三十二 めまい
シルヴィアは魔剣をズリンに返したが、手放すのがいかにも名残惜しそうだった。
「……あの、ズリンさん。もしこの剣を買い取るとしたら、いくらになるのでしょうか?」
おずおずと訊ねる彼女を、ズリンは笑い飛ばした。
「馬鹿を言うな! このクラスの武器を人間に売ったら、えらいことになるわい。
市に出すのはもっと威力の小さい物に限られとる」
「もちろんそうだとは思います。
ですから、これは例えばの話です。後学のために教えてください」
ズリンは顎髭をしごきながら首を傾げた。
「ふむ、そうさのう……相場としては金貨千五百枚ってところかな?」
「せっ……千五百ですか?」
「ああ。人間相手の市に出す魔法武器は、金貨三百から五百枚の値が付くのが普通だから、そんなもんじゃろう」
ズリンが答えた金額は、とてもシルヴィアに手が届くようなレベルではなかった。
彼女が軍の給与を一切使わずに貯め続けたとしても、三十年かかってやっと買えるかどうかだ。
とぼとぼと戻ってきたシルヴィアに、エイナはドワーフのお弁当を手渡した。
「そんな顔をしないで、これでも食べなさいよ。とっても美味しいわよ。
今度は私がやってみるね」
エイナは口にパンの残りを押し込むと、立ち上がってぱんぱんとお尻の土を払った。
彼女はズリンのもとに近寄ると、彼にもパンの包みを一つ渡し、自分も試してみたいと申し出た。
「おお、メイリンさんの弁当だな? こいつはありがたい!」
彼は気前よくエイナに剣を渡すと、嬉しそうに包みを開け、パンにかぶりついた。
時間からいって、昼食を済ませた直後のはずだが、膨らんだ腹にはまだ余裕があるらしい。
エイナは剣に刻まれた呪文を、顔を近づけてじっくりと調べた。
エルフ語はまったく読めなかったが、そこから魔力の波動がはっきりと感じられた。
柄を握る手にも、その熱量が伝わってくるような気がする。
感知魔法を使えない彼女ですらこれなのだ。おそらく勘のいい人間ならば、魔導士でなくともこの剣の凄さに気づくのではないだろうか。
エイナは剣を手に、濡れ筵を巻いた杭に歩み寄ろうとした。
挽肉パテのソースで口の周りを汚したドワーフが、その背中に声をかける。
「あんまり気合を入れすぎると、さっきの娘みたいに腰を抜かすぞ。
気楽にやることだな」
試し斬りの杭の前に立つと、エイナは呼吸を整えた。
彼女も魔導院ではトップクラスの成績を収めていたから、武術の腕もかなりのものである。
ただ、シルヴィアと比べてしまうと、どうしても見劣りがした。
技術的にはさほど変わりないが、基礎体力に絶対的な差があったのだ。
ドワーフの助言どおり、肩の力を抜いて自然体でいこう。
両手で剣を構えてみると、改めて軽さに驚かされる。
鮫皮(エイの皮)を巻いた柄は、吸いつくように手に馴染んだ。
エイナはふうと息を吐いて、すっと頭上に振りかぶった。
その途端、きーんという耳鳴りがして、視界が真っ白になった。
鼻の奥につんときな臭い匂いが広がり、下腹が絞られるようなきゅーっとした痛みが襲ってくる。
身体が痺れ、冷たくなっていくのが感じられた。
『あっ、貧血だ……あれ、始まったのかな?』
薄れていく意識の中で、そんなことを思った。
* *
「エイナ! ちょっとあんた、大丈夫?」
遠くの方からシルヴィアの声が聞こえてきた。
それがどんどん近くなってきて、最後には耳元で叫ばれているようで、うるさくて堪らない。
こめかみがズキズキと痛んだ。
エイナはぱちりと目を開いた。シルヴィアの心配そうな顔が覗き込んでいる。
「あれ? 私どうして……」
ぼんやりとつぶやいた彼女は、自分が貧血で倒れたことを思い出し、がばっと身を起こした。
慌てて周囲を確認すると、ズリンとイーリン、エーリンの姉妹もすぐ傍で彼女を囲んでいる。
「大丈夫です! ただの貧血で……。えとあの、顔を洗ってきたいのですが、トイレをお借りできませんか?」
訊ねられたズリンは、顎髭で工房の事務室の方を示した。
「すぐ戻りますから!」
エイナはそう言い残し、ふらつく足で事務室へと向かった。
トイレを借りて個室で確かめてみると、下着は汚れていなかった。
考えてみれば、前回のが終わったのは十日ほど前のことだから、始まったとすれば時期が合わない。
下腹の不快な鈍痛も、いつの間にか消えていた。
『気のせいだったのかしら?』
しかし、内臓を引きずり出されるような痛みと吐き気は、鮮明に記憶に残っている。
エイナは釈然としないまま、冷たい水で手と顔を洗った。
「済みませんでした。もう大丈夫です」
戻ってきたエイナはズリンにそう詫びると、彼が拾ってくれていた剣を受け取った。
「今日は止めておいた方がいいんじゃない?」
シルヴィアは心配したが、エイナは首を横に振り、彼女たちを後ろに下がらせた。
位置につくと気合を入れ直し、再び大上段に振りかぶる。
何となく柄から流れ込む熱量が上がった感じがしたが、手が冷たいせいだろう。
目の前の杭を両断するイメージを浮かべながら、エイナは剣を袈裟懸けに斬りおろした。
ぼんっ!
小さな爆発が起き、藁杭はあっさりと切断され、斜めに尖った杭の先が地面に突き刺さった。
残った方の切断面からは白い蒸気が上がり、かすかに焦げ臭さが漂った。
エイナの後方から、パチパチという拍手の音が聞こえた。
「おお、巧いもんじゃ!
さっきの嬢ちゃんより地味だが、魔力の制御はお前さんの方が上だな」
「エイナは魔導士なんだから、当たり前じゃない」
ズリンの隣に立っていたシルヴィアが口を尖らせ、頬を膨らませた。
エイナは少し上気した顔で剣をズリンに返した。
無心で剣を振り抜いたせいか、身体がぽかぽかと暖まり、不快な記憶はさっぱりと消えていた。
確かにドワーフの魔法武器はすばらしかった。
あらかじめ呪文と魔力を封じ込めることによって、詠唱を不要とするシステムは、呪符や魔法陣という形式で人間世界にも存在する。
しかし、この武器はそれらより遥かに使い勝手がよかった。発動条件がとにかく簡単なのだ。
「二人とも気が済んだ?」
イーリンとエーリンが、少しじれたようにエイナたちの顔を見上げた。
シルヴィアとエイナは初めての体験に興奮していたが、この双子にとって魔法武器など珍しくもないから、試し斬りは退屈だったのだ。
「じゃあ、街を案内するね! 美味しい屋台もあるんだよ!」
エイナとシルヴィアは、挽肉パテを挟んだパンを一個食べただけで満腹だった。
ドワーフの娘たちは、一人で三個ずつ食べていたはずだが、それでもまだ足りないらしい。
彼女たちは事務室に顔を出し、徒弟長のデュリンに礼を言ってから、武器工房のエリアを去った。
ズリンは試験場の前で、修理武器の仕分けを続けながら、その後姿を見送った。
彼は長い髭をしごきながら、傍らに置いたブロードソードに手を伸ばした。
シルヴィアとエイナが試し斬りをした魔剣である。
ズリンは胡坐をかいたまま、剣の重さを確かめるように何度も素振りをくれた。
殺意のない素振り程度では、魔法が発動しないのが、魔法武器の利点の一つである。
彼は四回、五回と剣を振った後で、刀身を丹念に点検した。
そして、どうにも納得いかないといった顔で独り言を洩らした。
「おかしいなぁ……俺の気のせいか?」
* *
イーリンとエーリンの買い食いに散々付き合わされたあげく、エイナたちが家に戻ったのは夕方だった。
扉を開けると、暖かい空気とともに、美味しそうな匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。
双子のドワーフ姉妹は低い鼻をひくつかせた。
「うわぁ、ご馳走の匂いだ!
お母ちゃん、何を作ったの? あたしたち、もうお腹ぺこぺこだよ!」
二人は歓声を上げて奥の台所に消えていった。
残されたエイナとシルヴィアは、思わず顔を見合わせた。
ドワーフの街を案内されている間、胸やけを感じていたエイナたちを尻目に、双子は絶えず何かを食べていたのだ。
どうやったら〝お腹が空いた〟のだろうか?
「お帰り。ドワーフの武器はどうだった?」
居間のテーブルではユニが椅子にもたれ、ひとり手酌で焼酎を飲んでいた。
エイナとシルヴィアは、その向かいに座った。
「凄かったですよ。あの剣があれば、オークも一撃で倒せますね!
ああっ、あたしが大富豪だったら、絶対に買うんだけどな~」
シルヴィアは少し興奮気味に報告し、悔しそうにテーブルに突っ伏した。
「私はドワーフたちの封印技術に感心しました。
もし時間があったら、実際の作業現場を見て、学んでみたいですね」
エイナの方は、生真面目に答える。
「うん、その辺はあんたたち次第ってことになるわね」
ユニは焼酎をちびりと口に運んで、小さく笑ってみせた。
「どういう意味でしょうか?」
エイナが首を傾げて訊ねる。
「言葉どおりよ。
二人の働き次第で、その望みが叶うかもしれないってことよ」
「えと、あの……それって、つまり私たちに魔龍と戦えっていうことですか?」
「ご明察!
怪物がエルフの森へ抜ける隧道に居座っているのよ。
あたしたちが使命を果たすには、ドワーフと協力して魔龍を倒すしかないじゃない。
今回の相手は、うちのオオカミたちじゃ歯が立ちそうもないわ。だったら、若いあんたたちにしっかり働いてもらわなきゃね」
「なるほど、さすがはユニ先輩です!
あたしとカー君が、そのふざけた龍の出来損ないを倒せば、お礼として武器や魔石を貰えるかもしれませんよね?
あたし、頑張ります!」
シルヴィアが椅子から立ち上がりかけるのを、エイナが服を引っ張って押しとどめた。
「シルヴィアったら、落ち着きなさい! 相手はゴブリンじゃないのよ。
戦うにしたって、まずは偵察して、敵の力と対策を分析するのが先だわ」
エイナの言葉に、ユニは満足そうにうなずいた。
「そのとおりよ。明日は戦場見学としゃれこみましょう。
確か、エイナは氷系の魔法が得意だったわよね?
ドワーフは直接的な攻撃魔法を持っていないから、あなたの力を見つければ、戦闘参加の許可が出ると思うわ。
グリンが帰ってきたら、頼んでみましょう」
噂をすれば何とやらである。外からどすどすという足音が響いてきた。
ノックもなしに扉が開き、グリンがぬっと顔を出した。
ドワーフは酒を吞んでいるユニをひと目見るなり、雷のような大声を上げた。
「てめえ、こらユニ! まさか三十年物を呑んでるんじゃあるめえな?」
彼は怒鳴りながら家の中に入ってきて、ユニから杯を奪おうとした。
その鼻先に、いつの間に抜いたのか、ナガサの鋭い切っ先が突きつけられていた。
「それ以上近づいたら、あんたの鼻の穴が三つに増えるわよ。
それと、どさくさに紛れて人の乳を揉むんじゃないの、このスケベ親爺!」
ユニの物騒な声が低く響き、グリンは両手を上げて後ずさった。
「あたしが呑んでたのは、台所にあった焼酎よ。約束のお酒はこっち」
ユニはそう言って、足もとに置いていた背嚢からケルトニア酒の瓶を取り出し、テーブルの上にどんと置いた。
エイナとシルヴィアが、酒店の主人から礼として貰った三十年物である。
グリンは素早い動きで瓶を掠め取ると、赤子のように胸に抱え込んだ。
「おおおお、夢にまで見たぞ!
こんな上物、よく手に入れおったな。お前と初めて会った時以来じゃないか?」
ユニは苦笑しながら釘を刺した。
「あんた、よく十何年前のことを覚えているわね。
いいこと? その封を開けるのは、夕食まで待ちなさい!
それとも、メイリンや娘たちを働らかせておいて、自分だけ先に味わうつもりなの?」
「いや、俺は別に……」
ドワーフはぶつぶつ言いながら、やっと瓶を解放し、テーブルの上に戻した。
「分かればいいのよ。
それでね、グリン。今ちょうどあんたの話をしていたところなの。
あたしたち、魔龍退治に一肌脱ぐつもりなんだけど、取りあえずは明日、隧道の現場を見たいのよ。
戦士団長に話をつけて――」
「ダメだ、駄目だ! そんなことはできん!」
ユニの話を途中で遮って、グインが大声で喚いた。
「この件は、お前たち人間には関わりない。わしらドワーフの問題だ!
そんな恥ずかしいことは、天が許してもご先祖に申し訳が立たん!」
ユニはテーブルにぐいと身を乗り出し、グリンの髭面に顔を近づけた。
彼女の口から、甘ったるい焼酎の臭いのする息が吐き出された。
「ドワーフの問題?
でも、もう二週間も膠着しているんでしょう?」
「いや、それはそうだが……」
「自前の魔法武器が効かないうえに、エルフの助けも呼べずに困っているんでしょう?」
「う、うむむむ……」
ユニはグインの顎髭をぐいと掴むと、無理やりエイナの方に顔を向けさせた。
「このエイナって娘、魔導士だって紹介したでしょう。
実はね、氷系魔法が得意で、しかも結構凄いのよ?」
「な、何! そりゃ本当か?」
「嘘なんかついて、どうするのよ。
熱耐性のある怪物が、低温に弱いのは世界の常識よ。一発、魔法を撃たせてみても罰は当たらないわ。
ご先祖様にはちょとの間、よそ見をしてもらえばいいじゃない?」
「そっ、それもそうだな……いや、しかしだな!」
グインを十分に揺さぶったと確信したユニは、ここでさっと引き揚げた。
そのついでに、テーブルの上に戻されたケルトニア酒を奪い返す。
「あっ、ユニ! それは俺の――」
「これはね、あたしが持ってきたお土産よ。
家族揃ってテーブルについてから渡すのが、筋ってものでしょ?」
グインの説得はもう一息だった。
十分にじらした後で、この極上の酒を注いでやれば、きっと気分も変わることだろう。
ユニは上機嫌で瓶を背嚢の中にしまい込み、足もとで寝ていたライガにその番を申し渡した。
「いい、ライガ。もしも怪しいドワーフがこれを盗もうとしたら、遠慮なく噛み殺していいからね!」