三十四 犠牲
ユニたちの視界を遮っていた炎の壁が、ようやく消え去った。
だが、魔龍は二つの口から、なおも炎を吐き続けていた。ドワーフたちを完全な消し炭にしてやる、という覚悟を決めているかのようだ。
いくらドワーフの防具が優秀でも、あの灼熱地獄の中ではとても生きていられないはずだ。
鎧と兜が全身をくまなく覆っているわけではないし、そもそも息が続かないだろう。
わずかでも熱気を吸いこんだら、気道も肺胞も一瞬で焼け爛れ、窒息死するのが目に見えている。
『全滅……?』
安全な後方で見守っていたユニも、エイナもシルヴィアも、心の中でそう思っていた。
だが、すぐ側に立っている護衛の若いドワーフは、何かを期待し、食い入るような目で前線を見詰めている。
そして、信じられないことが起きた。
炎の塊りの中から、隧道を震わせるような雄叫びとともに、大柄なドワーフが飛び出したのだ。
「何で生きてるのよ!」
思わず叫んだシルヴィアに、若いドワーフは誇らしげな笑みを浮かべた。
「防具にも魔法が封じられているからです。
武器工房が優れた魔法武器を作れば、防具工房はその攻撃に耐えうる魔法防具を作ろうとする。そうやってお互いを高め合ってきたんですよ。
魔法武器は威力の高い炎系の武器が多いですから、防具の方も炎に対する防御力がことさらに強い。そうでなければ、俺たちはとっくに全滅していたはずです」
彼は早口でそう説明しながらも、戦士団長オーレンの突撃から片時も目を逸らさなかった。
恐ろしい形相をした黒い面頬をおろしたオーレンは、放たれた矢のような勢いで魔龍の懐に飛び込んでいた。
片刃の戦斧がきれいな半円を描き、長い首の付け根に叩き込まれた。
バチィッ!
何かが破断するような音が響き、魔龍の鱗が飛び散った。戦斧が肉に喰い込み、吹き出した毒の血は一瞬で凍りつき、戦斧の刃に赤い氷柱となって垂れ下がる。
斬撃と同時に、口から吐かれていた炎が止んだ。
傷口は凍結し、そこから周囲の鱗に白い霜が広がり、見る間に首元から胸、前脚、そして二本の首と頭部まで真っ白になった。
魔龍の上半身が凍りつき、完全に動きが停止したのだ。
動きを止めた魔龍の前に、まだ残っている炎を踏みにじって、十数人の戦士たちがその雄姿を現した。
彼らは戦士団長の一撃が合図となったように、おろした面頬の下から怒号を上げ、一斉に突撃を開始した。
オーレンは凍りついた魔龍の血肉ごと、戦斧を力任せに引き抜くと、再び大きく振りかぶり、第二撃を片方の首に叩きつけた。
赤黒い鱗が華を散らすように飛び散り、切り裂かれた生々しい傷口が一瞬で凍結し、パキパキと音を立てる。
ただ、戦斧の刃は肉に深く喰い込んではいるものの、首を切断するまでには至らない。
オーレンの攻撃の間に、魔龍に殺到した戦士たちが、それぞれの戦斧を所かまわず叩き込んだ。
戦斧の刃が硬い鱗と激突すると、轟音と爆発が連続して起こり、爆炎が魔龍の身体を包んだ。
戦士団長の戦斧と違い、炎を宿した武器の攻撃は、魔龍にほとんどダメージを与えられない。
それでも、ドワーフの強靭な背筋と膂力で叩き込まれる強烈な打撃に、爆発の圧力が重なり、魔力の巨体がじりじりと後退していく。
魔龍は自由が利く後脚の爪を立て、必死で踏みとどまろうとするが、数に勝るドワーフたちのしゃにむな攻撃を支え切れない。
オーレンは部下たちに戦いを任せ、その場から離れた。後方から飛び出してきた予備隊のドワーフに戦斧を渡し、代わりに槍を受け取った。
戦士たちの攻撃による衝撃と爆発で、魔龍の上半身を覆った霜や氷が砕け散り、怪物はどうにか動きの自由を取り戻した。
まだ炎が吐けないのは、氷結魔法の影響が抜けきってないせいだろう。
こうなると、魔龍は長い首を振り回すしか攻撃手段がない。
片方の首がぐにゃりと曲がって後退し、鞭のように地上すれすれを薙ぎ払った。
ドワーフ戦士たちは、それを避けずに真正面から受け止めた。
向かってくる首に対し、一斉に戦斧が振り下ろされ、次々と爆発が起きる。
刃から噴出する高熱と炎は、魔龍に痛手を与えないものの、爆発による衝撃波は明らかな効果があった。
ドワーフたちに叩きつけられた魔龍の首は、爆炎で勢いを殺され、彼らを弾き飛ばすことができない。
重心の低い戦士たちは腰を落とし、丸太で殴られるような衝撃に耐え切り、無茶苦茶に戦斧を振り下ろし続けた。
もはやただの殴り合いである。
どうせ戦斧の刃は通らず、封じられた魔法の効果も薄いのだ。物理的な打撃だけが頼りだった。
彼らは金属の柄で突き、拳で殴り、兜で頭突きを見舞った。面頬をおろしてなければ、噛みつく者もいたに違いない。
しかし、魔龍も狡猾だった。
片方の首を囮にし、戦士たちを狂ったような興奮状態に陥らせておいて、もう一方の首がドワーフたちの背後から襲いかかったのだ。
平べったいトカゲのような頭部が大きく口を開き、毒を秘めた牙を剥き出しにして戦士の背中に迫った。
その眼前に、戦線に復帰した戦士団長のオーレンが立ちはだかった。
彼は身体をぶつけるように前に飛び出し、手にした槍を襲ってくる魔龍の口中に突き出した。
目の眩むような青白い光が輝き、ひび割れのような稲光が走り、一瞬遅れて雷鳴が轟いた。
魔龍は顎が外れたようにだらんと口を開け、だらだらと唾液を垂らしている。
口も喉も感電して痺れ、苦悶の悲鳴も出せず、ただ頭を潰された蛇のように首をぐねぐねとのたくらせた。
オーレンが振るった槍には、雷系の魔法が封じられていたらしかった。
鱗で守られていない生身の口中で、まともに雷撃を味わった魔龍は、戦闘の不利を悟ったのか、身体をぐるりと反転させて逃走の態勢に入った。
「深追いはするな!」
オーレンが怒鳴ったが、頭に血が上っている戦士たちに、その声は届かない。
あるいは至近距離での凄まじい雷鳴に、鼓膜をやられていたのかもしれない。
戦士たちは無防備となった魔龍の背後に殺到し、口汚い罵声を浴びせかけた。
そのうちの一人が、最後にもう一撃喰らわせてやろうと、戦斧を大きく振りかぶった。
その時、身体を反らせ、がら空きとなった胴に、魔龍の太く短い尾が叩きつけられた。
不意打ちを喰らったドワーフは、吹っ飛ばされて二、三メートルも宙を舞う。
魔龍は素早く振り向いた。感情のない爬虫類の目に、ずる賢い笑いの影が浮かぶ。
そして長い首を伸ばし、空中で戦士の身体を口で受け止めた。
長く鋭く牙が、鎧で防護されていない下半身にがっちりと喰い込み、鮮血が溢れ出て、魔龍の口からだらだらと流れ落ちた。
口から上半身をはみ出させたドワーフは、苦痛に顔を歪めながら、敵の鼻面を殴りつけた。
「貴様ごときに、この俺が……」
その喚き声が最期の言葉だった。
魔龍は首を縦に振って、ドワーフを空中に放り上げて半回転させた。
そして、頭から落ちてくる獲物をばくりと受け止め、喉を膨らませて呑み込んでしまったのだ。
「レグリン!」
戦士の誰かが犠牲者の名を叫んだ。それは一瞬の出来事で、彼らは何もできなかった。
魔龍は満足したように目を細め、馬鹿にしたように戦士団に視線を送ると、ゆうゆうと立ち去っていった。
ずんずんという足音が遠ざかっていく中で、戦士たちは武器を手からだらりと下げ、薄暗い隧道の奥を睨みつけた。
二段目、三段目の鉱滓壁の陰に身を潜めていた後詰の兵士たちが、一斉に飛び出していった。
戦士団長のオーレンは振り返ると、全員にてきぱきと指示を出す。
「怪我人の応急手当と、救護所への搬送を急げ!
自力で歩ける者は、戻って食事を摂ったら休め。午後の襲撃まで五時間しかないぞ! 予備隊は装備の撤収!
見張りに選別されている者たちは、ただちに配備につけ!」
戦ったドワーフたちは、重い足取りでぞろぞろと引き揚げていく。
その中の一人が、オーレンにひしゃげた兜を渡した。
魔龍に喰われたレグリンのものだ。
「ザイオン!」
オーレンが手にした兜を睨みつけたまま、低い声を発した。
帰っていく戦士団のの中から、一人のドワーフが外れて団長のもとへと近づく。
「お前はレグリンと一番仲がよかったな?」
ザイオンはうなずいた。
「はい。ガキのころからの幼馴染です」
「……そうか。
俺はこれから、レグリンの家族に奴の戦死を伝えに行く。付き合え」
「分かりました」
戦士団長とザイオンは、連れだって仲間たちの後を追った。
最後尾で立ち尽くしているユニたちとすれ違う時、オーレンはぼそりとつぶやいた。
「これで喰われたのは、二十一人目だ。
どうだ、俺たちの戦いは……満足したか?」
三人の女たちは、何も言葉を返せなかった。
* *
グリンの家へと帰る道すがら、当然だが会話は弾まなかった。
「ライガ、あの魔龍をどう見た?」
ユニは自分の相棒に意見を求める。
『どうもこうもない。ユニが事前に言ったとおりだよ。
俺たちじゃ、あいつに歯が立たない。
何かできたとしても、せいぜい牽制程度だな』
「そう。カー君はどう?」
『右に同じ。あの魔龍の吐く炎は魔法じゃないから、僕には撥ね返せない。
こちらが遠距離から火球を吐いたとしても、多分ダメージを与えられないだろうね。
ドワーフたちの戦斧が起こす爆炎は、僕の最大威力を上回っていたと思う。
僕にできることと言ったら、ほかには宙に浮くことくらいだけど、何の役にもたたないだろうね』
ユニは幻獣たちの見解を聞いて、深い溜め息をついた。
「そうよね~。あんたたちが何もできないとしたら、あたしとシルヴィアはそれこそ役立たずだわ。
となると、期待できるのは……やっぱりエイナだけね」
全員がエイナの顔を覗き込んだ。
いつもなら顔を赤くして口ごもるところなのに、彼女は何か深い考えに沈んでいるようだった。
短い沈黙の後、エイナは口を開いた。
「戦士団長さんが使った魔法武器……最後の雷槍も一定の効果がありましたけど、やっぱり最初の氷結の戦斧が一番効いていたような気がします。魔龍の鱗を砕いたのは、あの武器だけでしたから。
でも、どうして途中で雷槍に替えたんでしょう?
ひょっとしたら、あの武器には何か弱点があるのかもしれません……」
エイナはそう言って、また考えに沈みそうになったが、慌てて首を振った。
「えと、あの……済みません! これはグリンさんに訊けばいい話でしたね。
対魔龍の話ですけど、私の氷結魔法でも、ある程度の効果は期待できると思います。
ただ、それはあくまで魔龍の行動を、一定時間阻害する程度だと思います。
やはりあの強靭な鱗と、脆弱な内臓を守っている甲羅みたいな外骨格を突き破らないと、魔龍は倒せないような気がします」
「つまり、ドワーフの魔法武器のように、魔法と武器の連携攻撃が必要ってこと?」
ユニの質問に、エイナは深くうなずいた。
「はい。魔龍の体内に直接魔法が撃ち込めれば、勝機はあると思います」
「なるほどね。……ってことは、グリンの親爺と相談かぁ……。
あいつもかなり無理しているようだけど、これ以上ドワーフが喰われるのは見たくないわ」
ユニの言葉は、半ば独り言に近かった。
* *
行きと同じように、帰りもかなりの時間がかかり、グリンの家に着いた時には、もう昼を回っていた。
重苦しい空気を引きずって扉を開けた三人を、暖かい空気と食事の美味しそうな匂いが迎えてくれた。
現金なもので、落ち込んだ気分は吹っ飛び、三人は猛烈な空腹を覚えていた。
メイリンが台所から顔を出し、「お帰り。すぐに昼食を出すからね」と頼もしい言葉で、彼女たちの労をねぎらった。
双子の姉妹はどこかに出かけているらしい。ユニたちはめいめいの席に座り、運ばれてくるであろう料理を待つこととした。
「その前に……」
ユニがごほんと咳ばらいをした。
「あんた、工房へ戻ったはずよね。
どういう風の吹き回しで、呑気にここでお昼を食べているのかしら……ねえ、ズリン?」
彼女の言うとおり、ズリンは戦場までユニたちを案内した後、武器工房に帰ったはずである。
だが、彼の目の前には空になった皿が数枚積み重ねられ、なおも足りないとバスケットからパンを取り、口に放り込んでいるところだった。
ズリンは顎髭にパンくずをこぼしながら、悪びれる風もなく口を動かした。
「そいつはご挨拶だぜ、ユニ。
俺はあんたたちが帰ってくるのを待っていたのさ。
その間にメイリン姐さんにお昼を呼ばれたって、罰は当たるめえよ」
「あら、そんなにあたしに会いたかったの?
仕事をさぼって?」
「人聞きの悪いことを言うなよ。
グリンの親方が、あんたたちに訊きたいことがあるんだってよ。
それで俺が使いに差し向けられたのよ」
「グリンがあたしたちに?」
「おお、何でも急ぎの要件らしくてな。顔がおっかなかったぞ。
だが、俺にだって情けはある。昼飯が済むまで待ってやるから、安心しな」