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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第四章 魔法王の森
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二十六 棘

「まずは赤斑について検討してみましょう」

 シルヴィアは冷静に提案した。


「虫刺されじゃないの?」

 エイナが取りあえず浮かんだ可能性を挙げた。


「ないわね。

 この屋敷の衛生状態から考えて、ノミやダニがいるとは考えづらいわ。

 胸は露出しないでしょうから、蚊という線もないと思う。

 第一、刺し傷が見つからないわ。それはエイナも確認したでしょう?」

「刺されてから時間が経過して、傷が治ったのかもしれないわ」


 シルヴィアは再び首を横に振る。

「それなら、肌の赤みだって消えているはずよ」

「う~ん……じゃあ、眠りに落ちる前にできた打ち身だとしたら?

 ほら、うっかり机の角にぶつけたとか」


「内出血ってことね。

 それにしては、赤くなっている範囲が小さすぎると思わない?」

「そうよねぇ……」

 エイナは言葉に詰まった。彼女は思いつく可能性を列挙したに過ぎないが、シルヴィアの反論は明快で食い下がる余地がない。


「あとは……。そうね、心理的な疑似身体反応っていうことは考えられない?」

「つまり思い込みってこと?」


「そう。実際は経験していないのに、この子は何かに刺されたと信じ込んでしまった。

 だから傷口が存在しないのに、毛細血管が充血した。これなら説明はつくんじゃないかしら?」

「なるほどね。それはあり得そうだけど……いろいろと疑問が残るわね。

 イルマちゃんが倒れてから、もう半年が過ぎているのよ。

 思い込みっていうのは、意識があればこその現象でしょう?

 これだけの時間、その疑似反応が持続するのは不自然だわ」


『そのことなら、僕が説明できるよ』

 二人の脳内に言葉が響いた。

 彼女たちは、同時にカー君の方を振り返る。


 カー君は少し自慢げに話し始めた。

『サンドマンは〝眠りの砂〟を使うけど、その砂が持つ魔力は、あまり強くないんだ。

 相手の目に砂を入れると、目が開けていられなくなるっていうのは、魔法でも何でもないからね。

 その砂に催眠効果があるのは確かだけど、眠ってしまえば魔力の影響は消えてしまうんだ。

 妖精の砂は、もともと身体が眠りを欲している人の背中を、ちょっと押してやるだけのものなのさ。

 だからサンドマンに眠らされても、朝になればちゃんと目を覚ますんだね』

「じゃあ、イルマちゃんはどうして目覚めないの?」


『彼女の場合は、〝時の砂〟が使われているね』

「何それ?」


『サンドマンは大きな砂袋をかついでいるけど、それとは別に、腰に小さな砂時計をぶら下げているんだ。

 その時計の砂を使うと、相手の時間を止めることができる。

 これは〝眠りの砂〟と違って強い魔力を帯びていて、とても貴重なものだから、彼らもめったに使わないんだけどね。

 この子は眠りに落ちた後に、時を止められちゃったんだよ。だから飲まず食わずで平気なんだ。

 身体の状態は変わらないから、時が止まった時点で赤斑があったとすれば、どんなに時間が経っても消えないのさ』


「ちょっと待って、カー君」

 エイナが手を挙げた。


「時が止まっているなら、仮死状態みたいになるんじゃないの?

 この子は呼吸を続けているわ」

『ああ、それは僕の説明の仕方が悪かったかな。

 実を言うと、どんなに強力な魔法でも、完全に時を止めることは不可能なんだよ。

 時の流れは大きな川みたいなもので、その圧力を食い止めるには、膨大な魔力が必要だからね。妖精の力じゃとても無理さ。

 〝時の砂〟は、真っ直ぐな川の流れを変えて、円を描くようにつないでしまうんだよ。時間をループさせるんだね。

 だからこの女の子は、同じ動作を繰り返しているだけなんだよ』


 エイナは「へえ~」と感心したが、シルヴィアは疑わしそうな顔をしている。

「あんた、ずいぶんと詳しいけど、どこでそのことを知ったの?

 サンドマンは別の世界の住人で、見ることも触れることもできないって、自分で言ってたじゃない」

『もちろん、こっちからはそうだよ』


 カー君は涼しい顔で答えた。

『でも、彼らと僕らの世界は、まったく別ってわけじゃなくて、微妙に重なっているんだ。

 そうじゃなかったら、サンドマンがこっちの世界の生き物に手出しできないでしょ?

 彼らは自分の意思で、この世界に顔を出すことができる。もちろん、人間に姿は見せないけどね。

 でも妖精は、僕ら精霊族と近い関係にあって、割と仲がいいからね。出てきた時には僕らと普通にお喋りするし、姿も見せてくれるんだよ』


「それを早く言いなさいよ!

 それで、サンドマンって本当はどんな姿をしているの?」

『う~ん、妖精は自分の望むとおりに姿を変えられるから、見た目にあまり意味はないんだけどなぁ……。

 僕が会ったことがあるサンドマンは、小さな女の子の姿をしていたよ』


「ちょっと、シルヴィア。話が脱線しているわよ。

 疑似反応の可能性を検討していたこと、忘れたの?」

「そ、そうだったわね。

 ええと、時間経過に関する疑問は解決ってことにしましょう。

 そうなると、イルマがどうして疑似反応を起こしたかが問題ね」


「そうよね。授業で習った時、先生が話してくれたんだけど……。

 双子の片方が怪我をすると、離れた場所にいるもう一人が同じ場所に痛みを感じることがあるそうよ。聞いたことない?」

「ああ、確かに」


「それって極端な例だけど、その人がとても身近で大切にしている存在が傷つけられるのを見ると、同じような現象が起こるらしいの。先生は情動的共感性に伴う身体反応って言ったわ。

 しかも、その対象は人間だけに限らず、ペットのような動物や、人形なんかでも起こりうるって――」

 エイナの話はそこで急に止まった。一瞬、二人は顔を見合わせ、テーブルの上に置かれた人形の元へ駆け戻った。


 人形といっても、身長が六十センチほどもある大きなものである。

 着せられている衣服も、ちゃんとボタンをかけている。

 エイナは小さなボタンに手こずりながら、一つひとつ外していった。

 高級品らしく、手足は球体関節で動かせるようになっていたので、まるで赤ちゃんの服を脱がしているようだった。


 イルマ手編みのカーディガンを取り、職人が縫った暗紅色のドレスも脱がすと、総レースのシュミーズとペチコートが現れる。

 手触りのよい絹でできていて、エイナが着ている肌着よりも高そうだった。


「まさかこの年になって、人形を裸に剥くとは思わなかったわ。

 すごい罪悪感があるんだけど」

 エイナがぶつぶつ文句を言って、小さなシュミーズを顔までたくし上げる。


 頭部は白磁で焼成されているが、身体は紙くずを突き固めたような素材らしく、その表面には仔山羊の皮が張られていた。

 子どもの体型を模しているのだろうが、イルマと同じように、胸だけはわずかに膨らんでいた。


「あった!」

 エイナとシルヴィアは同時に叫んだ。

 イルマの胸の赤斑とまったく同じ位置に、ごくごく小さなとげが突き刺さっている。

 二人の後ろから覗き込んでいたジョセフィンも、両手で口を覆って「まぁ!」と声を上げた。


 シルヴィアは人形からシュミーズを剥ぎ取って広げ、舐めんばかりに顔を近づけた。

「胸のあたりに小さな穴が空いているわ」

 彼女はそうつぶやくと、ドレスも同じように調べたが、しばらくして首を振って顔を上げた。


「駄目、こっちは布地の目が粗くて分からない。

 でも、肌着に穴があるってことは、衣服の上から刺されたと見て間違いないわ。

 イルマちゃんは、自分の親友のように思っていた人形が、何かに刺されたのを目撃したのね。

 まるで自分が刺されたような痛みを感じて倒れたところに、サンドマンが砂を使って眠らせたってところかしら」


『うん、理屈はあってるね。

 〝時の砂〟は数粒振りかけるだけで人の体に入り込み、時を止めることができる。

 だけどその効果を発揮させるには、触媒として血が必要なんだ。

 それでこんな手の込んだことをしたのか……』

「どういう意味?」


『最初に言っただろう、これは妖精にとってはゲームだって。

 ゲームには、彼らなりのルールが存在するんだけど、その一つが〝絶対に人間を傷つけない〟ってことなんだ。

 もし人間側が謎を解いて勝利した場合、犠牲者は完全に元のままで返さなきゃならないでしょう?

 だから、子どもを傷つけて血を出させるわけにはいかない。

 それで表皮に近いところを充血させて、その血を利用したんだね』


「何か面倒臭いわね。

 とにかく、この棘を抜けば呪いは解け、あたしたちの勝ちってことだわ」

 シルヴィアは目を輝かせ、人形の胸に刺さった棘を指先で摘み、引き抜こうとした。


 しかし、抜けない。

 いくら引いても、小さな棘はびくともしなかった。

 力を入れようとすると、指先がすべってしまうということもあった。


「奥様、毛抜きがありましたらお願いします!」

 エイナの頼みに、ジョセフィンが慌てて子ども部屋から駆け出していった。

 すぐに彼女は息を弾ませて戻ってくる。


 シルヴィアは手渡された金属製の毛抜きで棘を摘み、ぐっと手に力を込めた。

 ところが、それでも棘は抜けなかった。

 彼女は大柄な上に、長年武術の鍛錬を重ねてきたから、並みの男よりも力がある。

 それなのに、である。


 これだけ力を入れれば、抜けないまでも途中でちぎれそうなものである。

 棘の長さは五ミリに満たず、それほど深く刺さっているわけでもなさそうだった。


「ねえ、シルヴィア。これって、何か魔法の力が働いてるんじゃないかしら?

 そうじゃなきゃ、不自然だわ」

 エイナの言葉に、シルヴィアは悔しそうにうなずいた。


「この棘を抜く方法を見つけ出すのが、本当の謎ってわけね。糞ったれ!」

 彼女は毛抜きを投げ捨てて呻いた。


「シルヴィア、言葉遣い!」

『シルヴィア、下品だよ!』

 エイナとカー君が、同時に非難の声を上げた。


      *       *


 事件の解決と、自分たちの勝利を確信した挙句、振り出しに戻されたシルヴィアたちは、言葉もなく脱力し、椅子に座り込んでいた。

 そんな娘たちに、ジョセフィンは慰めるような言葉をかけた。


「熱いお茶を淹れましょうね。

 甘い蜂蜜をたっぷり入れたら、元気も良い案も出るんじゃないかしら」

 彼女はそう言って、お茶の支度をしに席を立った。


 三人の中で、もっとも落胆したのは、母親であるジョセフィンのはずである。

 シルヴィアもエイナも、部屋を出ていく彼女の姿を見送りながら、自らを恥じた。

 自分たちが奥方に希望を与えるべきなのに、逆に励まされてしまうとは、とても情けなかったのだ。


「しっかりしましょう」

 エイナがぽつりとつぶやいた。

「ええ、そうね。諦めてなるものですか!」

 シルヴィアの声にも力が戻った。


「こんな時、ユニ先輩ならどうするかしら?」

「私たちが核心に迫ったのは間違いないわ。

 これがゲームだっていうなら、絶対に棘にかかった魔法を解く方法があるはずよ」


 シルヴィアはこくりとうなずいた。

「そうね、エイナの言うとおりだわ。

 少なくとも、あたしたちは棘という証拠を見つけたんだもの。

 まずは落ち着いて、じっくり調べてみましょう。

 ユニ先輩なら、きっとそうするはずよ」


 二人が方針を決めている間に、ジョセフィンが銀のお盆に茶器を載せて戻ってきた。

 奥方は優雅な陶器のカップを受け皿(ソーサー)の上に置き、小花模様のポットから順番にお茶を注ぐ。

 湯気とともに、華やかな薔薇の香りがエイナたちの鼻腔をくすぐった。

 さすがに名家である。よほど上等の茶葉なのだろう。


 それぞれにお茶を入ると、奥方はミルク入れからたっぷりの蜂蜜を注いだ。

 銀のスプーンでかきまぜると、鮮やかな紅色だったお茶が、たちまち黒く変色した(これは蜂蜜の鉄分と紅茶のタンニンが結合するためで、別に害はない)。


 勧められるままにひと口飲むと、熱くて甘く、冷えた指先がじんわりと温まってくる。

「この蜂蜜は、自家製なんですのよ。

 うちの庭師がミツバチを飼っていましてね、これは初夏に採ったアカシアの蜜なの。とても甘い香りがするでしょう?」


 ジョセフィンが柔らかな表情で窓の方を見た。

 二人もつられたようにその視線を追う。

 カーテンが開けられたガラス窓から、葉を落とした大きな木々の姿が見えた。

 多分、それがアカシアの木なのだろう。


「イルマもこの蜂蜜が大好きでしたのよ……」


 シルヴィアとエイナは、思わず顔を見合わせた。

「奥様、先ほどは醜態をお見せしたこと、お詫び申し上げます。

 あたしたちは諦めません。必ずお嬢さんを目覚めさせてみせます!」


 シルヴィアの真剣な眼差しに、ジョセフィンは目を細めて笑ってみせた。

「はい、期待しておりますわ。頑張ってください!」


      *       *


 奥方は気を利かせ、お茶と一緒に拡大鏡を持ってきてくれた。

 お茶を飲み終わった二人は、テーブルの真ん中に裸の人形を寝かせ、拡大鏡を手にしてじっくりと観察した。

 棘は細く、濃い飴色で、全体に艶があり、先になるにしたがって細く尖っている。

 そして、太い方の根もとには干乾びた何かの塊りがこびりついていた。


「木の棘じゃないわね。何かの虫の針……ってことは、ハチかしら?」

「ねえ、シルヴィア。これ、ミツバチの針だと思うわ」


「あら、エイナ。針を見ただけで分かるの?」

「ほら、根もとに変な塊りがついているでしょう?

 ミツバチの針って、逆毛みたいな〝返し〟があって、刺さると抜けないのよ。

 一度刺してしまうと、針と一緒に内臓が引きずり出されるから、ミツバチは死んじゃうの。

 私の育った辺境でも、ミツバチは普通に飼われていたから、よく覚えているわ」


「なるほどね。イルマちゃんが倒れたのは五月の末だそうだから、ちょうどアカシアの花の盛りだわ。

 ミツバチが窓から部屋に入ってきても、不思議はないわね」

 シルヴィアは拡大鏡から顔を上げた。


「で、どうやったらこの針が抜けるのかしら?」

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