二十一 垢擦り場
「あふぁ……ぅうん!」
快楽と脱力が入り混じった声が自然とこぼれ、アイーシャが思わず笑い出した。
彼女は素っ裸になったユニの丸い尻をぺちんと叩く。
「なに変な声出してんのよ!」
ユニは藤で編まれた低いベッドにうつ伏せに寝そべっており、アイーシャはその背中に跨っていた。
よい匂いのする香油が全身に塗られており、アイーシャの分厚い掌と太い指が、背骨の両脇をぐいぐいと押していく。
肩から肩甲骨に添って凝った筋肉がもみほぐされ、体重を掛けられると肺から音を立てて息が洩れる。
その際に、意識せずに喘ぎ声が出てしまうのでのだ。
痛痒さと気持ちよさを感じながら目を閉じたユニは、枕代わりに敷かれたタオルに顔を押しつけたまま言い訳をした。
「無理よぉ、めちゃくちゃ気持ちいいんだもん。
あたし、ちょっと〝ちびった〟かもしれないわ」
「ああ、気にしなくていいよ。どうせお湯で流すからね。
結構お漏らしする人って多いのよ」
「やだわぁ! 歳は取りたくないわね。
最近は笑ったり、くしゃみをすると、ちょろっと洩れるのよ。
若い時はそんなことなかったんだけど」
「女はみんなそうよ。
さぁ、今度は上を向いてちょうだい」
アイーシャの指示に従って、ユニは素直に仰向けになる。
一糸まとわぬ彼女の身体に、アイーシャは瓶から手に取った香油を丁寧に塗りこんでいった。
「あんた、歳って言うけど立派なものよ。
おっぱいは全然垂れてないし、お腹は男みたいに割れてるもの。羨ましいわ。
あちこちに青痣ができているのが玉に瑕だね」
「しょうがないわ。水蒸気爆発で吹っ飛ばされて、砂漠に叩きつけられたんだもの。
骨折しなかっただけでも上出来よ」
「何だい、その水蒸気爆発ってのは?」
「あら、学校で習わなかったの?」
アイーシャは〝学校〟という言葉を聞いて、顔をしかめてみせた。
「お生憎様。学校の授業ってのはね、貴重なお昼寝の時間なのよ。
そんな小難しい単語を覚えている暇なんてないの」
「あら、奇遇だわ。あたしもそうだったの」
二人は顔を見合わせて、同時に吹き出した。
アイーシャは、つるつるに剃り上げられたユニの股間から太腿にかけ、粘り気のある香油を塗りこみながら訊ねた。
「そろそろあんたが退治したっていう、砂漠の怪物の話を聞かせておくれよ。
やっぱり伝説に出てくる、旧市街を破壊した奴と同じだったのかい?」
「あっ、ちょっと待ってください!」
衝立の向こうから、くぐもった声が上がった。
温泉浴場で垢擦り女たちがマッサージを行う一画では、十台ほどの藤のベッドが並んでいて、目隠しのために衝立で囲まれている。
それだけでなく、ベッドとベッドの間にも衝立が置かれ、客同士の裸が見られないように配慮されていた。
その衝立を、二人の逞しい垢擦り女がよっこいしょと持ち上げ、足もとの方へ移動させた。
隣のベッドで裸の半身を起こしていたのは、エイナであった。
「こっちもお願いします!」
すぐにエイナの反対側からも声がして、衝立がどけられ、シルヴィアのまばゆい裸身が現れた。
「あたしたちだって、全然説明してもらってないんですよ。
一緒に話を聞かせてください!」
* *
結界が消滅したおかげで、彼女たちはバラージ神殿に戻ることができた。
空を見上げると冬の太陽の位置は低く、まだ十時を過ぎたころである。
エイナたちにしてみれば、丸一日が過ぎたような感覚だったが、実際には二時間程度しか経過していなかったのだ。
一行はオオカミの背に揺られ、アギルの市街に戻った。
まずはサーイヤの家に母子を送り届け、アリの行方を心配していた家族と近所の人たちを安心させた。
そしてエイナたち三人は、その足で公衆浴場へと向かった。
服の中に侵入した大量の砂は、下着の中まで潜り込み、身動きするたびにじゃりじゃりと音を立てていたのだ。
サーイヤの家では、船の予約を終えたアイーシャも、一行の帰りを待っていた。
アリの無事を涙を流して喜んだ彼女は、エイナたちがこのまま風呂に行くと聞いて、一緒に付いてきた。
この日の彼女は夕方から出勤の遅番だったが、心配している垢擦り女の仲間たちに、一刻も早くこの朗報を伝えようとしたのだ。
それだけでなく、アイーシャはユニの担当は他人に任せられないと宣言し、急遽仕事に入ることになった。
アイーシャの一報でサーイヤの息子の無事を知った女たちは、当然詳しい話を聞きたがった。
ところが、湯気が立ちこめ、分厚い衝立で仕切られたままでは、話がよく聞こえない。
エイナとシルヴィアを担当した垢擦り女はもちろん、手空きの女たちも集り、ユニの両脇の衝立をどけて彼女の話を聞こうとしたのは、当然のことだった。
* *
「結論から言えば、伝説の怪物とは別物。
まぁ、多少の関係はあるかもしれないけどね。
アイーシャの話だと、アギルの旧市街を壊滅させた怪物は、身の丈十メートルを超す巨人だったわよね?」
「そうよ。身体は人間で、頭だけがクワガタのような大顎をもった化け物だったいうわ。
バラージ神殿の大広間にも、その浮彫が飾られていたでしょう?」
「ええ。ところが、あたしたちが戦ったのは、体長がせいぜい四メートル。
まぁ、それだって十分でっかいけど、とても石造りの家を壊せるような力はないでしょうね。
それに、身体も人間じゃなかったの。あれはアリジゴクが巨大化したものだわ」
「アリジゴクって、あの軒下の乾いた砂に穴を作る、ちっちゃい虫のことだよね。
何だってそんな虫が、人間を襲うほどデカくなれるんだい?」
アイーシャが挟んだ疑問は、エイナとシルヴィアも知りたいことだった。
第一、エイナたちは、あれがアリジゴクという昆虫だということすら初耳だったのだ。
「ユニ先輩、どうしてあれがアリジゴクだって、教えてくれなかったんですか?」
シルヴィアが問い質すと、ユニは少し顔を赤くして、もごもごと答えた。
「だって、あたしたちが捜していたのがアリでしょ?
母親のサーイヤの前で、アリジゴク、アリ地獄って言ってたら縁起が悪いじゃない。
そっ、そんなことよりっ! なんで虫が巨大化したのかの話よ!」
ユニは急に真面目な顔になって、素っ裸のままでベッドで胡坐をかいた。
集まっているのは全員女なので、何が見えてもあまり気にしないようだった(エイナはかなり気になったが)。
「すべての原因は、あの〝バラージの青い石〟なのよ。
みんなはあの石を、何だと思っているの?」
垢擦り女たちは、互いに顔を見合わせた。
アイーシャが少し戸惑いながら、皆を代表して答える。
「何って……、青い石はずっと昔に盗まれたから、あたしたちは実際に見たことがないのよ。
今、代わりに祀られているのは青い水晶だから、多分似たような宝石だったのかなぁって、何となく思っているわ」
他の女たちも〝うんうん〟とうなずいている。
「宝石か……。まぁ、見た目ではそうかもしれないわね。
でもね、青い石の正体は、特級クラスの呪物なのよ。
あなたたちも呪術師の噂を聞いたことがあるでしょう?
彼らにとっては、どんな犠牲――何千人を殺してでも手に入れたい宝物。それだけ危険な代物なのよ」
重々しい言葉であったが、垢擦り女たちはきょとんとしている。
彼女たちもサラーム教徒であるから、呪術師の存在は知っている。
ただ、実際に庶民と関係する呪術師は、文字どおり〝まじない師〟であって、民間療法の知識を持っている者に過ぎない。
動物を操り、幻を生み出し、人を呪い殺す力を持つ真の呪術師は、王族に仕えるか秘境に身を隠している遠い存在だった。
垢擦り女たちの反応に、ユニは小さく溜め息をついた。
「ええと……じゃあ、十数年前に起きた、東のナサル首長国連邦とルカ大公国の戦争のことは聞いているかしら?」
ユニの質問に、多くの女たちが「ああ」という表情を浮かべた。
「あの戦争で、予言者の伝説に出てくる魔人が現れたという噂も知ってるわね?」
「その話はみんな知ってるけど、まともに信じている人は少ないわよ」
アイーシャが疑わしそうな表情で答えた。
「あの、ユニさん。魔人って何ですか?」
エイナが素朴な疑問を口にしたが、ユニは唇に指を立てて「黙って」という仕草をみせた。
「魔人についてはうちの国じゃ〝軍機〟ってことになってるから、あんたたちは聞かなかったことにしてちょうだい」
エイナとシルヴィアに釘を刺すと、ユニはアイーシャの方に向き直った。
「あの噂は本当よ。
そして、魔人の正体は青い石、呪いの宝珠だったの。
あの石は強力な呪力の塊りなのよ。呪術師があの石を手にすれば、巨大な魔人を生み出すことなんて雑作もないわ」
ユニはいったん言葉を切り、取り囲んでいる女たちの顔を見回した。
「ここからはあたしの想像だけど、多分大きく間違ってはいないはずよ。
かつてバラージ神殿にあった青い石は、呪いの宝珠だった。
何万人もの人の命を犠牲にして作られた、吐き気を催すようなクソだったのよ。
だから、祀られていた聖なる宝物なんて話は嘘。
本当は、たくさんの人たちの祈りの力で、宝珠に蓄えられた呪いを、少しずつ解いていたんだと思う。
あなたたちの祖先は、何千年かかろうとも祈りで宝珠を無害なものに変えようとしたのね」
「……でも、その宝珠は盗まれてしまった」
アイーシャが掠れた声でつぶやいた。
「そう。実際に盗んだのは盗賊だったかもしれないけど、それを指示したのは間違いなく呪術師ね。
神殿の青い石は、土台となった岩に下半分が埋もれていて、がっちりと祭壇に固定されていたんだと思うわ。
それで、盗賊は鏨を使って、露出していた部分を削り取るより方法がなかったの。
青い石を手に入れた呪術師は、さっそく魔人を造る実験をしたってところかしら」
「頭がクワガタだったのは?」
アイーシャの問いに、ユニは肩をすくめた。
「呪術師の趣味かしらね。
魔人は石を核にするけど、肉体の材料は人の死体なのよ。
ひょっとしたら、死体の数が足りなくて、虫の頭をくっつけたのかもしれないわ。
とにかく実験は大成功。魔人はアギルの街を破壊して、十分にその威力を示したっていうわけ。
でも、そこに誤算があったの」
「バラージの神官長ですね?」
今度はエイナが口を挟んだ。
「そう。盗賊が残していった台座には、まだ一部の青い石が埋もれていたのよ。
神官長はそれを手にして魔人に立ち向かった。
彼は魔人に殺されたけど、死の直前に青い石の欠片を魔人の口に投げ込んだんでしょうね。
魔人の身体は核となった石の呪力に合わせて調整されていたのに、過剰に石を取り込んでしまったために、バランスが崩れてしまったのよ。
それで、内部の呪力に身体が耐えきれなくなって崩壊した。……それが伝説の真実だと思うわ」
「では、今回の怪物も呪術師の仕業なのですか?」
エイナはそう訊ねたが、その質問は疑念混じりのものだった。
「いいえ。多分偶然ね。
魔人が崩壊したあと、呪術師は当然のように青い石を回収したに違いないわ。
その後に呪術師がどうなったか、石がどこへいったのかは分からない。
呪術師は警戒心が強いから、誰にも見つからないような場所に隠されたまま、忘れ去られたのかもしれないわ。
でも、呪術師はすべての欠片を拾い集めたわけじゃなかったのよ。
きっと、ほんの砂粒ほどの、小さな欠片が残されてしまったんだと思うの。
それが偶然、アリジゴクの巣に転がり込んだ……そんなところじゃないかしら」
「なるほど……。それで巨大化し、結界まで作り出したんですか。
じゃあ、どうして子どもを誘拐できたんでしょう?」
ユニは小首を傾げて少し考えた。
「そうねぇ……。
多分、アリジゴクに取り込まれた青い石は、覚醒したのはいいけれど、やることがなくて焦ったんでしょうね」
「えと、あの、どういうことでしょうか?」
「例えば、呪術師が青い石を核にして魔人を造ったとするじゃない。
そうしたら、街を破壊しろとか、敵を攻め滅ぼせとか、何かしらの目的を与えて命令してくれるでしょ。
だけど、宿主が昆虫だとしたらどうかしら?
虫けらでも生存本能があるから、取りあえずは敵に襲われないように身体を大きく、頑丈にして、安全な結界を作ったけれど、それ以上の具体的な目標は何も与えられなかったでしょうね。
でも、すぐにアリジゴクは空腹を訴え始めたと思うの。
身体が大きくなった分、今までのように小さなアリではとても腹をみたせないでしょ?
青い石に命じられたのは、強烈な飢餓感を解決することだったのよ」
「えっと、つまり子どもを誘拐したのは、アリジゴクの意志を汲んだ青い石の仕業だったということですか?」
「石は人間の命っていうか、膨大な負の感情でできているから、虫よりも知恵が回るし、ある程度人を操ることができたんでしょうね。
それで、神殿の祭壇を中継地にして、精神の未熟な子どもを催眠状態に陥れたんだと思うわ」
「あ、私たちが手に入れた、あの小さな粒ですか?」
「そうよ。祭壇に隠されていた青い石の欠片にアリジゴクの飢餓感を伝えて、増幅させたのね。
祭壇裏の通路は石の力で開くようになっているから、ちょうどよかったのよ。
祈りに集中している子どもの精神は、簡単に乗っ取れたんじゃないかしら。
あの通路に誘い込んで、流砂で結界内に運び込めば、あとは簡単よ。
閉鎖された結界内を彷徨うしかない子どもは、いつかはすり鉢に転落するでしょうからね」
「じゃあ、もう子どもたちが攫われることはないのですね?」
垢擦り女の一人が、確認するようにそう訊ねた。
ユニはにこりと笑ってうなずいた。
「そういうことよ。
あたしの両脇にいるエイナとシルヴィアは、リスト王国の魔導士と召喚士なの。
この若い二人が、協力して怪物を粉々に打ち砕いたわ。
もう心配はいらないのよ。安心して」
わっという女たちの歓声があがり、浴場内でくつろいでいた他の客たちは、何事かと垢擦り場の方を振り返った。
エイナとシルヴィアは、逞しい垢擦り女たちに、裸のままべちべちと身体を叩かれ、身体中に赤い手形をつけられてしまった。
そして怪物との戦闘の詳細を、繰り返し話す羽目になったのである。
* *
浴場でたっぷりと疲れを取ったエイナたちは、街の食堂で遅い昼食を摂ってから、郊外の船着き場へと向かった。
コルドラ大山脈に源を発するユルフリ川は、三百キロ西の都市国家、セレキアを経て海に注いでいる。
セレキアまでは下り船で二日半の行程であった。
アイーシャは地元の人間らしく、そつなく予約を取っていてくれた。
エイナたち一行には、ユニのオオカミ九頭と、シルヴィアのカー君がいる。
これらの獣たちは客室に入れないから、家畜なども運搬できる貨客船の予約が必要だった。
アイーシャは川船としては大型の貨客船の席を確保してくれていた。
カー君は自分が家畜扱いされることに文句たらたらであったが、慣れているオオカミたちはのんびりと柵の中で眠りこけていた。
午後三時過ぎ、最終の貨客船は静かにアギルの街を離れていった。
川岸にはサーイヤとアリの親子が見送りに来てくれて、ちぎれるように手を振り続けていた。
船の上には多くの客たちが、手すりから身を乗り出してそれに応えていた。
エイナ、ユニ、シルヴィアの三人も、その中に混じっている。
エイナはにこやかな表情で手を振り返しながら、そっと隣のユニに訊ねた。
「ユニさん、あの青い石の欠片をどうするつもりですか?」
ユニも手を振りながら、前を向いたまま答える。
「ああ、あれ?
ウエマク様が以前、『青い宝珠は人間が持つべきものじゃない』と言ってられたのよ。
だから、この旅が終わったら、黒城市に持っていくつもりだったわ」
「だった?」
「それがね、あの欠片は晒に包んで胸のポケットに入れてたの。
だけど、あんたたちがアリジゴクを吹っ飛ばしたあと、確かめてみたら黒い塵に変わっていたわ。きっと呪いの力を使い果たしたのね」
「そう……ですか」
エイナは川面を渡ってくる肌寒い風に吹かれながら、砂漠で気を失っている時に見た夢を思い出していた。
彼女を取り囲んでいた人々とは言葉が通じなかったが、彼らはエイナに礼を言っていたような気がしてならない。
アリジゴクに取り込まれた青い石も、ユニが持っていた欠片も、指先で摘まめるほどの大きさに過ぎなかった。
それでも、ユニを取り囲んでいた人々は、数百人に達していた。
エイナとカー君が起こした水蒸気爆発で、彼らは最後の力を使い切ったのだ。
そして、数千年にわたって封じ込められていた石から解放されたに違いない。
日が傾いてきた夕空に、魂の安息の地へと昇っていく人々の姿が見えたような気がした。
エイナはその背中に向け、ゆっくりと手を振った。