十六 祭壇
アギルの街の郊外には畑が広がっていたが、それらの間を縫ってしばらく進むと、次第に緑がまばらとなり、やがて見馴れた岩石砂漠へと変わった。
街を出て五キロと言えば、人間の足でも一時間ほどの距離で、サーイヤのためにゆっくり進んだオオカミたちだが、二十分足らずで着いてしまった。
荒涼とした砂漠の中にぽつんと建っている古代の神殿は、エイナたち王国の人間に奇妙な印象を与えていた。
この時間に礼拝に来る者は珍しく、この日も無人だったので、中を調べるには好都合だった。
オオカミから降りたサーイヤが先導し、ユニとオオカミたち、そしてエイナとシルヴィアがその後に続いた。
石造りの階段を上がり、古い神殿の中に入ると、空気がひんやりとして肌寒い。
アギルの人たちがまめに清掃しているらしく、床には砂ひとつ落ちていなかった。
サーイヤは馴れた様子で薄暗い広間の中を進み、正面の祭壇の高い所に祀られた青い水晶を指し示した。
「私たち家族は、ここでいつものように礼拝をしました。
祈りの言葉を唱えながら、ひざまずいて額を三度床につけるのです。もちろん目を閉じてです。
礼拝が終わって目を開けると、直前まで隣にいたアリの姿が消えていたのです」
サーイヤがそう説明する間にも、オオカミたちは周囲の床に鼻をこすりつけるようにして、臭いを嗅ぎまわっていた。
彼らはあらかじめアリのズボンと靴の臭いを記憶している。
男の子が行方不明になったのは、昨日のことだった。
床には多くの人間の痕跡が残っていたが、その中から特定の臭いを嗅ぎ分ける作業は、オオカミたちにとって娯楽のようなものである。
彼らはすぐに目当ての臭いに気づき、それを辿ってうろうろと動き回った。
オオカミたちはいったん神殿の外に出て、再び階段を上がって中に入ってきた。
どうやら男の子が残した痕跡を完全に把握したので、その動きを再現しようとしているようだった。
オオカミたちの意図が分からないサーイヤは、外に出て行く彼らを見て叫び出しそうになった。だが、ユニがその手をそっと握って耳元に何事かささやいた。
彼らは、アリの行方を注意深く追っているのです。だから静かにしてあげてください――と落ち着かせたのだろう。
オオカミたちは祭壇の前まで戻ってきて、しきりに床の臭いを嗅いでいたが、しばらくするとうなずき合い、一斉に動き出した。
祭壇の裏へである。
ユニたちもその後をついていく。
神殿には明かり採りの窓がいくつもあり、内部は薄暗いながらも視界が確保されていた。
だが、神殿の裏側は窓から差し込む光が遮られ、暗く見通しが利かなかった。
夜目の利くエイナにだけは、はっきりと見えていた。
オオカミたちが一か所に集まり、しきりに臭いを嗅ぎながら床を前脚で引っ掻いている。
その肩を、ユニが掴んだ。
「エイナ、明かりの魔法を」
ユニにささやかれたことで、エイナは自分の迂闊さに気づいた。
彼女は慌てて呪文を唱え、他の者たちのために明かりを灯した。
頭を寄せ合うオオカミたちの一頭が、それに釣られたように顔を上げた。
群れのリーダーであるライガである。
『ユニ、子どもの臭いはここで途切れている。
行き先はこの床の下だな』
ライガの落ち着いた声は、エイナとシルヴィアにも届いていた。
オオカミたちとも会話のできるカー君が、その声を中継しているのだ。
ユニはオオカミたちに離れるように命じると、床に片膝をつき、四角い石畳を撫でたり押したりしたが、怪しい部分は見つからない。
彼女は腰のベルトから、ナガサと呼ばれる山刀を抜いた。短剣というより、包丁の親玉のような物騒な武器である。
エイナの手の上で輝く明かりを反射して、よく研がれた刀身がぎらりと光った。
『気をつけろ、ユニ。この床の下で何かが動いているぞ』
「人、それとも獣?」
ライガはくしゅんと鼻を鳴らした。
『どっちも違う。生き物の気配じゃない』
「幽霊だったりしてね」
ユニは軽口を叩いて、ナガサの切っ先を石畳の継ぎ目に差し込んだ。
薄く鋭い切っ先は、すっと滑るように潜り込んだが、刀身の厚みで深くは入らない。
彼女はそれ以上に刃を入れることを諦め、そのまま切っ先を横に滑らせた。
短剣は滑らかに移動して、隣の石床との継ぎ目でぴたりと止まる。
その地点で刃を直角に入れ直し、また動かす。
結果として、縦一・五メートル、横二メートルほどの長方形の石畳の目地には、砂や埃が詰まっているだけで、膠泥で接合されていないことが分かった。
ユニはその長方形の床を力を込めて押してみたが、ぴくりとも動かない。
継ぎ目に差し込んだナガサを梃子にして持ち上げる試みは、刃先が折れそうだった。
『この隙間に子どもの臭いがこびりついている。
ガキがこの下に入ったのは間違いないから、何かの仕掛けがあるのかもな』
ライガの見解をユニが伝えると、サーイヤが言葉にならない叫び声を上げて、石の隙間に指を入れようとした。
もちろん人間の指など入るはずがない。サーイヤは爪の先を引っかけて床を持ち上げようとしたが、爪が剥がれて血が噴き出すだけであった。それでも半狂乱となった母親は止めようとしなかった。
ユニが慌てて彼女を手首を握り、血まみれの指を無理やり引き剥がした。
「放して! アリがこの中にいるのよ!」
サーイヤは泣き叫んで暴れたが、ユニががっちり押さえているので身動きができなかった。
ユニはサーイヤの涙に濡れる頬を、平手で張り飛ばした。
ぱんという小気味のいい音が、かすかな残響を伴って薄暗い神殿に響く。
「落ち着きなさい!」
ユニが怖い顔で怒鳴りつけると、サーイヤは床に突っ伏してわっと泣き崩れた。
シルヴィアが駆け寄って、その背中を優しくさする。
「これは〝隠し通路〟だと思うわ。いわゆる抜け道ね」
「神殿にそんなものが?」
シルヴィアが顔を上げて訊ねる。サーイヤの泣き声は小さくなってきた。
「この神殿は旧アギル市街の中心だって、アイーシャが言ってたでしょう?
つまり、私たちの都市の城と同じような存在なのよ。
敵に攻め込まれた時、市民は最終的にこの神殿に追い詰められることになるわ。
そんな時、街を支配する権力者はどうすると思う?」
「それは……市民を守って戦うんじゃないですか」
「ふっ、甘いわね。古今東西、権力者の取る行動は決まっているわ。
自分だけ逃げようとするのよ」
「そんな……」
「あら、信じられない?
実際、リンデルシアの王城にも、王族しか知らない抜け道があるのよ。
多分、四古都の城にも、四帝だけが知る隠し通路が存在しているでしょうね」
ユニはそう説明してから、溜め息をついた。
「問題はね、そうした通路を開くには特殊な方法があって、それは権力者だけの秘密だってことよ。
あたしたちみたいな部外者が、今みたいに入口を見つけても、それを開ける術を知らなくては、どうにもならないわ」
「でも、それならアリはどうやって中に入ったのでしょう?」
シルヴィアの疑問に、ユニは肩をすくめてみせた。
「さぁてね。子どもを誘拐しようとした犯人が、内側から開けたんじゃないかしら。
それより、あんたの相棒はどうかしたの? まるで大きな毛玉みたいになっているけど」
ユニに指摘されたシルヴィアは、後ろを振り返った。
さっきまで傍にいたカー君が、四、五メートル離れた壁際に身体を押しつけ、ぷるぷると震えていた。
いつもはぴんと立っている長い尻尾は股の間に巻き込まれ、全身の毛がぶわりと逆立って、ユニが言うとおり大きな毛玉のようになっている。
「どうしたの、カー君?」
シルヴィアが不思議そうに声をかけると、幻獣の怯えた声が頭の中に返ってきた。
『どうしたのって、シルヴィアは気づかないの?
もの凄い邪悪な気配がしてるじゃないか!』
「ちょっと、冗談は止めてよ。ここって神殿よ?」
二人の会話は、オオカミを介してユニにも聞こえていた。彼女は足元の床を指さして訊ねた。
「確かカーバンクルって、闇や呪いに敏感だったわよね?
ひょっとしてこの床の下に、そういう悪い物があるってことなの?」
しかし、カーバンクルは激しくそれを否定した。
『違うよ、もっと上! その祭壇に変なのがあるの!』
ユニたちは振り返って祭壇を見上げた。
正確な長方形に切り出された石材で組まれた祭壇は、およそ三メートルほどの高さがある。
壇上には紫水晶が祀られているが、上に昇れるような階段はない。
正面側には、サラーム教の予言者が神の啓示を受ける、有名な場面を刻んだレリーフが飾られている。
彼女たちがいるのはその反対側の裏面なので、当然何の装飾もなく、ただ滑らかな壁が真っ直ぐ立ち上がっているだけである。
ユニは背負っていた背嚢からロープを取り出し、腰から鞘ごと外したナガサに結びつけた。
それを頭上でひゅんひゅんと回転させてから、壇上めがけて投げ上げた。
最初は失敗したが、何度か繰り返すと、うまい具合にナガサが水晶の土台に絡みついた。
ユニはぐいぐいとロープを引っ張って外れないことを確かめると、祭壇の壁面に足をかけて登り始めた。
二メートルほどの高さまで登ったところで彼女は振り返り、カー君に声をかけた。
「どう、この辺?」
壁際から頼りない声が返ってくる。
『う~ん……そんな感じもするけど、遠くてよく分かんない』
「あんたって子は、まったく!」
シルヴィアがぶつくさ言いながらカー君のもとへ駆け寄り、首根っこを掴んで祭壇の方へ連れていこうとした。
カー君は四肢を踏ん張って抵抗したが、シルヴィアは容赦なくずるずる引きずっていく。
「ユニ先輩にばっかり働かせて、あんたがサボってんじゃないわよ!
黙って浮きなさい!」
シルヴィアはそう叱りつけ、カー君の身体を勢いよく引っ張り上げた。
彼女は体格がいいこともあって、力が強い。
カー君は石の床から持ち上げられ、そのままふよふよと空中に漂った。
「エイナ、手伝って」
呼ばれたエイナとシルヴィアがしゃがみ、カー君の腹に肩を当てて思いっきり押し上げた。
カー君はその反動で、祭壇の途中で止まっているユニの近くまで浮かび上がった。
ユニやエイナたちは、カー君に浮遊能力があること(ただし自力移動はほとんどできない)を知っているが、サーイヤは驚いてへたり込んでしまった。
ユニはカー君の長い毛を掴むと、自分の傍に引き寄せた。
「情けない顔してないの!
ほら、あんたの感じる邪悪な気配って、どこなのよ?」
『……ここ』
カー君は顔を明後日の方向に背けながら、前脚を上げて祭壇の壁を指し示した。
ちょうどユニの腹の辺りである。
「よし」
ユニは少し降りて位置を調整すると、ロープを腰に巻いて身体を固定した。
「この辺ね……」
彼女はカーバンクルが指した辺りの石壁を手で探りはじめた。
カー君は四肢をばたばたさせて、そこから逃れようとするが、その尻尾をユニが掴んで引き戻す。
「この石、動きそうだわ」
ユニはそうつぶやき、石の中央をぐっと押し込んだ。
すると石が勝手に引っ込んでいき、〝ごとん〟という音を立てて下に落ちた。
その跡には、縦十五センチ、横三十センチほどの穴が現れた。
『わあぁぁぁっ! 駄目っ、それ駄目! 絶対に呪われるよぉ!』
ひんひん鼻を鳴らしながら喚くカー君を、ユニが殴りつけて黙らせる。
オオカミたちと暮らす彼女は、獣の扱いには馴れたものだった。
「うるさいから、あんたはちょっと黙りなさい!」
ユニはそう言いながら、腰から投げたのとは別のナガサを引き抜いた。
彼女はそれを穴の前にかざし、じっと見守った。
何も変化がないと判断したユニは、ナガサを鞘に戻すと、無造作に穴の中に手を入れた。
『駄目ーーーーーーーっ! 呪われるってばぁ!!』
カー君が喚くのを、ユニが怖い顔で睨みつけ、再び黙らせる。
「今度うるさくしたら、鼻の上を殴るわよ!
いい? あたしのナガサにはエルフの呪文が刻まれているの。
もし、あたしに害をなす存在が近づけば、刀身が青く光るのよ。
そうじゃなかったってことは、危険はない。安心しなさい」
ユニはカー君にそう言い聞かせて、さらに腕を深く入れた。
ごそごそと奥を探った後、ユニは腕を引き抜いた。
その手には灰色の岩の塊が握られている。
大きさは縦横二十センチほど、ごつごつとした形状で、加工された感じはなかった。
ユニはそれをベルトに結んでいた袋に入れると、ぐいぐいと祭壇を登っていった。
カー君の尻尾は握ったままである。
祭壇の上まで登り切った彼女は、水晶の土台に絡んでいたロープを外し、ついでに祀られている紫の宝石をじろじろ眺めた。
ユニはカー君の首を掴んで水晶に近づけた。
「これはどう? 力の存在とか、神聖な感じとかする?」
『ただの水晶だと思うよ。って言うか、僕が分かるのは闇か呪いだもん』
カー君は完全に不貞腐れていた。
「あっそう」
ユニはそう言うと、浮かんでいるカー君を無造作に蹴って、その背中に飛び乗った。
祭壇から離れたカー君は、ユニの重みでゆっくりと下降していった。
下から見上げていたシルヴィアは、感動の眼差しでユニを迎えた。
「さすがです、ユニさん! カー君の扱い方、勉強になります!
言うことを聞かないときは、鼻の上を殴ればいいんですね?」
地面に足がついて行動の自由を取り戻したカー君は、エイナに飛びついて鼻づらを彼女の胸に押しつけた。
『暴力女なんか嫌いだ~!』
「どうどう、シルヴィアはユニさんを尊敬しているんだから、諦めなさい」
エイナは苦笑いを浮かべてカー君を引き離した。
その肩に、ライガの前脚がぽんと置かれた。
オオカミの目には同情の色が浮かんでいる。彼はユニの被害を受ける先輩として、ありがたい忠告を与えてくれた。
『そうか、お前、今まで甘やかされていたんだな。
あのなぁ、鼻を殴られると……死ぬほど痛いぞ』