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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第四章 魔法王の森
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十九 大顎

 小さいが少しぽってりとした唇が小さく開いた。

 そこから低い声で奇妙な言語が漏れ出してくる。


 エイナは精神を研ぎ澄ませ、ゆっくりと呪文を唱え始めた。

 今は急ぐ必要はない。ただ間違わず、確実に術式を展開することだけに集中すればよい。

 呪文はすべて頭の中に叩き込んでいるのだ。


 魔法は氷の塊りに似ている……エイナは何となくそう理解していた。

 呪文を唱えることによって、凍っていた塊りの表面が溶けだし、身体中に水分が染みわたっていく。

 彼女が唱える呪文によって、溶けだした術式が展開される。


 構築された術式に導かれ、魔力が子宮から動脈を伝わって運ばれていき、全身に網の目のように広がる毛細血管へと入り込んでいく。

 ぴりぴりとした痺れと痒みを伴って、肌の表面へと魔力が溜まっているのが分かった。


 通常、多くの魔法は発動する時、魔導士の手の先から魔力が放出される。

 だがこの魔法は、すべての体表から均等に魔力を出さなくてはならない。

 それも一気に魔力を解放するのではなく、じわじわと放出を継続する必要があった。


 術式自体は複雑なものではなかった。難易度で言えば、中級魔法と言っていいだろう。卒業を間近に控えたエイナは、すでにいくつもの上級魔法を習得していた。


 彼女はほどなく呪文の詠唱を終え、魔法の発動態勢に入った。

『大丈夫、いける』

 彼女はそう自分に言い聞かせ、全身から魔力を放出した。


 しかし、エイナの脳裏には何の情報も入ってこず、空虚な闇が広がるだけであった。


「あらぁ~、駄目ね」

 頭の中の闇に、努めて明るく振る舞う声が響き、エイナは驚いて目を見開いた。

 すぐ横に、ケイト教官が同情が混ざった笑顔を浮かべて立っていた。


「失敗……ですか?」

 エイナは眉根を寄せ、罰を待つ子どものようにおずおずと訊ねた。


「あそこに見える校舎には、座学を受けている生徒がたくさんいるはずだけど、その存在を感じられた?」

「……いえ」


「つまり、駄目だったということよ。

 不思議ね。あなた、近くなら魔法を使わなくても感知できるのに」

「私、何を間違ったのでしょうか?」


 不安げな表情のエイナに、ケイトは首を振ってみせた。

「あなたは何もミスをしていないわ。

 呪文は完璧、魔力の制御も問題なかったもの。

 これはもう、相性が悪かったと諦めるしかないわね」

「でも、もっと練習して頑張れば――!」


「そういう問題じゃないのよ。

 あなたは攻防両方の魔法が使える万能マルチ型だけど、攻撃魔法の方が得意でしょう?

 攻撃型の魔導士は術が強力である分、相性の合わない魔法に対する拒絶反応が激しいのよ。特に補助系魔法でその傾向が強いわ。

 あなたは他の人より多くの魔法を使えるんだから、このくらいは我慢しなさい」


「……はい」

 そうは答えたが、エイナの表情には落胆の色が露骨に浮かんでいた。


「……イナ、エイナってば!」

 シルヴィアの少し苛立った声に、エイナはびくっとして顔を上げた。


「え、なに? どうしたの?」

「どうしたのはそっちよ。何ぼんやりしていたの?」


「えとあの、ごっ、ごめんなさい。ちょっと考えごとをしていたの」

「こらこら、あたしたちは今、行方不明の男の子を捜しているのよ。

 ぼーっとしてたら、見つかるはずがないでしょ!」


「ええ、そうね。本当にごめん。

 もし私が感知魔法を使えたら、アリだって簡単に見つけられたのにと思ったのよ。

 そしたら、つい魔導院で教わった時のことを思い出しちゃって……。

 ケイト先生には、『相性の問題だから習得は諦めなさい』って言われて、とっても悔しかったの」

「ああ、あんたは魔法に関しては欲張りさんだものね」


「そっ、そんなことはないわよ!」

「じゃなかったら、爆裂魔法を教わりにエルフの女王を尋ねようなんて、普通思いつかないわよ」


「それはユニさんが……」

「ぎゃあっ!」


 シルヴィアが砂に足を取られて転び、砂丘の斜面をずるずると滑り落ちた。

 彼女が転んだのは、今日三度目である。


「ちょっとシルヴィア、大丈夫?」

「うえっ、砂が口に入ったわ。

 ほんっと、このクソ砂漠! 魔女の婆さんに呪われればいいのよ!」


「シルヴィア、下品よ」

「なんでエイナは転ばないのよ? 不公平だわ」


『それは……シルヴィアが急いで大股で歩くからだよ。はしたないよ』

 二人の後をついてくるカー君が口を挟んだ。


「お黙りっ! あたしはこれでも貴族の令嬢なのよ。

 大体、あんたは恥ずかしくないの?」

 シルヴィアの怒りは、エイナからカー君の方に向かってしまった。


「ユニ先輩のオオカミたちを見た?

 みんなカッコよくて、きびきび働いているじゃない。

 それに比べてあんたときたら、『呪いじゃ、祟りじゃ』って泣き叫ぶばかりで、情けないったらありゃしないわ。

 主人のあたしにまで、恥をかかせないでほしいわね!」


「シルヴィア、そんな言い方はカー君が可哀そうだわ」

 エイナが慌てて仲裁に入る。元はといえば、考えごとをしていた自分のせいで、シルヴィアが怒り出したのだ。


「あら、エイナ。あんたはカー君の肩を持つの?

 だったら、この子が何の役に立ってるのか、言ってみなさいよ!」

「えと、あの……少なくともなごむじゃない?」

『そうだそうだ、シルヴィアは僕をもっと大事にしろ!』


「鼻を殴るわよっ!」

 シルヴィアが拳を振り上げたところで、カー君がふいに耳を立て、横を向いた。


「あんた、あたしを無視するつもり?」

 いきり立つシルヴィアを、エイナが「どうどう」となだめる。

「ちょっと落ち着きなさいよ! カー君の様子が変だわ」


 二人がカー君を見守っていると、彫像のように静止していたカー君の呪縛が解け、ばっと振り返った。


『ユニのオオカミたちが、僕らのことを呼んでいる!

 男の子は見つかったみたいだけど、何か異変が起きているみたい。

 応援に来てくれって!』


 シルヴィアは一瞬で真顔に戻った。

「どっちの方向?」

『西! 僕が先導するから、後についてきて!』


 駆け出したカー君を、二人も慌てて追いかける。

 走りづらい砂地を踏みしめながら、エイナは唇を噛んでいた。

 何だかんだ言って、カー君だってしっかり役に立っている。

 そもそも、隠し通路の扉が開いたのも、彼が騒いで青い石が見つかったおかげなのだ。

 それに比べたら、魔導士の自分こそが〝役立たず〟だった。


      *       *


 エイナたちが駆けつけると、事態は混沌としていた。

 砂漠に巨大なすり鉢状の窪みができていて、その周りをオオカミたちが取り囲んで、しきりに吠えたてている。

 サーイヤが窪みの淵から身を乗り出し、金切声で息子の名を叫び、後ろからその服を噛んだヨミは、彼女が転落しないよう引きずって、穴から遠ざけようとしていた。


 ライガは口にロープを咥え、砂に四肢を沈めて踏ん張っていた。

 エイナたちはオオカミの横を駆け抜け、すり鉢の中を覗き込んだ。

 ロープの先にはユニがいて、腰に巻いたロープを徐々に伸ばして斜面を下りているところだった。

 彼女の口にはナガサの柄が咥えられ、その刀身は青白く発光している。


 ユニとは反対側では、白い服を着た男の子が斜面にへばりついていた。

 その子がサーイヤの息子、アリであることは一目瞭然である。

 そして、穴の底からは、二本の湾曲した角のようなものが生えていた。

 長さは軽く一メートルを超えていて、弓のようなカーブを描き、内側には鋭い棘のような突起が並んでいる。

 それが対になって、ガチガチと動いていた。


 二本の角は、砂に沈み込んでは撥ね上がる――という動作を繰り返していた。

 角が勢いよく現れると、大量の砂が飛ばされる。

 その砂は、狙いすましたように、斜面にしがみつく少年へと叩きつけられた。

 男の子は砂に手足を突っ込んで必死に耐えているが、打ちつけられた砂が斜面を転がり落ちるのに巻き込まれ、身体がずるずると滑り落ちる。


 何度も同じことが繰り返されたのだろう、地中から撥ね上げられた黒っぽい砂の軌跡が、斜面の中ほどから下の方まで続いていた。

 少年は底から数メートルのあたりまで下降していた。


 獲物の接近を感知したのだろう、角の生えている穴の底がぼこりと盛り上がり、本体が姿を現した。

 二本の角に見えたのは、怪物の頭部、それも口の外側から生える大顎おおあごだった。


 砂色の身体は短い毛が密生し、固く厚い鎧のような外殻に覆われていた。

 感情のない黒い単眼が両脇につき、じっと獲物を見詰めている。

 身体は巨大なカメムシか南京虫のような肩の張った形状で、胴体の下半分はまだ砂に埋まったままだった。


 何かの昆虫が巨大化したものだということは分かる。だが、エイナとシルヴィアには、どういう種類なのかは分からない。

 巨大な虫は、前脚をじたばたと動かしながら、身体を乗り出した。

 どうやら前進するのが苦手らしく、大顎を地面に潜らせ、砂を弾き飛ばす行為を激しく繰り返した。


 少年はずるずると滑落を繰り返し、もう少しで大顎が届く距離まで近づいた。

 ユニはその様子を見ると、ロープを握る手を離して一気に底まで滑り下りた。

 そして、落ちる勢いに任せて盛り上がった昆虫の背中に背後から飛び乗り、両手を使って頭部まで這い上っていく。

 彼女は咥えていたナガサを逆手に握り直すと、敵の眉間にめがけ渾身の力で刃を振り下ろした。


 ガチッ! という音と火花を残して、ナガサは弾き返される。

 怪物の硬い外殻は、ドワーフが鍛えた刃物を物ともしない。

 だが、ユニは諦めなかった。

 今度は目を狙う。つやつやした黒い眼球にナガサを突き立てると、刃の切っ先が潜り込み、黒っぽい粘液が飛び散った。


 ユニはすかさず次の一撃を加えようとしたが、その瞬間に身体が宙に舞った。

 砂粒を飛ばすのと同じ動きで、虫が自分の頭部を激しく撥ね上げたのだ。

 放り投げられたユニは斜面に叩きつけられたが、砂にめり込んだだけで怪我はしていない。


 そして、彼女が落ちたすぐ先には、アリがいた。

 ユニは男の子の身体を腕に抱え込み、身体に巻きつけてあったロープを引いた。


「ライガ、引いて!」


 弛んでいたロープに凄まじい張力がかかり、ビン!と音が鳴った。

 次の瞬間、子どもを抱えたユニは、釣り針にかかった魚のように地面から引っこ抜かれた。

 大顎を開いた怪物の頭部に体当たりをかまし、毛の生えた硬い胸部でバウンドし、砂の斜面に顔から突っ込む。

 そしてロープを巻いた腹がちぎれるような勢いで、ずるずると斜面を引き上げられた。


 ユニは身体を丸くして子どもを抱え込んだまま、オオカミたちが待つすり鉢の外で、ごろごろと転がった。

 すかさずサーイヤがユニを突き飛ばす勢いで襲ってきて、息子を奪い取った。


 全身砂まみれのユニは、ぺたりと砂の上に座り込み、泣いて抱き合っている母子の再会を眺めていた。

 身体中のあちこちに擦り傷ができ、目尻の上を切った血が目に入り、片方が見えなくなっていた。鼻血も流れて酷い顔だったが、彼女は微笑んでいた。

 

 血で赤い膜がかかった視界に、エイナとシルヴィアの姿を認めると、ユニはすり鉢の方を指さして怒鳴った。

「あんたたちの出番よ! あのいまいましい虫けらを、地獄に送ってやりなさい!」


 ユニの命令に反応したカー君が、喉をぼこりと膨らませ、次の瞬間火球を吐いた。

 わずかに遅れて呪文を唱え終えたエイナが、ファイアボールを叩き込む。

 二つの火球は逃げた獲物を捜している怪物に、まともにぶち当たった。


 轟音とともに炎のドームが出現し、巨大な昆虫を呑み込んだ。

 灼熱の炎は火球の中を暴れまくり、あらゆるものを焼き尽くし、数秒後には嘘のように消え去った。

 アリを喰おうとした怪物も、跡形もなく姿を消していた。


「やったわね!」

 シルヴィアが満足そうにふんぞり返ったが、エイナは緊張を解かなかった。

「待って、おかしいわ」


 そこには焼け焦げた昆虫の大顎が、棘だらけの足が、分厚い外殻が散らばっているはずだった。

 あの怪物の体長は、大顎を入れて四メートルはありそうだった。

 二つの火球包まれたとしても、そうした残骸を一つも残さずに燃え尽きるというのは不自然だ。


「カー君、もう一発撃ってみて」

 エイナはカーバンクルの肩をぽんと叩いた。


『任せてよ』

 カー君は再びぼこんと喉を膨らませ、火球を吐き出す。

 〝轟っ〟という音を残し、凝縮された灼熱の塊りが真っ直ぐに飛んでいき、底の砂にめり込んで爆発した。

 大量の砂が飛び散り、炎が吹き出してあっという間に半球状のドームを形成した。


 しかし、そうなる直前、火球の爆発的な膨張で砂を吹き飛ばした瞬間、ちらりとあの湾曲した大顎が見えた。

 それはすばやく後退して砂の中に潜り、消えてしまった。

 視力が常人よりもに優れたエイナでなければ気づけない、一瞬の出来事だった。


「あいつ、砂に潜って炎をやり過ごしたんだわ……」

「うそ、本当に? じゃあ、どうやってやっつけるの?」


 エイナはシルヴィアの問いに答えられなかった。

 だが、何か方法はあるはずだ。

 彼女は必死で考えを巡らせ、そして一つの可能性に思い当たった。


 エイナは再びすり鉢の手前に立ち、両手を前に突き出して、呪文を唱え始めた。

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