっ。だったら早く起きて顔を洗いなさい」
ユニはそう言うと、毛布をかぶって丸くなっているシルヴィアを起こしにかかった。
着替えを済ませ顔を洗った三人は、客用寝室を出てリビング入ってきた。
扉を開けたとたんに、朝食のよい匂いが鼻をくすぐる。
香ばしいパンと、カリカリに焼けたベーコンの匂いだ。
エプロンをした恰幅のよいドワーフが、テーブルに置かれた小さなコンロに向かっている。
「お早うございます、メイリンさ――」
挨拶をしようとしたエイナは、途中で言葉を詰まらせた。
フライパンに卵を割り入れていたのは、この家の主婦メイリンではなく、グリンであった。
(エイナもシルヴィアも、もうドワーフの顔の見分けがつくようになっていた)
「ちょっとグリン、あんた何て恰好してんのよ!」
ユニがグリンを指さし、げらげらと笑い出した。
「失礼な奴だな。お前ら寝坊助のための朝飯だぞ?
ちょっとは感謝しろ!」
「そりゃ、ありがたいけど、何だってテーブルの上で料理をしてんのよ?
台所でやればいいじゃない」
「馬鹿野郎、そんなおっかないことできるかよ!」
グリンが仏頂面で、目玉焼きに塩を振った。
なおも笑い続けているユニと違い、エイナとシルヴィアはどうにか笑いをこらえていた。
ただ、いかついドワーフのエプロン姿は強烈だった。
シルヴィアはその場を逃れるように、小走りで台所の様子を覗きにいった。
戻ってきた彼女の顔からは、笑いが消えていた。
「何か、凄い殺気立っていますよ!
イーリンとエーリンも真剣ですけど、メイリンさんの顔が恐いです。
台所っていうより、戦場みたいな雰囲気ですね。
何なんです、あれ?」
シルヴィアの質問に、グリンは肩をすくめた。
「夕方から始まる祝勝会に出す料理の準備だよ。
一族全員が集まるんだ。とにかく量が必要だから、メイリンも娘たちも、夜明け前から目をつり上げて仕込みにかかっている。
うっかり俺が邪魔しに行ってみろ、包丁が飛んでくるぞ」
「えっ、メイリンさんが全員分の料理を作るんですか?」
「まさか! 料理は各家の持ち寄りだよ。
どの家の料理が評判を取るか、女たちにとっちゃ一世一代の晴れ舞台だからな。
真剣っていうか、もう命がけだよ」
「はぁ……それでグリンが朝食係ってわけか。
ぷっ、それにしても似合わないわね」
ユニが思い出したように吹き出し、グリンの目つきが険しくなった。
エイナが慌ててフォローに入る。
「でっ、でも見てください。とっても美味しそうですよ!
グリンさんの手際もいいし……お料理お上手なんですね?」
「応ともよ!
俺もそうだが、ドワーフの男は料理が得意な奴が多いんだ。
ほれ、もうできたぞ。いつまでも突っ立ってないで、いいかげんに座れ!」
自慢するだけあって、グリンの作った朝食はなかなかの味だった。
彼女たちは料理をむさぼりながら、グリンから魔龍戦後の話を聞き出した。
魔法の巻き添えになった戦士たちは、全員酷い凍傷を負ったらしい。
ただ、ドワーフは火傷や凍傷の治療に長けており、もとが頑健な戦士たちは祝勝会に参加できる見通しだった。
魔龍出現以来、ほぼ不眠不休で働いていた武器と防具の両工房は、徒弟たちに休暇を与えた。
ほとんどの者が、気絶するように倒れて眠りこけた。
もちろん、祝勝会までの間のことで、ドワーフが宴会を見逃すなどあり得ない話だった。
そのほかの工房に属する男たちは、会場の設営に朝から走り回っているらしい。
「今夜の主賓は、戦士団とお前たち三人だ。存分に楽しんでくれ。
それでな、その前に訊いておきたいんだが……」
エイナたちが朝食をたいらげ、一息ついたところで、グリンが改まった。
「今回のことでは、俺たち寂寥山脈のドワーフ族全員が感謝している。
その恩義に報いるため、祝勝会ではお前たちが望むものを贈りたい。
これは昨日の工房長会議で、全会一致で決まったことだ。
エイナ、お前は何が欲しい?」
「えと、あの……私ですか?」
突然のことに驚くエイナに、グリンは大きくうなずいた。
「当たり前だ。何といっても、一番の功労者はお前さんだ。
ドワーフの財宝は、龍が垂涎するほどに名高い。武器、防具は言うに及ばず、国を丸ごと買い取れるほどの宝飾品まで、より取り見取りだぞ」
「でも……」
エイナは少し口ごもったが、思い切ったように口を開いた。
「私は魔導士ですから、ドワーフの魔法具との相性が悪いというか、うっかり暴走させたら大惨事です。
宝石とかにもあまり興味はありませんし……いえ、確かにお金は欲しいですが、ドワーフの宝なんて持っていたら、心配で安眠できそうにないです。
ですから、ありがたいお話ですけど、ご辞退いたします」
「そいつは困ったなぁ……」
グリンは髭をしごきながら、ユニの方を向いた。
「ユニ、お前はどうだ?」
ユニは腰から長さを抜いてみせた。
「あたしはこれと太陽石で十分よ。いつもタダで研ぎ直しまでしてもらってるしね。
それに三人の中じゃ、あたしが一番働いてないわ。
エイナが遠慮するなら、あたしもパスね」
「それとこれとは別の話だろうに……。
シルヴィアは何か望みがないのか?
お前の幻獣はよくやったと思うぞ」
シルヴィアの口は少し重かった。
「エイナとユニさんが断っているのに、あたしだけというのは気が引けるのですが……。
でも、カー君が身体を張って頑張ったことには、ちゃんと報いてあげたいと思います」
「おう、そう言ってくれると俺も助かる。
それで、何が望みだ?」
「魔石を」
シルヴィアの答えに、グリンはぎょっとしたが、すぐにその顔をほころばせた。
「なるほど、よかろう。
あれは確かに希少な鉱石だが、俺たちが持っていても何かの役に立つというものではないからな。
ユニとエイナには、そちらの負担にならないものを、適当に見繕うことにしよう。
それくらいは受け取ってくれ。
俺はこのことを報告してくる。お前たちは宴会の準備ができるまで、ゆっくり休んでいるがいい」
グリンは立ち上がりかけたが、不意にエイナが呼び止めた。
「あの、ちょっと待ってください!」
「どうした? 何か望みを思いついたのか?」
「はい。私たちが試し斬りをした時のブロードソード、あれをください!」
グリンは怪訝な表情を浮かべた。
「それは構わんが……お前はさっき、魔法武器と魔導士は相性が悪いと言わなかったか?」
「いえ、私が使うのではなくて、シルヴィアの分としてです。
彼女はあの剣がとても気に入っていましたから」
「エイナ! でも頑張ったのはカー君で、あたしは何も――」
思わず声を上げたシルヴィアの口を、エイナの指が塞いだ。
「分かっているの。
あのカー君が、自分から魔龍の目の前に飛び出したと思う?
あなたが作戦を思いついて、戦士の人に頼んで投げ飛ばしてもらったんでしょう?
危険を冒して魔龍の横腹まで近づいたのは誰?
シルヴィアだって、十分頑張ったわよ!」
言葉を出せないシルヴィアの背中を、グリンが〝ばしっ〟と叩いた。
「エイナの言うとおりだ!」
* *
夕方から始まった祝勝会は、三つある居住区の広場で、分散して行われた。
老いも若きも、すべてのドワーフが参加したので、一つの居住区では入りきれなかったのだ。
広場に並べられた長テーブルには、各家の主婦が腕を振るった大量の料理が並べられ、負けじとエールと焼酎の樽の山がいくつも築かれていた。
会の次第は、まず恐るべき脅威となっていた、魔龍殲滅の宣言から始まった。
次いで、半月に及ぶ戦いで犠牲となった者たちが一人ずつ紹介され、故人を悼む家族や友人、知人たちの言葉が捧げられた。
そして、魔龍に立ち向かった戦士たちと、大きな功績を挙げた三人の人間たちの栄誉が称えられた。
武器工房や防具工房、そして医療・看護班など、戦士たちを支えた者たちへの感謝も忘れられなかった。
喜怒哀楽を率直に表すドワーフたちは、死者のために涙を流し、英雄たちや功績者への賛辞を惜しまなかった。
ひととおりの式典が終わると、その後は飲めや歌えの大宴会である。
戦死者や戦士、功労者はそれぞれ数十名に及んだが、三つに分かれた会場に振り分けることで、どこも同じ内容で進めることができた。
ユニ、そしてエイナとシルヴィアも、それぞれの会場に分かれて表彰されることになった。
中でもメインとなる会場では、エイナと戦士団長が登壇したため、最も盛りあがった。
エイナには宝飾工房から、精緻な彫金が施された純金の指輪が贈られた。
急遽選ばれた品だったので、このために造られたわけではないが、工房の職人によって、指輪の内側にはドワーフ語と大陸標準語の両方で、『ともに戦いしドワーフの友』という文字が彫り込まれていた。
グリンは彼女たちが負担に感じない程度の物だと言ったが、金貨数十枚の値が付きそうな芸術品であった。
別会場ではユニとオオカミたちが登場し、同じ指輪を受けた。
直接的な活躍は少なかったものの、ユニの顔はよく知られていたし、ドワーフたちは彼女をエイナとシルヴィアの師匠だと思い込んでいたので、この会場も大いに盛り上がった。
この思い込みは、ドワーフが職人集団で必ず親方(師匠)を持つのが常識であるためだが、そのお陰でユニは有能な弟子を抱える工房長のような偉大な存在だと見做され、尊敬の目で見られるようになった。
一方、もう一つの会場で壇上に登ったシルヴィアは、かなり気後れしていた。
カー君が多少活躍したとはいえ、彼女だけが魔石と魔法武器を貰うことに後ろめたさを感じていたのだ。
戦いの英雄であるエイナや、知名度のあるユニに比べ、自分が登場してもドワーフたちはあまり喜ばないだろう。
ところが、蓋を開けてみると逆であった。
ドワーフたちは、シルヴィアがドワーフの宝を快く選んでくれたことを、非常に喜んでくれた(ちなみに、金の指輪は彼女にも贈られた)。
そして彼らは、シルヴィアとともに紹介されたカーバンクルに、強い興味を示していた。
どの種族よりも鉱物に詳しいドワーフたちは、魔石の存在と価値を承知しており、カーバンクルが魔石を摂取して成長することも知っていた。
ただ、それはあくまで知識としての話である。
ドワーフたちはこの世界に飛ばされて何世代も経ており、彼らがカーバンクルを見るのは、カー君が初めてである。
そして、魔石を取り込んだカーバンクルが成長するといっても、実際にどう変化するかは、書物や伝承でも詳らかではなかったのだ。
したがって、目の前でそれが見られるという期待で、シルヴィアたちの会場は異様な盛り上がりを見せていた。
数百人のドワーフの注視を浴びたシルヴィアはとまどい、不安に駆られていた。
エイナは戦士団長のオーレンと一緒だったし、ユニは武器工房長のグリンとともに表彰を受けていた。
この会場では、防具工場長のギムリンがシルヴィアとともに壇上に立っていた。
一応、互いに顔は知っているものの、挨拶を交わした程度の仲である。
それでも、他に知った顔はいないので、シルヴィアは彼を頼りにするしかなかった。
「あの、ギムリンさん。
やっぱり魔石を受け取ったら、その場でカー君に食べさせなきゃダメですか?」
防具工房長は小さな目を瞠った。
「何を当たり前のことを言っておる。
お主はそのために魔石を望んだのであろう?」
「それはそうですけど、皆に見られている前でっていうのは、ちょっと……」
「よいではないか。
わしらドワーフは、鉱石の知識に関しては貪欲だからな。
魔石は有名な割に、何かと謎が多い鉱物だ。目の前でその効果を見てみたいのは当然だ」
ギムリンは好奇心で目を輝かせている。彼自身が大きな興味を抱いているのだ。
「いえ、カー君に食べさせるのはいいんですけど、彼がどうなってしまうのか不安なんです。
故国で赤龍様から、赤い魔石は攻撃力を増し、碧や緑は防御力を成長させると聞きましたが、この里にある魔石は白なんですよね?
一体どんな効果があるのでしょうか?」
「知らん」
工房長の答えはそっけない。
「知らんからこそ、余計に知りたいではないか?
そろそろ表彰が始まるぞ、しゃんとせい!」
『そうだよシルヴィア。前に黄色い魔石を食べた時だって、そんなに変わらなかったでしょ。
気楽にいこうよ』
『あんたはまた呑気に……。まるで他人事ね』
シルヴィアとカー君の脳内会話は、会場から沸き起こった大歓声に掻き消された。
一段高い舞台の上で、一歩前に進み出た司会役のドワーフが、シルヴィアとカー君の功績を称える演説を始めたのである。
その脇に控えるドワーフの娘は、紫の布を敷いたお盆を持っていた。
その上には、見覚えのある細身の長剣とともに、小さな白い石が載せられていた。
大きさはウズラの卵ほどで、乳白色に輝く美しい宝玉である。
それこそがドワーフの里に伝わる〝白の魔石〟だった。