三十九 決着
エイナは目の前に開いた穴に精神を集中させた。
オーレンとタイミングを合わせ、ここから凍結魔法を体内に撃ち込む。
できる限り範囲を絞り、より威力を高めなければならない。
そのためには高度な魔力制御が必要だったが、彼女にはその自信があった。
「時間がない、やるぞ!」
オーレンが怒鳴りつけるように叫び、氷槍を振りかぶった。
呪文はとっくに唱えている。魔力の蓄積も十分で、指先が膨れ上がって破裂しそうだった。
それなのに、エイナはどうしても魔法を発動できなかった。
これしか方法がない――頭では理解していても、心の奥でもう一人の時分が「違う!」と叫んでいるような気がしてならない。
もとより確信などない。
あらゆる可能性を検討し、その中から一番成功しそうな多重攻撃を、最後の手段として決めていたのだ。
「どうした! 何故撃たない!」
槍を振りかぶったオーレンが、じれたように怒号を放った。
すぐ先で部下たちが命がけで魔龍と戦っている。
こちらを狙うもう一方の首も、シルヴィアの幻獣が身を挺して防いでいる。
彼らの献身を無駄にすることなど、許されるはずがなかった。
だが、エイナはそれでも魔法を撃てなかった。
彼女は泣きそうな顔で、オーレンに訴えた。
「駄目です、できません!」
「ふざけるな! 貴様、何を言っているのか分かっているのか?
俺の部下たちが、死ぬ気で稼いだ時間だ!
カーバンクルが喰われる危険を冒して、火を吐き続ける姿を何と心得る!」
オーレンは腕をおろし、エイナの目の前に氷槍を突きつけた。
「こいつを造るため、武器工房の連中は不眠不休で働いたんだぞ!」
彼女だって、言われなくても分かっていた。
「忘れていません、決して!」
エイナは何か言い訳をするため、鼻先に突き出された槍の柄を払いのけようとした。
その瞬間、ぞわりとした悪寒が身体を突き抜けた。
うっかり触れてしまった槍が、手の先に溜まっていた魔力を吸い取ったのだ。
まるで口から腕を突っ込まれ、内臓を引き抜かれたような感覚が走る
ドワーフの造り出す魔法具は、原始的な意志を持っている。
己に与えられた役割を全うするのが、最優先の行動原理である。
そのため、自身に蓄えられた魔力が少しでも減少すると、周辺から無差別に吸い取って補充しようとするのだ。
エルフがドワーフに教えた呪文には、その衝動を抑制する構文が書き加えられていた。
ただし、その保護対象はドワーフに限られている。
人間であるエイナが不用意に魔法武器に触れると、魔力を吸いつくされる恐れがあった。
それを知って以来、彼女は末端への魔力回路を遮断するよう努めていた。
それをこの非常時で、うっかりしてしまったのだ。
エイナは己の愚かさを呪いながら、慌てて手を引っ込めた。
奪われた分の魔力を充填するまで、数秒はかかる。
もう迷っている場合ではなかった。もうこれ以上、時間を浪費できなかった。
彼女は身体の負担を無視して、手の先に魔力を流し込んだ。
魔力には物理的な体積はないが、多量に流すと圧力が生じ、経路に利用する血管を膨張させる。
一気に血圧が上がり、心臓が踊り出すような動悸と、酷い頭痛が襲ってくる。
痛みに耐えかねたエイナは、思わず左手でこめかみを押さえた。
その時、ふっと武器工房長のグリンの顔が脳裏に浮かんできた。
同時に、彼の言葉も聞こえたような気がした。
『魔力の封入は時間をかけて慎重に行わないと、魔法が暴走して大事故を起こす』
確か、魔法武器についてグリンが説明していた時のものだ。
瞬間、エイナの頭の中で何かが弾けた。答えが見えたのだ。
「待たせて済みません!」
彼女は立ち上がり、苛立っているオーレンに顔を突きつけた。
「攻撃は私がやります!
でも、私では力がありません。団長さんの助けが必要です」
「なっ、いきなり何を言い出す?
だったら、最初から俺がやればいいだろう」
エイナは首を振った。
「私でなければ駄目なんです!
でも、団長さんを巻き添えにするかもしれません。
その時は私を恨んでください」
オーレンは鼻先が触れるほどに顔を近づけ叫ぶ、エイナの迫力に気圧された。彼は一歩後ずさると、手にした氷槍を差し出した。
「ええい! 何だか分からんがやってみろ!」
エイナは槍を引ったくり、両手で握りしめた。
その途端、再び内臓を引きずり出されるような感覚が襲ってくる。
だが、今度は手を離さなかった。
みぞおちが縮こまるような恐怖を押し殺すため、彼女は歪んだ笑みを浮かべ、叫んだ。
「好きなだけ、私の魔力を吸うがいい!」
下腹部に蓄えられた大量の魔力を螺旋状に巻き上げ、太い動脈に乗せて一気に流し込む。
過剰な魔力を送り込まれた指先は、毛細血管が破裂して真っ赤に染まり、むくんだように膨れ上がった。
こんな無茶をすれば、耐えきれなくなった皮膚が破れ、血が噴き出すところだったが、槍が貪欲に魔力を吸収していくので、何とか均衡が保たれていた。
もともとこの魔法の槍は、昨日仕上がったばかりで、ほぼ限界まで魔力が封じ込めてあった。
先ほど来の戦闘で、オーレンが何度か大魔力を放出したが、その程度では数%も減っていない。
そのため、減少分の魔力はあっという間に補充された。
氷槍は自らの欲望を十分に満足させた。もうこれ以上、人間から魔力を奪う必要はないと判断し、吸収を中止しようとした。
だが、それをエイナは許さなかった。
槍とエイナの間には、魔力を流すための回路ができあがっていたのだ。
槍の方が吸収を止めても、エイナは構わずに魔力を送り込み続けた。
人間の魔力量は、ドワーフとは比べ物にならないほど少ない。
ただし、魔導士は別である。彼らは例外的に高い魔力を持って生まれてきた、特異な存在であった。
その中でも、エイナは別格といってよいほどの魔力を保持していた。
それは四分の一とはいえ、吸血鬼の血を受け継いでいたからである。
ドワーフをも凌ぐ魔力量の持ち主である彼女は、それを容赦なく、しかも急激に槍へと送りつけた。
グリンが言っていた、暴走を起こす要因をわざと注ぎ込んだのだ。
エイナは氷槍を頭上高く振り上げた。
そして、向かい合って立つオーレンに目で合図をした。
戦士団長は太い腕を伸ばし、エイナの手の位置より、少し上のあたりの柄を握った。
途端に彼の顔色が変わる。槍の異変が感触として伝わってきたのだ。
「おい、あんたこの槍に何をした?」
怖い顔で訊ねるオーランに、エイナは強張った笑みを返した。
「この槍は制御を失って暴走しています。
限界を超えた魔力を封じられて、自己保全のためにそれを一気に放出しようとしています。
エルフの呪文がどこまで強力な魔法を埋め込んでいるのか分かりませんが、最大威力をぶち撒けるでしょう。
もう私たちの安全は保証できません。後は防具の性能を信じましょう!」
「上等だ!」
オーレンは不敵な笑いを浮かべ、エイナとともに槍を一気に突き下ろした。
* *
炎の戦斧を振り回し、魔龍の首と乱戦を続けるドワーフの戦士たち、空中に浮揚して、もう一方の頭に連続して火球を撃ち込むカー君、壁際のシルヴィア、そして防御壁の陰で戦況を見守っているユニとオオカミたち。
全員が、突然に起こった白い光の爆発によって、視界を奪われた。
エイナと戦士団長が、渾身の力でねじ込んだ氷の槍は、魔龍の内部で飽和状態に陥った魔力を一気に解放した。
エイナによって送り込まれた過剰な魔力は、魔法の武器を暴走させ、一切の制御は吹き飛んでいた。
本来なら継続使用が可能となるよう、一回の魔法に費やされる魔力には制限がかけられていた。
それは、強力すぎる魔法の反動で、使用者に危害を及ぼさないための安全装置でもあった。
その歯止めが失われたのだ。
放出された膨大な魔力は、最上級の氷結魔法を実現させた。
それは対象を低温の限界、絶対零度の世界へ引きずり込む恐るべき魔法であった。
あらゆる粒子が運動エネルギーを失い、完全に沈黙する死の世界である。
魔龍の体内は、千度に近い高温で満たされていた。ドロドロの溶岩と同じ温度だ。
熱とは粒子の運動エネルギーにほかならない。
それがいきなり停止したのだ。
地中の大圧力にも耐える魔龍の強靭な外殻が、体積の急速な縮小でべこんとへこみ、次の瞬間、崩壊した。
生物ではあり得ない魔龍の理不尽な体構造は、その核となる悪意によって保たれていた。
その本質は、恐怖や嘆き、恨み、妬みといった負の感情が澱のように地中に引き込まれ、生ある者への無限の敵意として凝り固まったものだ。
それはあくまで観念的な存在であったが、絶対零度の魔法はそれすらも黙らせた。
核を失った魔龍は、もはや腐ったヒュドラの屍に過ぎなかった。
数千年の時を経た死体は、あっという間に崩壊し、塵と化して消え去ったのである。
魔法武器が暴発させた絶対零度の魔法は、魔龍の体内で炸裂したことが幸いした。
強靭な外殻がわずかな時間ではあったが、魔法の影響を外部に漏れることを防いでくれたのだ。
それでも、至近距離にいたドワーフの戦士たちは、全員が意識を失ってその場に崩れ落ちた。
少し離れた防御壁の内側にいた予備戦力のドワーフたちは、視界が回復すると同時に飛び出し、倒れた仲間たちを引きずって安全地帯に避難させた。
ユニとオオカミたちも仲間の救出に向かったが、魔龍の背中にいたはずのエイナとオーレンの姿はどこにもない。
「二人を探して!」
ユニはオオカミたちに悲鳴混じりの指示を出した。
すでに魔龍は塵となって消え去り、魔法の効果も失われていた。
オオカミたちは魔龍が存在していた地面に鼻を近づけ、しきりに臭いを嗅ぎまわった。
だが、鋭い嗅覚を持つ彼らでも、エイナたちの行方は掴めない。
その代わり、ライガが隧道の壁際で倒れていたシルヴィアの軍服を咥え、ユニのもとへ連れてきてくれた。
ユニはしゃがみ込んで彼女の耳の下に指を当て、顔に頬を寄せた。
少し弱ってはいるが、指先には脈動が伝わり、鼻からは暖かい息が洩れていた。
ユニは仰向けになったシルヴィアの頭を膝の上に乗せ、その頬を平手で軽く叩いた。
「シルヴィア、しっかりしなさい!」
ぺちぺちと頬を打ち続けると、シルヴィアの目蓋が震え、目が開いた。
「あたしが分かる?」
軽く揺さぶりながら訊ねると、彼女は小さくうなずいた。
うつろだった目に光が戻り、焦点が定まってくる。
「エイナとオーレン、それとカー君がどうなったか分からない?
白い光が爆発した時、何か見なかった?」
シルヴィアは答えようと口を開けたが、とたんに激しく咳き込んだ。
声がうまく出せない彼女は、のろのろと腕を上げ、上を指さした。
「え?」
ユニは間抜けな声を出し、つられるように上を見上げる。
隧道の高い天井には、太陽石が等間隔に配置されていたが、かなり暗かった。
その天井から、何か黒っぽい塊りがゆっくりと下降してきた。
「何?」
ユニは思わず立ち上がった。
その拍子にシルヴィアの頭が地面に落ち、後頭部をしたたかに打った彼女は、呻き声を上げて頭を抱えた。
空から降りてくる物体は、下から見上げているせいか、逆光で正体がよく掴めない。
しかし、ゆっくりと近づいてくるにつれ、それがカー君であることが分かった。
いや、カー君だけでない。カーバンクルの身体には、エイナとオーレンがしがみついていた。
じれったい時が過ぎ、カー君はようやく地面に降り立った。
その途端、カーバンクルの声がユニの頭の中に響く。
『あ~、びっくりした!
あれ、何でシルヴィアはごろごろ転がっているの?』
エイナとオーレンの意識はあったが、目の焦点が合っておらず、ユニが呼びかけても反応がなかった。
どうやら、まだ目や耳の感覚が戻っていないようだ。
ユニはカー君の首根っこを鷲掴みにして、がくがく揺さぶった。
「呑気な声出してないで、説明しなさい!
一体、何があったの?」
カー君は乱暴な扱いに涙目となった。
『僕だってよく分からないよ。
何か、いきなり魔龍の上で光が爆発して、エイナとドワーフが下から吹っ飛んできたんだ。
僕はその巻き添えを喰って、一緒に天井まで叩きつけられたんだよ。
二人がしがみついてくるもんだから、浮かんでいられなくて降りてきたの。
ねえ、魔龍はどこに消えたの?』
どうやら耐冷仕様の魔法防具は、エイナとオーレンを守り切ったらしいが、凄まじい魔法の反動によって、弾き飛ばされてしまったのだろう。
ユニはカー君の首から手を離し、その場にへたりこんだ。
そして、乾いた笑い声を洩らした。
「魔龍の身体は、とっくに腐れ果てていたのよ。
〝灰は灰に、塵は塵に、土は土に〟って言うじゃない? 魔龍は土に還り、哀れな魂は昇天したわ。
まぁ、行き先が天国か地獄かは、知らないけどね」