二十 爆発
すり鉢の底に怪物の姿はなかったが、エイナの魔法とカー君の火球で熱せられた砂からは、もうもうと白い蒸気が立ち上っていた。
エイナはそこに疑問を抱いた。
ここは結界によって、外界から隔絶された異世界である。
真冬なのに妙に暑いのは、そのせいだと思われた。
一年中太陽が照りつけて、雨が降ることもないはずだ。
だからこそすべてが乾燥し、岩も崩壊して砂だらけの砂漠になったのだろう。
ならば、なぜ穴の底の砂から水蒸気が上がっているのか?
その疑問が、エイナにひとつの答えを与えた。
彼女はすり鉢の縁に仁王立ちとなり、両手を前に突き出していた。
呪文の詠唱が進むにつれ、広げた掌に大量の魔力が流れ込んでいった。
シルヴィアとカー君は、すぐそばでエイナを見守っている。
呪文の詠唱は魔導士が最も集中し、同時に無防備となる瞬間である。
エイナがどんな魔法を使おうとしているのか、シルヴィアには分からなかったが、自分とカー君が彼女を守らねばならなかった。
油断なく周囲を見張っているシルヴィアは、ふいに寒さを覚えて両腕をさすった。
つい今しがたまで、暑さにうだっていたはずなのに、である。
驚いて横を見ると、トランス状態に陥っているエイナが、その冷気の発生源だった。
エイナが氷結魔法を放とうとしている。それは明らかで、シルヴィアも何度か見たことがある魔法だ。
だが、こんなふうに発動前から冷気が漏れ出ているのは、初めて見る現象である。
一体、どれだけの魔力をつぎ込んでいるのか、空恐ろしくなるほどだった。
シルヴィアは片膝をつき、横にいるカー君の耳にささやいた。
「火球の準備をしておいて。それも特大の奴よ」
『何言ってんの? 怪物は砂に潜ったままだよ』
「いいから! エイナに何か考えがあるみたい。
きっとあなたの助けがいるわ」
『ずいぶん自信ありげだけど、その心は?』
「あたしの勘よ!」
『うわぁ~!』
シルヴィアたちが小声で言い合っている間に、エイナの呪文が完成した。
エイナの全身は、漏れ出した冷気で白い霜と氷に覆われていた。
それが〝パリン!〟と音を立てて砕け、飛び散った。
同時にエイナの両手が白い光を放つ。
ドンッ!
腹に響く重低音で地面が揺れた。
すり鉢の底の砂が派手に吹き飛ばされ、白い水蒸気も掻き消された。
穴の底は一面真っ白に凍りついたかと思うと、中央部がぼこりと盛り上がった。
そして、凍った砂をばきばきと音を立て破壊しながら、白い氷の柱が無数に生えてくる。
寒い冬の朝に現れる、霜柱を巨大化させたような感じであった。
『いま、チラッとあいつの大顎が見えた! 氷に挟まれて、ジタバタしている』
目のいいカー君が報告する。
砂の底に潜っていた怪物は、氷の柱に巻き込まれ、地表へ押し出されてきたらしい。
しかも、膨張した氷に圧迫されて、身動きがとれないようだった。
ただ、手足を動かしているということは、エイナの強力な氷結魔法でも、凍死していないということだった。
「やったの?」
後方でアリの手当をしていたユニが魔法の発動に気づき、駆け寄ってきて訊ねた。
「いえ、地中から引っ張り出して動きは封じたようですが、死んではいません」
ユニに答えたのはエイナではなく、シルヴィアだった。
エイナはすでに次の呪文を詠唱しており、口からは高速の圧縮呪文が、不協和音のように流れていた。
エイナが再び突き出した手の先から、白熱した光の玉が撃ち出された。
さっきも使ったファイアボールであるが、最初とは桁違いの大きさである。
巨大な光球は真っ直ぐに飛んでいったかと思うと、氷の柱の一メートルほど上空でぴたりと静止した。
ファイアボールは、魔導士の意思である程度コントロールできる。
ただし、それは軌道を変えられるという意味で、このように静止させる例は、経験豊富なユニも見たことがなかった。
「カー君、私の魔法を狙って火球を撃ち込んで!」
エイナが穴の底を見つめたままで怒鳴った。
カー君は、すでに喉を風船のように膨らませていた。
シルヴィアが勝ち誇ったように、『ね?』という顔をしている。
ガハァッ!
カーバンクルは咳き込むように火球を吐き出した。
これも最初より倍近い大きさだった。
炎の塊りは、空中で静止している光球へ吸い込まれ、その衝撃でファイア・ボールが爆発した。
魔法の炎と幻獣の炎の双方が、絡み合うようにして暴走を始めた。
空中に浮かぶドームは、内部の超高温で色が赤から白へと変化し、凄まじい光を放った。
そんなになっても、まだエイナは魔法の制御を続けていた。
彼女は突き出した手を勢いよく振り下ろし、その動きつられるように、灼熱した球体が氷の柱へと叩きつけられた。
次の瞬間、エイナたちの視界は真っ白になった。
凄まじい轟音で聴力が奪われ、キーンという耳鳴りだけが頭に響く。
全身に叩きつけられるような圧力が加わり、彼女たちは空高く吹っ飛ばされた。
* *
気がつくと、エイナは砂の上で仰向けに転がっていた。
何人もの人たちが、心配そうな顔でエイナを取り囲み、覗き込んでいる。
彼女は慌てて上体を起こした。
身体を捻ったり、腕を回してみたが、取りたてて痛みはない。
「えと、あの、だだっ、大丈夫みたい? ……です」
彼女は顔を上げ、見つめている人たちにそう伝えたが、何の言葉も返ってこなかった。
そもそもこの人たちは誰で、どこから現れたのだろう。
エイナに危害を加えようとする気配は見えないが、びっしりと取り囲まれているのが不気味だった。
人々の輪の外側にも、たくさんの人が隙間から顔を出して覗いており、一体何人が集まっているかも分からなかった。
よくよく見ると、彼らはみな髪も髭も伸び放題で、痩せて目は落ちくぼんでいる。
茶色い麻布のような粗い生地に穴を開け、頭を出して胴を荒縄で縛っている――貫頭衣と呼ばれる粗末な服を着て、足は裸足だった。
話しかけても彼らが何も答えないので、エイナは不安になってきた。
「あの、私の言葉……分かりますか?」
そう訊ねても、やはり反応がない。
エイナは困り果て、とにかく立ち上がってみた。
ちゃんと立てたので、本当に身体は何ともないようだった。
「シルヴィア、ユニさん! みんなどこですか?」
彼女は大きな声を出してみたが、周囲の人たちはもちろん、シルヴィアたちからの返事もなかった。
エイナは思い切って、この囲みを抜け出そうと思った。
目の前に立っている、貧相な男の身体を押しのけようとすると、初めて相手が反応を示した。
男はエイナを押し留めるように、彼女の肩を押さえつけたのだ。
「放してください!」
エイナはきつい表情で、その手を振りほどこうとした。
その途端、男の痩せ衰えた右腕が肩の付け根から外れ、ぼとりと地面に落ちた。
一滴の血も吹き出さず、粘土細工のようにちぎれたのだ。
彼女は悲鳴を上げてしゃがみ込み、慌てて落ちた腕を拾い上げると、おずおずと男に差し出した。
「えとあのっ、これ……落としましたよ?」
我ながら間抜けなセリフだと思ったが、それしか言葉が思いつかなかった。
腕を押しつけられた男は、笑みを浮かべてゆっくりと首を横に振った。
そして、無事な方の左手を上げて、エイナの肩をぽんぽんと叩いた。
それが合図だったように、周囲の男たちが一斉に胸の前で手を合わせ、頭を深々と下げた。
「えっ、なに、何ですか!」
狼狽えるエイナに対し、お辞儀を解いて頭を上げた人たちの顔は、満面の笑顔だった。何人かの人は、目から涙まで流していた。
そして、その表情がぐにゃりと歪んだかと思うと、ぐずぐずと崩れ出した。
海辺で作った砂の城が波に洗われように、人々の顔が崩れ、身体が崩壊していく。
あっという間に、数百人もの人の群れが崩れ、砂漠の砂と見分けがつかなくなってしまった。
呆然とするエイナの周囲には誰もいなくなり、彼女は広大な砂漠の中で、ただ一人立ち尽くしていた。
* *
「……イナ、エイナ!」
誰かが耳元で大声を出し、乱暴に肩を揺すっている。
エイナは顔をしかめ、薄っすらと目を開けた。
栗色の髪に榛色の瞳、目尻や口元に皺が刻まれたユニの顔が、すぐ目の前にあった。
「あれ、ユニ……さん?」
ぼんやりとした頭でつぶやいた途端、じゃりっという不快な感触が口に広がった。
エイナは咳き込み、つばとともに口の中の砂を吐き出した。
おかげで意識が一気に覚醒する。
「よかった、ようやく気がついてくれたわね」
ユニがほっとしたように笑い、背中をさすってくれた。
「えと、あの……私、どうしたんでしょう?」
涙目で訊ねるエイナに、ユニは水筒を手渡し、今度は背中をドン! と叩いた。
「どうしたのかって、あたしの方が訊きたいわ!」
『あー、エイナが起きた!』
「本当だ。あんた、いつまでも起きないから、死んだかと思ったわよ」
背後からカー君とシルヴィアの声がかかる。
振り返ると、二人がにやにやしながらエイナを見下ろしていた。
「みんな、無事だったのね」
エイナがホッとしたようにつぶやくと、白オオカミのロキがぬっと顔を出し、砂で汚れた彼女の頬をべろりと舐めた。
彼女の周りには、ユニのオオカミたちが集まっており、アリの手を握ったサーイヤもすぐ近くにいた。
「そうだ! あの虫の化け物は、怪物はどうなりました?」
思い出したように叫ぶと、ユニが笑って肩をすくめた。
そして、エイナの隣にどっかりと腰をおろした。
シルヴィアとカー君、そしてサーイヤとアリの母子も、エイナを囲むように砂の上に座った。
「死んだわ。見事にバラバラよ。
ねえエイナ、あんた一体、何をやったの?
氷結魔法であの虫を地下から押し上げ、その次にファイアボールで攻撃した。
――そこまではあたしも理解したわ。でも、その後の大爆発は何なのよ?
あたしは爆裂魔法かと思ったわ」
「えと、あの……あれは水蒸気爆発ですけど」
「うん、見事な作戦だったわ。よくとっさに思いついたわね」
シルヴィアはうなずいたが、ユニはきょとんとしている。
「水蒸気……って、何それ?」
「え? 何って、魔導院で習いませんでしたか?」
「そうですよユニ先輩、八年生くらいの理科の授業で教わったはずですよ?」
「そっ、そうだったかしら?
言われてみれば、聞いたような気もするするわね」
ユニが顔を赤くしてごまかしたので、気遣いのできるエイナは〝念のため〟説明することにした。
「揚げ物をする時、煮立った油に水滴を落とすと、飛び散って危ないですよね?
あれと同じで、水が高温の物体に触れると、一気に気化して体積が千七百倍にも膨張するんです。
水の量が多ければ、もう爆発ですよね? それが水蒸気爆発です。
私は穴の地下の砂に含まれた水分を氷結魔法で凍らせ、そこにカー君の火球を取り込んだ、超高熱の火炎魔法をぶつけたんです。
それで大爆発が起こったというわけです」
明快な説明だったが、ユニはなおも首を捻った。
「だけど、ここは砂漠よ。どうして氷の柱が生えるほどの水があったのかしら?」
「あの怪物も生き物です。
いくら獲物の体液で水分を吸収するといっても、まったく水がなければ生きていけないはずです。
だから、あいつが潜っている地下には、多少の湿気があるのだと思いました。
それで、流砂のことを思い出したんです」
「あたしたちが通路で流された、あれ?」
「そうです」
エイナがうなずく。
「流砂の正体は、地下水を吸収して飽和状態になった砂だって、教えてくれたのはユニさんですよ。
私たちが通ってきた地下道は、ちょうど怪物の巣の底と同じくらいの深さでした。
それならば、すり鉢の地下の砂は、結構な水分を含んでいるだろうって思ったんです」
「それで氷結魔法を……」
「はい。地下の砂を凍らせれば、さすがにあの怪物もそれ以上潜れないでしょう。
そして、気化とは桁が違いますが、水は凍って固体化すると体積が増えます。
だから、怪物は膨張した氷によって地表に押し上げられる。
そこに超高熱の魔法をぶつければ、水蒸気爆発を起こせるはずだ……。
その場の思いつきですが、成功したみたいですね」
エイナはちょっぴり自慢げに胸を張ったが、ユニの評価は手厳しかった。
「危うく全員死にかけたけどね。
あんな間近で大爆発を起こすから、あたしたちは爆風で吹っ飛ばされたのよ。
ここが砂漠で、落ちてもダメージが少なかったからよかったけど、普通の地面だったらただじゃ済まなかったでしょうね。
マグス大佐だって、爆裂魔法は十分な距離を取らない限り撃たないのよ。
まったく、自殺行為にもほどがあるわ。
強力な攻撃だってのは認めるけど、いい? 次からはもっと離れてやってちょうだい!」
「でもでも、ファイアボールは中距離魔法ですし、氷結魔法はもっと射程が短いんです」
ユニはエイナの額を中指でぱちんと弾いた。
「なら、さっさと爆裂魔法を覚えなさい。
そしたら、マグス大佐に倣って、エイナのことは〝王国の魔女〟って呼んであげるわ」
* *
エイナが十分に回復したのを確認すると、ユニは立ち上がり、ぱんぱんとお尻の砂を払った。
「さぁ、怪物は死んだし、アリは見つかったわ。一件落着よ。
もう帰りましょう。みんな、オオカミたちに乗ってちょうだい」
「でっ、でもユニ先輩、どうやってこの結界を脱出するんですか?」
シルヴィアが〝肝心なことを思い出した〟という顔で訊ねた。
「馬鹿ね。敵が滅べば結界は消滅するってのが、古今東西のお約束よ。
この砂漠も、一年もしないうちに砂が飛ばされて、周りと同じ岩石砂漠に戻るでしょうね」
ユニは自信たっぷりで言い切ったが、エイナとシルヴィアは顔を見合わせた。
二人の顔には『そう都合よくいくのだろうか?』と書かれている。
ユニは少しむっとして、頬を膨らませた。
「安心しなさい。さっきうちのオオカミたちに確かめさせたけど、もう外に出られるわ。
疑うのなら、ほら、向こうを見てごらんなさい」
ライガの上に飛び乗ったユニが片手を上げた。
エイナたちがその方向を見ると、荒野の中に佇む神殿の姿が小さく目に映った。
遠くが見通せるということは、確かに結界が消滅したのだろう。
ユニは白い歯を見せて笑った。
「信じてくれた?
さぁ、行くわよ。あたしは一刻も早くお風呂に入りたいの!」