二十四 眠り姫
「お酒を売ってもらえるのなら、何でもいたします。
ただし、私たちにできる範囲で、ですけど……」
エイナは慎重に答えた。
酒屋の主人は、そのエイナではなく、シルヴィアの方を向いた。
「いや、こいつは精霊使いのあんたじゃなきゃ、できない仕事だ」
「どういうことかしら?」
シルヴィアの顔には、少し警戒するような表情が浮かんだ。
「とにかく、頼みごとの内容を話してもらわないと、何とも返事をしかねますよ」
「いやいや、あんたの言うとおりだな。ちょっと長い話になるが、まぁ聞いてくれ。
実は、ある娘を救ってほしいんだ。と言っても、俺の孫娘の話じゃない」
店主はひとつ咳ばらいをしてみせた。
「うちの店のお得意さんで、クレイマン卿というお方がいる。このセレキアの評議員を代々務める、いわゆる名家のお血筋だ。
俺がまだ駆け出しのころの話だ。悪い奴に騙されて商売が立ちいかなくなってな、もう一家で首を括ろうか、というところまで追い詰められたことがあった。
その時にクレイマン卿が援助してくれたんだ。
たまたま卿がうちの店に立ち寄った時に、俺が勧めた酒を気に入ってくれてね。お屋敷への出入りを許してくれたばかりの頃だった。
あのお方は『お前の店が潰れたら、私が考案したカクテルが作れなくなるではないか』と言って、担保もないのに笑って金を出してくれた。
おかげで店はどうにか立ち直ったのさ。
あのお方は俺と家族の命の恩人ってわけだ」
「このクレイマン卿には、四人のお子さんがいる。
上の三人はもう成人して独立なさっているんだが、今から八年前、奥方がお嬢さんを産んだんだ。
歳をとってからのお子さん、しかもクレイマン家では初めての女の子ということもあって、それはもう卿も奥様も、目に入れても痛くないという可愛がり方だった」
「ところが、今から半年ほど前、そのお嬢さんが自分の部屋で倒れているのが発見されたんだ。
特に外傷はなく、呼吸も安定していたんだが、いくら呼んでも揺すっても目を覚まさない。
当然、ご夫妻はかかりつけの医者を呼びにやり、診てもらったが、いくら調べても身体には何の異常も見つからなかった。
そして、一週間ほど経過を観察したあげく、とうとう医者は匙を投げてしまったのさ。『これは医学では説明できない』ってな」
「お嬢さんは眠りについてから、食べ物はおろか、水さえも摂っていなかった。
口を開けさせ水を飲ませようとしても、飲み込もうとしないんだ。
そして、何日経っても一度も排泄をしなかった。
人間ってのは動かなくても、ただ生きているってだけでエネルギーを消費する。
そして、尿を出さないと身体に毒素が溜まってしまうから、体内の水分を絞り出してでも必ず出すのだそうだ。
それなのに、お嬢さんはただ眠っているだけで、三日経っても、一週間が過ぎてもまったくやつれる様子がない。
そんなことは、医学的にはあり得ないっていうのが、医者の説明だった」
「もちろん、その医者はヤブじゃない。クレイマン家に出入りするくらいだから、街でも名の知れた立派な先生だ。
その名医が、屋敷を出る時に溜め息をつき、こう言ったそうだ。
『医者の私が言うのも変だが、これは魔術か呪術、そういった類の現象としか思えません』とな」
「クレイマン卿は、さっそくこの街でもっとも優れた魔導士を呼び寄んで、お嬢さんを調べてもらった。
だが、お嬢さんの身体に魔術の痕跡は見つからず、魔法防御の結界を張ってみても、やはり眠りは解けなかったんだ」
「ご夫妻は、今度はペルシニアから伝手を頼って呪術師を呼び寄せた。
その辺のいい加減なまじない師じゃない、砂漠に隠棲する本物の呪術師だ。
その呪術師は、お嬢さんをひと目見るなりこう告げた。
『これは確かに呪いの類だが、呪術によるものではない。いわゆる〝妖精の眠り〟というものじゃ』
つまり、原因は人ならざる存在にあり、呪術師と言えども手の施しようがないということだった」
「それから半年、お嬢さんの時は止まったまま、眠り続けている。
クレイマン卿は、娘の眠りを解いた者には多額の報酬を出すと宣言したが、未だに誰一人として成功した奴は現れなかった」
「だが、シルヴィアさんと言ったな? あんたは異世界から幻獣を呼び出して使役する召喚士だ。
現に、この人の言葉を操る獣は、自分が精霊族だと名乗っている。
お嬢さんの〝妖精の眠り〟を解ける者がいるとすれば、あんたとこの変な犬しかいないと俺は睨んだ。
頼む、お嬢さんを救ってくれ! それができたら、酒でも何でも好きなだけくれてやる」
* *
「……だそうだけど、どうにかなりそう?」
シルヴィアは自分の相棒の顔を覗き込んだ。
カーバンクルは黙って首を横に振った。
『だから、このおじさんは妖精と精霊の区別がついていないんだよ。
そりゃあ、妖精についてはシルヴィアより詳しいさ。
だけど全然別の種族だからね。僕に彼らの呪いが解けるとは思えないな』
『そうよねぇ……。あたしも魔導院で教わった以外、妖精のことなんか知らないもん。
でもまぁ、とにかくものは試しよ。ダメ元でやってみない?』
(二人の脳内会話は店主に聞こえないよう、カー君が制御している。)
シルヴィアは覚悟を決め、店主と向きあった。「当たって砕けろ」は、彼女の行動指針である。
「分かりました。
お約束はできませんが、できる限りのことをしてみましょう」
店主は礼を言うと、誰か店に出てくるよう店の奥へ怒鳴った。
彼は慌てて飛んできた若い男たちの一人に、辻馬車を拾ってくるよう言いつけ、もう一人には店番を命じた。
数分もしないうちに、外に出ていった男が馬車を連れて戻ってきた。
店主とエイナ、そしてシルヴィアが馬車に乗り込み、カー君は後をついてくることとなった。
そして、セレキアの中心部、高級住宅街にあるクレイマン卿の屋敷へと向かったのである。
* *
「まぁ、ヨーゼフではありませんか。
あいにく主人は難しい会議があるとかで、出かけておりますのよ。
そろそろ帰ってくるはずですが……。
それにしても、あなたが訪ねてくるなんて珍しいこと。どうしたのですか?」
一行を迎えてくれたのは、クレイマン卿の奥方であるジョセフィンであった。
酒屋の店主から聞いた話では、五十歳に近いということだったが、下手をすると三十代と言っても通用するほど若々しく、少女のような雰囲気を持った上品な女性だった。
店主は少し顔を赤くしながら、脱いだ帽子を手で揉みくちゃにした。
「それがですね、奥さま。
実を言うと、こちらのお嬢さん方を紹介したいと思いまして、その……何と言うか、はぁ、お連れした次第でして」
彼の言葉は尻すぼみに小さくなり、エイナとシルヴィアの背中を押して、前に押し出した。
いかにも貴婦人然としたジョセフィンに比べ、エイナたちは無粋な軍服姿である。
二人は少し引け目を感じながら、軍人らしく敬礼して自己紹介を行った。
「リスト王国の二級召喚士、シルヴィア・グレンダモア准尉です」
「同じく魔導士のエイナ・フローリー准尉です」
「あらあら、リスト王国からいらしたのですか! それは珍しいお話を聞けそうですわ。
お連れになっているワンちゃんも異国風ですわ。王国にはそのような犬種もいるのでしょうね。額に宝石を飾るなんて、とってもおしゃれだこと」
店主が自分たちの後ろに隠れてもじもじしているため、仕方なくエイナが説明する役を買って出た。
彼女たちには時間がない。エイナは社交辞令を無視して、いきなり切り出した。
「私たちがお訪ねしたのは、お嬢さまのことで……と言えば、分かっていただけますか?」
それまでにこやかな笑みを浮かべていた奥方の顔から、すっと血の気が引いた。
少女のような華やかな雰囲気をまとった貴婦人は、歳相応にくたびれた初老の女性に変わっていた。
彼女は少し掠れた、醒めた声を出した。
「……そうでしたか。
ここで立ち話というのも失礼ですね。どうぞお入りください」
彼女たちが案内されたのは、庭がよく見える明るいリビングだった。
応接室でないのは、まずはエイナたちを値踏みするつもりなのだろう。
丸いテーブルを囲んで椅子に座った彼女たちの前に、メイドがお茶を運んできた。
メイドはおざなりに頭を下げると、床に座っているカー君に対し、冷たい一瞥をくれてから去っていった。
硬い表情を崩さないジョセフィンを前にして、エイナはまず夫人の警戒を解くべきだと判断した。
「シルヴィアが連れているのは犬ではなく、彼女が召喚したカーバンクルという幻獣です。
カー君、奥様にご挨拶しなさい」
エイナの指示に対し、カー君はちらりとシルヴィアの顔に視線を送った。
シルヴィアは小さくうなずく。
『初めまして、奥様。
僕はカーバンクル……と言っても知らないよね? 精霊の一種だと思ってくれればいいかな。
僕のことはカー君と呼んでくれていいよ』
突然頭の中に響いた声に、ジョセフィンは声の主を探そうと、慌てて左右を見回した。
誰もいないことを確認すると、彼女は強張った表情で、カー君の犬ともキツネともつかない不思議な顔に視線を戻した。
「今の声は……あなたなの?」
『そうだよ。
シルヴィアが側にいれば、僕は人間の言葉が理解できるし、直接話しかけることもできる。
犬のような獣と一緒にしないでほしいな』
「驚いたわ。
リスト王国の召喚士は怪物を使役する……とは聞いていたけれど、本当だったのね」
「ご理解いただけたましたか?
繰り返しますが私は魔導士、シルヴィアは召喚士、そしてこのカーバンクルは精霊族です。
酒屋のご主人はそれを聞いて、私たちだったらお嬢さんの眠りを、覚ますことができるかもしれないと考えたのです。
ペルシニアの呪術師は、お嬢さんを調べて〝妖精の眠り〟と断じたそうですね?
妖精は、もともとカーバンクルと同じ世界から迷い出てきた種族です。
お約束はできませんが、カー君なら何か解決の手段を見い出すかもしれません」
「そうでしたか。冷たい態度をとって、ごめんなさいね。
これまで、私たちからお金を巻き上げようとする人たちを、たくさん見てきたものだから、つい疑ってしまいました。
きっとまた、ヨーゼフが騙されたんだろうと……」
「お察しいたします。
とにかく、できるだけのことをしてみますから、まずはお嬢さんを見せてください」
* *
ジョセフィンは涙を拭いながら、エイナたちを娘の部屋へと案内してくれた。
ヨーゼフは「お嬢さんの部屋に自分のような者が入るわけにはいかない」と言って、一人自分の店へと戻っていった。
娘の部屋は、螺旋階段を上がった二階の奥であった。
扉を開けて、一歩足を踏み入れると、ふんわりと花の香りが漂う。
花柄の壁紙にたくさんの絵が飾られ、華やかな生花がいたるところに活けられている。
いかにも少女好みの調度品で統一された部屋は、あまりに可愛らしく、どこか現実味を欠くような印象すら与えていた。
そして白いベッドには、羽毛布団にくるまってすやすやと眠る少女の姿があった。
子どもらしくふっくらとした頬はバラ色で、小さな唇は艶やかに輝いている。
長い睫毛を閉じた目蓋は、今にもぱっちりと開き、大きな瞳で驚いたようにエイナたちを見詰めそうな気がする。
これが半年も眠り続けている少女だとは、とても信じらないほど、その顔は生気に満ちていた。
ジョセフィンが羽毛布団と毛布をそっとめくると、ピンク色のパジャマを着た身体が現れる。
両手を胸の上で軽く組んでおり、それが呼吸によって微かに上下していた。
「娘のイルマです。
ご覧のように呼吸はしておりますが、寝返りを打つこともありません。
お医者様の話では、姿勢を変えないでいると、普通は床ずれが起きて背中の肉が腐るのだそうです。
でも、イルマの身体には、今に至るまで何も異常がありません。
水も食事も一切摂らないのに、痩せるということもないのです」
二人は母親の許可を得て、少女の身体に触れてみた。
柔らかいがしっかりとした弾力があり、筋肉が衰えている感じもしなかった。
シルヴィアはカー君を呼び寄せて、イルマを近くから見せた。
カーバンクルはベッドに前脚をかけ、身を乗り出すようにして、しきりに少女の匂いを嗅いでいる。
「どう? 何か分かった?」
シルヴィアが声を潜めて訊ねると、カー君は首を傾げてみせた。
『うん、女の子の匂いがするね』
「カー君、あたし冗談は嫌いなの。まじめにやってちょうだい!」
『話は最後まで聞くもんだよ。
圧倒的に小さな女の子の匂いだけどね、ほんのわずか別の匂いが混じっている』
「妖精の匂い?」
シルヴィアが被せるように訊き返すが、カー君は首を横に振る。
『分からないけど、とても乾いた、ちょっと埃っぽい感じだね。
何だか最近嗅いだような気がするなぁ……』
「えと、カー君。それって砂漠の匂いじゃない?」
エイナが遠慮がちに口を出すと、カーバンクルは激しくうなずいた。
『それだそれ! あのアリジゴクのすり鉢の匂いに似てるんだ!
うん、思いっきり細かい砂粒の匂いだよ』
シルヴィアは再びイルマのパジャマを撫でさすり、次いで身体の下に手を差し入れてシーツの感触を探ってみた。
「変ね。どこにも砂なんかないわよ?」
「当然ですわ。イルマはきちんとお掃除のできる子ですし、外で砂遊びなんていたしませんもの。あの子は部屋でお人形と遊ぶ方が好きですのよ」
ジョセフィンが「心外だ」という表情で補足する。
『違う違う! 僕が言ってるのは〝妖精の砂〟のことだよ。
人間の目には見えないし、触ることもできないの』
カー君はベッドから前脚を下ろすと、ふさふさのしっぽを振って、得意気に宣言した。
『この女の子は、砂の妖精の呪いにかかっているんだ!』