十八 すり鉢
乾燥した砂漠の砂というものは、あまり臭いが染みつかないらしい。
ユニの指示で捜索を開始したオオカミたちは、男の子の臭いは確認したものの、その行動までは追えなかった。
だが、ここは半径三百メートルほどの閉ざされた空間である。見つけ出すのは時間の問題だった。
四方八方に散ったオオカミだけに任せっきりにしたわけではない。
ユニやエイナたちも、手分けして連なる砂丘の中を歩き回った。
中でも必死だったのが、母親であるサーイヤだった。
彼女はアリの姿を探しながら、大声でその名を叫び続けた。
あっという間に彼女の声は枯れ、ガラガラのしゃがれ声になっても止めなかった。
捜索者たちの目に映るのは、単調に連なる砂丘と、ゆらぐ陽炎だけである。
身を隠すような木立も岩も見当たらない。
アリの姿が見当たらないということは、砂丘の間にできる谷部にいるということだろう。
当初は簡単に考えていたユニたちだったが、いくら丘を登り、踏み越えても少年は見つからなかった。
しかも、砂の中を歩き回るという行為は、想像以上の困難を伴っていた。
一歩踏み出すごとに足が砂に埋もれ、それを引き抜くだけで一苦労なのだ。
数分歩いただけでも腿の筋肉に疲労が溜まり、転びそうになるのを堪えると、ふくらはぎが攣りそうになる。
細かい砂は、靴の中に入ってくるだけでない。吹く風に舞い上げられて、目にも鼻にも入ってくる。当然口の中もじゃりじゃりになる。
これに比べたら、ハラル海の岩石砂漠の方が数倍快適であった。
エイナとシルヴィアは呪いの言葉を吐きながら、オオカミのいない砂丘を越えていった。
彼女たちが姿を消した丘の向こうから、悲鳴と淑女にあるまじき罵声が聞こえてきた。
大方、砂に足を取られて、斜面を転げ落ちたのだろう。
ユニは包帯用の晒布を顔に巻いて口を覆い、無言で歩き続けた。
自分ならこんな砂漠に閉じ込められた時、どうするだろう?
彼女は頭の中で、そう自問していた。
まずは周囲の状況を把握するだろう。
そして、脱出が不可能と覚ったならば、まず体力の消耗を防ごうとするはずだ。
いや、それよりも水分を失うことの方が恐ろしい。
この砂漠は、冬とは思えないほど暑かった。絶え間なく汗が吹き出し、あっという間に身体中の水分が蒸発していった。
ユニたちは水筒を持っているから水を補給できるが、アリにそんな用意があるとは思えない。
身を隠す遮蔽物がないこの状況で、どう動くのが正解だろうか……。
考えに沈むユニの脳裏に、いきなりライガの馬鹿でかい声が響いた。
『おい、ユニ! ちょっとこっちへ来てくれ!』
ライガの声から差し迫った危険は感じられないが、何やら深刻な口調である。
ユニはざくざくと砂を踏みしめながら、相棒の声がする方向へと急いだ。
* *
いくつかの砂丘を越えてライガのもとにたどり着くと、そこには他のオオカミたちも集まっていた。
それぞれが砂の中に鼻を突っ込み、前脚でしきりに砂を掻き出している。
オオカミたちが、ネズミやキツネの巣穴を掘り返す時の動作そのものである。
「どうしたの、何か見つけた?」
ユニは砂の上に座っているライガとヨミの夫妻に呼びかけたが、その答えを待つ必要はなかった。
彼らの前に、白い骨が転がっていたのである。
雑多な種類の骨だが、頭蓋骨が二つ混ざっている。明らかに人骨だった。
肋骨や骨盤は頼りない大きさで、子どものものと思われた。
ユニは言葉を失い、砂漠で果てていった子どもたちの残滓を、歯を食いしばって見下ろしていた。
その間にも、群れのオオカミたちは砂の中から次々に白い骨を掘り出していた。
やがて、ユニの足もとに子ども四、五人分はありそうな量が積み上げられた。
『今まで行方不明になっていたっていう、子どもたちのものだろうな』
ライガがぼそりとつぶやいた。
ユニは溜め息をつき、その場にしゃがみ込んだ。
「そうね。でも、あたしたちが捜しているアリの骨じゃなさそうだわ」
『ああ。ある程度時間が経ったものばかりだな』
「それにしても、どうしてこの辺に骨が集まっているのかしら?」
『その答えだったら簡単だ。
先へ行ってみろ。近寄り過ぎて、足を滑らせるなよ。
落ちたら上がってこれないぞ』
ライガはそう言って、頭を振った。
ユニはのろのろと立ち上がり、ライガが示した方向へと歩いていった。
「なるほどね……」
ユニの目の前には、美しい円錐を描く〝すり鉢〟状の窪みができていた。直径は十メートル近い。
彼女はしゃがみ込んで手を伸ばし、斜面の砂をすくい取ってみた。
指の隙間から、あっという間に砂が零れ落ちていく。
ここまで踏みしめてきた砂とは粒の大きさが全く違う。
目の細かい篩で何度も丹念に砂を選り分け、やっと手に入るような繊細な砂粒である。
ライガの言うように、このすり鉢状の窪地に足を踏み入れたら、あっという間にそこまで滑り落ちる。恐らく、よじ登って戻ることなど不可能だろう。
「何なの、これ?」
ユニは呆然として眼下の窪みを見下ろしていた。
『さあな。俺には何かの罠のように見える。
試しにあのやかましいカーバンクルでも放り込んでみたらどうだ?
そうすりゃ、正体が分かると思うぜ』
「やめてよ。シルヴィアに恨まれるわ。
でも、これってアリジゴクの巣に似ているわね。大きさが全然違うけど、形はそっくりだわ」
『何だそれ?』
「虫よ。カゲロウっていう弱っちい羽虫なんだけど、幼虫の時は結構いかついのよ。
雨の当たらない乾いた砂地に、こんな感じのすり鉢を作って、アリとか小さな昆虫が落ちてくるのを待っているの」
『こんなデカい穴を掘るのか?』
「まさか、数センチのちっこい奴よ」
『落ちたアリは捕まって喰われるってわけか』
「正確には体液を吸われるんだけどね。カラカラになった死骸は、大あごで巣の外に撥ね飛ばすの。
この骨もそうやって放り出された犠牲者ってところかしら。
アリがまだ無事ならいいんだけど……って、あたしが言ってるのは男の子のことよ!
昆虫の蟻じゃないからね!」
ライガは呆れたように欠伸をしてみせた。
『俺は何も言ってないぜ。一人で赤くなるなよ、可愛い奴だな』
ユニは思いっきりライガの眉間の辺りの鼻面を殴りつけた。
〝ギャンッ!〟というオオカミの悲鳴を聞きつけたのか、サーイヤが砂丘の頂から顔を出した。
彼女はユニとオオカミたちが集まっているのを見て、何か見つかったのだと気づいた。砂に足を取られながら、慌てて駆け下りてくる。
ユニは内心で『しまった!』と後悔したが、もう遅かった。
サーイヤはユニの足もとに集められた人骨に気づくと、引き攣った表情で悲鳴を上げた。
「落ち着いて、サーリヤ。これはアリの骨じゃないわ!」
慌てたユニがなだめても、彼女は金切声を上げて息子の名を叫び続けた。
その時である。ふいにライガとヨミの二頭が、びくんと身体を震わせた。
オオカミたちは大きな耳を立て、窪みの向こう側をじっと見詰めている。
ユニもすぐに反応して目を凝らす。
目の前に広がるすり鉢を除けば、周囲は砂の丘が果てしなく広がっている。
その砂の斜面で、何かが動いたような気がした。
なだらかな砂の表面に、ぼこりと小さな膨らみができたのだ。
その隆起からは砂が滝のように流れ落ち、それを突き破って人の手が生えた。
細く頼りない二本の腕は、もがくように虚空を掴もうとした。
ユニは、骨を胸に描き抱き、ヒステリックに叫び続けるサーリヤの頭を押さえつけると、無理やり顔を上げさせた。
「あれを見て!」
涙で濡れた頬に砂がこびりつき、酷い顔になっているサーイヤが一瞬で凍りついた。
眼球が落ちんばかりに開かれた目から、新たな涙がぶわっと吹き出した。
「アリーーーーーーーッ!」
しゃがれ声で絶叫したサーイヤは、砂の中から現れた子どもに駆け寄ろうと立ち上がった。
ライガがすばやくその背中に圧し掛かり、彼女を砂に押さえつけた。
「放して!」
口に入った砂を吐き出しながら、半狂乱になった母親は叫び、逃れようとした。
だが、オオカミは太い前脚で彼女を踏みつけたままで、それを許そうとはしなかった。
サーイヤがそのまま駆け出していたら、すり鉢状の窪みに転落するのが目に見えていたからだ。
「ライガ、そのままサーイヤを押さえていて!
母さん! 男の子を保護してちょうだい!」
ユニの声に応じて、ヨミは弾かれたように飛び出した。
巨大なすり鉢を迂回するように回り込み、アリのいる反対側へと向かったのだ。
だが、まずいことが起こった。
アリの方も、こちら側にいる母親の存在に気づいてしまったのだ。
* *
アリは利発な子であった。
わけも分らないうちに、この奇妙な砂漠に放り出された彼は、ここが閉ざされた結界であることに気づいた。
そして、状況を把握するための探索だけで、体力を大幅に消耗したことに危機感を覚えていた。
ここには水がない。無暗に動き回れば、死が早まるだけだということを理解した。
彼は両親が必ず探しに来てくれることを信じ、砂を掘って自ら地中に潜っていたのである。
砂地とはいえ、地中はわずかに湿っており、温度も地表より低く安定している。
窒息しないように顔だけを出し、じっとしていることで、身体の表面から水分が失われるのを最小限に留めていたのだ。
耳も砂に覆われていたため、外の音が聞こえづらかったが、さすがに十数メートルの距離で叫ぶ声には気がついた。
しかも、それは夢にまで見た母の声である。
アリは衰弱した身体で、どうにか重い砂の中から這い出すことに成功し、起き上がった。
砂にやられた目が霞んだが、母の姿は見間違うはずがなかった。
だが、その母は化け物のような巨大なオオカミに押さえつけられ、砂地に這いつくばっていた。
今にも頭を喰いちぎられそうだったが、彼女は必死で自分の名前を叫び続けている。
オオカミは一頭だけでなく、群れをなして母を取り囲んでいた。
とても敵いそうもなかったが、アリは母を助けにいかなければならなかった。
それは男として生まれた自分に課せられた責務である。
母の隣に、男のような恰好をした見知らぬ女が立っていて、自分に向けて何かを叫んでいた。
だが、朦朧としたアリの頭には、彼女の言葉が入ってこなかった。
少年は砂からすっかり抜け出すと、母を助けるべく真っ直ぐに歩き出した。
* *
「まずい!」
ユニは焦った。
「動かないで、そこにじっとしていて!」
声を枯らしてそう叫んでも、少年にその声は届いていないようだった。
救いに行ったヨミは、砂に足をとられて速度が出ず、すり鉢の端を弧を描いて迂回しているため、向こう側に着くまであと十秒はかかりそうだった。
男の子は待ってはくれず、こちらに向けてよろよろと歩き出している。
恐れていたことが現実となった。
アリは数歩も進まぬうちに窪みの淵を踏み越え、あっという間に足もとが崩れて滑落してしまったのだ。
「トキ、ライガと代わって!」
ユニはオオカミに命じ、背負っていた背嚢を下ろして中からロープを取り出した。
「まったく、今日はよく活躍してくれるわね」
彼女はそうつぶやきながら、素早く端に結び目を作る。そしてそれをライガに向けて放り投げた。
オオカミは器用にそれを空中でキャッチし、しっかりとロープを咥えた。
『お前もたいがい無茶をするな』
呆れたようなライガの声が頭に響いた。口が塞がっていても話ができるのは、脳内会話の便利なところだ。
「すり鉢の主が休暇を取って、どっかへ旅行してるといいんだけどね。
あんた、カー君とは連絡がつくの?」
『ああ、そんなに離れてはいないから大丈夫だろう。呼ぶか?』
「お願い。シルヴィアだけじゃなく、エイナも連れてくるよう頼んでちょうだい」
『了解。
ん? ちょっと待て、小僧が止まったぞ』
ユニが振り返ると、アリが斜面の中間あたりで滑落を食い止めていた。
体重の軽い子どもだからできたことだろう。
「ありがたいわ!」
ユニはすり鉢の淵から身を乗り出すと、アリに向かって叫んだ。
「アリ君ーーーーっ! あたしの声が聞こえるーーーっ?」
少年がユニの方を振り向き、こくんとうなずいてみせた。
滑落という危機が、混濁した彼の頭に〝活〟を入れたらしい。
「そこでじっとしていてちょうだい! 今、助けに行くわ!」
「でも、お母さんが! オオカミに殺されちゃう!」
「安心して! この子たちはあたしの仲間なの。
あんたのお母さんが穴に落ちないように押さえているだけ。
食べたりなんかしないわ、あたしを信じて!」
少年は少し黙ったが、何とか納得したらしく、大きくうなずいてくれた。
「聞き分けのいい子だわ!」
ユニはロープを肩にかけ、ライガの背に飛び乗った。
「よし、向こう側に回り込んで、アリ君を引き上げましょう!
サーリヤ、息子さんはあたしがちゃんと助けてあげる。お願いだから、あんたは大人しくしていてちょうだい。
ライガ、行くわよ!」
状況の好転に、ユニの表情には明るさが戻ってきた。
だが、それは一瞬のことだった。
「どうしたのライガ? 早く行ってよ」
動かないライガの顔を、ユニが怪訝そうに覗き込むと、オオカミはじっと穴の底を見詰めている。
『おい、ユニ。ありゃあ一体……何だ?』