十一 軍事教練
魔導院の野外運動場は騒然となった。
突然の爆発音で、生徒たちは一斉にエイナとミハイルの方を見た。
そして、ほとんどの生徒が二人の間に出現した大きな炎の塊を目撃したのだ。
男子生徒が大声を上げ、女子生徒は悲鳴を上げた。
少し離れて椅子に座っていた監督の先生は、その声で異変に気づいた。
ただ、その時にはすでに魔法炎は消滅しており、エイナとミハイルは地面に転がっていた。
「お前たち、何をしている!」
先生は慌てて立ち上がり、駆け寄ってきた。
どうしていいか分からずに、倒れている二人を取り囲んでいる生徒たちをかき分けると、その場にしゃがみ込んだ。
エイナは肩を揺すっても反応がなく、気を失っているようだった。
先生は指先をエイナの耳の下にあてがった。
少し弱いが、規則正しい脈動が感じられ、命の危険はなさそうだった。
ミハイルの方は、腰を抜かしているだけで意識があった。
「おいっ、大丈夫か!
一体何があった?」
先生はミハイルを抱き起こし、乱暴に肩を揺すった。
ミハイルはきょろきょろと辺りを見回したが、目の焦点が合っていないのがすぐに分かった。
「目が、……目が見えません!
僕たち、発火の魔法を練習していて……何が起きたのかよく分かりません」
先生はやっと事態を把握した。
「くそっ、魔法の暴発事故か!
お前たち、ミハイルに肩を貸して連れてこい!」
彼は傍らの男子生徒にそう指示をすると、エイナの身体を抱き上げて魔導院の医務室へと向かった。
女の子の中にはヒステリーの発作を起こしたのか、泣き喚いている子もいたが、今は構っていられなかった。
* *
エイナが意識を取り戻したのは、その日の夕方のことだった。
魔導院の医務室のベッドの上である。
かなりの時間が経ったせいか、もう視力は戻っていた。
横を見ると、隣のベッドにミハイルが寝かされていた。
今は眠っているらしく、規則正しい寝息が聞こえている。
顔の上半分が白い包帯でぐるぐる巻きにされていたので、その表情までは分からなかった。
エイナは身を起こそうとしたのだが、腕が重くて動かせなかった。
彼女の右腕は毛布の上に出され、指先から肩の近くまで包帯が巻かれていた。
そして、その上に水嚢(豚の膀胱で作った水入れ)がいくつも置かれていた。
「気がつきましたか?」
ミハイルとは反対の方から、落ち着いた女性の声がした。振り向くまでもなく、ケイト先生だとすぐに分かった。
エイナは腕が動かせないので、顔だけを向けた。
軍服を着たケイト先生が、丸椅子の上に腰をかけてエイナに微笑みかけていた。
「えと、ええと……私はどうしたんでしょう?」
間の抜けた質問に、ケイト先生は小さな笑い声を洩らした。
「あなたとミハイルは、自習の時間に勝手に発火の魔法を試したんですって。
それで、あなたが魔法を暴走させて、二人ともひっくり返ったってわけ。
まったく……エイナがここまで元気のいい子だとは知らなかったわ」
先生の低く柔らかい声で、エイナは昼間に起きた事件のことをすべて思い出した。
「あのっ、ミハイルは大丈夫なんですか!」
「そうね、おでこと鼻の頭に軽い火傷を負ったわ。
あと、前髪を派手に燃やしたから、髪型を変えなきゃいけないと思うわ。
まぁ、悪戯の代償としては妥当なものじゃないかしら。明日にはベッドから追い出されるはずよ。
どちらかといえば、あなたの方が重傷ね」
「そんなに酷いのですか?」
エイナは情けなさそうに、包帯の巻かれた右腕に目を遣った。
「そのはずなのよねぇ……。
お医者様が首を捻っていたわ。服が燃えてなくなるほどの炎に包まれたにしては、火傷の程度が軽すぎるって。
当分は痛くて指も動かせないでしょうけど、時間が経てば治るそうよ。
ただ、跡が残るのは覚悟しておいた方がいいわね」
「えと、あの……多分、大丈夫だと思います。
ちょっとひりひりしますけど、もう指も動かせますし」
「え?」
ケイトの顔に驚きの表情が浮かんだ。
「ほら」
エイナは水嚢の下敷きになっている指先を、もぞもぞと動かしてみせた。
「そんなはずは……。お医者様は『今夜は痛みで眠れないかもしれない』とおっしゃっていたのよ。
本当に痛くないの?」
「はい。私、生まれつき傷の治りが人より早いんです。
お母さんから、気味悪がられるからあまり人に話さないようにって、小さいころから言われてました」
「……そうなの?
ま、まぁ、痛みが酷くないなら、それに越したことはないわね。
とにかく、今日はこのまま大人しく寝ていなさい。
あと一時間もしたら、食事を運ばせるから」
ケイト先生は丸椅子から立ち上がるとかがみ込み、エイナの額を軽く握った拳でこつんと小突いた。
「元気になったら、ミハイルと一緒にちゃんと罰を受けるのよ。丸一日の反省室行きね。
事故が起きたって報せを聞いて、大慌てで現場から戻ってきたのよ。
死ぬほど心配したんだから、これは私からの罰よ」
先生はそう言うと、エイナの頬にキスをして去っていった。
こんな罰なら、何度でも受けたい――少女はそんな不謹慎なことを思った。
* *
医務室の扉を後ろ手で静かに閉めると、薄暗い廊下から待っていたように声がかかった。
「どうでしたか、君の自慢の子たちは?」
「思ったより、ずっと元気ですね。
特にエイナの方は、医師の見立てとかなりの差があります。
ユニさんの報告書どおり、特異体質かもしれませんが……」
ケイトはそう言って物思いに沈み込んだが、男の声ですぐに現実に戻された。
「事故を目撃した生徒たちは、炎の直径が一メートルを超していたと一様に証言していますね。彼らは測距訓練を受けているから、恐らく確かでしょう。
過剰な魔力の放出による暴走であることは間違いないと思いますが、呪文に組み込まれた制御構文を破壊するほどの魔力だったということになります。
君の話では彼女、そこまで膨大な魔力の保有者ではなかったはずですけどね?」
ケイトは男の確認するような言葉にうなずいてみせた。
「はい。あるいは魔法の訓練を通して、魔力量が増大しているのかもしれません。
それにしても、彼女の異常な回復力が特異体質だとしても、暴発した魔法炎の直撃を受けて、軽い火傷で済んでいるのは説明がつきません」
「そうだね。
ひょっとして、そのエイナという娘は……魔法に抵抗したんじゃないのかな?」
ケイトは目を瞠った。
「まさか! そんな話はどの文献でも見たことがありません。
それとも、帝国では高位の魔導士になると、そのようなことも可能になるのでしょうか?」
男は首を横に振った。
「いいや。僕も聞いたことがないね。
ただ、この国の召喚士――特に国家召喚士の幻獣たちは、当たり前に魔法を無効化してしまうだろう?」
「エイナが幻獣だとでも?」
「まさか。さすがにそれはないだろうがね。
とにかく、エイナは注意深く見守る必要があるだろう。
頼んだよ〝ケイト先生〟」
首席参謀副総長マリウスは、目を糸のように細めた笑顔を浮かべ、ケイトの肩をぽんと叩いた。
* *
ケイトの予言どおり、ミハイルは翌日にはベッドから出て、寄宿舎に戻ることを許された。
エイナが医務室から解放されたのは、その二日後のことである。
診察した魔導院の嘱託医師は、「医学常識を冒涜しておる!」と文句を言いながら、渋々とエイナの退室を認めてくれた。
彼女の右腕は、赤い痣のような火傷跡がまだらに残っていたが、すでに痛みは全くなく、手や指も何不自由なく動かせたのだから仕方がない。
その火傷跡も、寄宿舎に戻って一週間ほど経つと、きれいさっぱり消えてしまった。
エイナが寄宿舎に戻さた翌日、ミハイルとエイナに対する罰が与えられた。
反省室という窓のない小部屋に別々に入れられて、丸一日反省文と呪文の書写を命じられたのだ。
そして反省室から出た次の日、朝食で食堂に集まった全生徒の前で、反省文を大声で読み上げさせられた。
男子生徒からは盛んな野次と嘲笑が浴びせられ、人見知りのエイナは顔を熟柿のように真っ赤にしたが、ミハイルの方は得意気な顔でにやついていた。
男の子にとって、反省室行きは一種の勲章だったのだ。
* *
魔法科の生徒にとって、もっとも手強い授業は軍事教練だった。
これは魔法実技と違って、日曜を除く毎日一時限、必ず受けなければならず、三クラス合同で行われた。
魔法科に集められた生徒たちは、いずれも学業優秀であったが、それだけに運動能力の方は見劣りする者が多かった。
しかも、一般の小学校では軍事教練などあるはずがなく、武術や体術は初めての経験だったのだ。
入学から半年間は、ほとんどの時間を基礎体力作りに費やされた。
単純な走り込みから始まり、重い背嚢を背負った行軍訓練、号令に従って一糸乱れぬ動作をする行動訓練に進む。
そして匍匐前進、綱登り、塹壕掘りなど、いじめではないかと疑いたくなるようなきつい体験が待ち受けていたのである。
ところが、それはほんの序の口に過ぎなかった。
半年が過ぎて、生徒たちの体力がついてきたと判断されたところで、武術と体術の実技が始まったのだ。
武術は剣術、槍術、弓術の三分野、体術は拳と蹴りによる打撃術、関節技や投げ技を含む格闘術、ナイフやロープによる近接戦闘及び捕縛術である。
弓矢は訓練が終わると腕がぱんぱんになったが、まだましな方だった。
剣術は木剣、槍術は先にぼろ布を巻いた樫の棒を使用する。当たると物凄く痛く、打ち身は当然、当たり所が悪ければ骨折するという危険なものだった。
体術の方も、受身を覚えるまでは体中に痣ができ、捻挫や脱臼が日常茶飯事であった。
初めのうちは一人での打ち込み、型や受身の練習だけだったが、すぐに対戦訓練に移行された。
教練の指導者は、軍から派遣された現役の軍人である。
もちろん素人の生徒たちが敵う相手ではなく、対戦指導では散々に打ちのめされた。
女子の場合は多少の手加減がされたが、基本的には平等に痛い目に遭わねばならなかった。
最初の一年はそれで済んだが、二年目になると召喚士科の生徒たちとの合同授業が始められた。
前年度までは、一人の教官が生徒たちを順番に指導していたから、対戦数は限られていた。素人である生徒同士の対戦は、事故を起こす危険があるので厳しく禁じられていたのだ。
ところが、新年度になって召喚士科の生徒七人が加わると、彼らが魔法科生徒の相手をするようになった。
召喚士候補生たちは、六歳の時から軍事教練を受けている。六年の経験差があるため、同年代といってもその技量は隔絶していた。
要するに、一人だった教官が八人に増えたようなものである。
対戦訓練数は一気に数倍となり、魔法科生徒たちの地獄の日々が果てしなく続いたのである。
召喚士科の生徒七人のうち、三人は女子だった。
彼女たちは魔法科の女子(三クラスで十一人)の指導を受け持つことになった。
これは、単純に身体が密着する体術のことを考慮しての措置であり、遠慮がない分容赦がなかった。
中でも学年の首席であるシルヴィアは、男子でも勝てる者がいないほど強く、指導も厳しかった。
そのため魔法科の女子たちは、シルヴィアの同室であることを理由に、相手役としてエイナを押しつけた。
魔法科の女子の方が人数が多いので、シルヴィアの指導から完全に逃れられるわけではないが、エイナが相手として固定されれば、それだけ自分たちの被害が減るというわけである。
シルヴィアとエイナは、すでに親友と言えるほどに仲良くなっていた。
出自から性格に至るまで真逆の二人であったが、それがかえってよかったらしい。
もちろん、シルヴィアはエイナが相手だからといって手を抜くような人間ではなく、それはエイナも十分に承知していることだった。
シルヴィアも同室のエイナが〝どん臭い〟ということを知っていたので、正直に言って彼女の実力にはほとんど期待をしていなかった。
実際に武器で打ち合ったり、組手をしてみても、エイナには技術がほとんど身についておらず、シルヴィアの敵ではなかった。
ただ、エイナは思ったより筋力と体力があり、その点は驚きだった。
シルヴィアは知らなかったが、前年度の軍事教練でもエイナの成績は優秀で、特に基礎体力では男子に引けを取らなかったのである。
そして、何度かエイナと立ち合うことで、シルヴィアは不思議なことに気がついた。
先に述べたように、エイナの打ち込みや技は、力はあるものの素人丸出しで、まったく問題にならなかった。
相手のタイミングを外したり、態勢を崩すこと、フェイントをかけることを知らず、ただ馬鹿正直に正面から向かってくるだけなので、彼女の攻撃は適当にあしらうだけでよかった。
ところが、シルヴィアの方から打ち込むと、結構な確率でかわされてしまうのだ。
当てることができても、微妙に芯をずらして狙いを外してくる。
初めはまぐれかと思った。あるいは、シルヴィアの方が手加減し過ぎたのかもしれないとも思った。
しかし毎日立ち合うことで、それが気のせいではないと確信するようになった。
数日も経つと、エイナを相手にした時のシルヴィアの打ち込みが、目に見えて激しくなってきた。
もちろん、上級者である彼女は、ぎりぎりのところで急所を外すという制約を忘れなかった。
木剣や樫の棒は、簡単に相手の骨を砕くことができるし、その気になれば殺すこともできるのだ。
ただ、シルヴィアは限界ぎりぎりまで本気を出すようになった。
当然、エイナが受け損ねる回数が増えた。彼女はかなり我慢強い方だったが、打たれた痛みでしゃがみ込んでしまうこともしばしばだった。
そのたびにシルヴィアは我に返り、エイナに詫びるのであるが、やはり自分が狙った場所を外されているという感覚から逃れられなかった。
シルヴィアは悩んだ。彼女は学年の首席であるということに、強い誇りを持っていた。そのため、素人であるエイナを相手にここまで本気を出しても思うように打ち込めないのは、自分が未熟である証拠だと思えてきたのだ。
だが傍目には、シルヴィアがエイナを執拗に虐めているように思われた。
同じ召喚士科の同級生からも、何度もたしなめられたが、シルヴィアは自分の抱えるもやもやを上手く説明できなかった。
軍事教練が終われば、両科の生徒たちは別れ、それぞれの授業を受ける。
夕方になり、寄宿舎の部屋でエイナと再会すると、シルヴィアは涙を浮かべて教練のことを謝った。
しかし、エイナはまったく気にしている様子がなかった。
「あたし、痛みに鈍感だから、割と平気なの。
ほら、跡も残っていないでしょ」
彼女はそう言って腕をまくってみせた。
シルヴィアは骨こそ砕かないものの、かなりの速さと強さで打ち込んでいた。
普通であれば、内出血した打撲跡が数日は消えないはずなのに、エイナの腕は少し赤くなっているだけで、それも翌日にはきれいに消えてしまうのだ。
合同訓練が始まって半月ほど経ったころ、悶々とした思いを抱えていたシルヴィアは、思い切って教官に相談してみることにした。
その日の軍事教練が終わった後、彼女は一人で教官室を訪ねて自分の悩みを打ち明けた。
教官はホーク大尉という、がっちりとした体格の男だった。
彼はシルヴィアの告白を聞くうちに次第に表情を緩め、最後には笑い出した。
「そうかそうか! いや、笑ってすまん。
しかしシルヴィアはまだ十三歳だろう? よくそこまで気づけたな。
さすがに学年の首席なだけはあるぞ」
「真面目に答えてください!」
シルヴィアの頬に涙が伝った。我慢しようとしたが、声が震えてしまった。
「泣くな、馬鹿者。
いいか、お前が感じたことは間違いじゃない。むしろ、その年でそれに気づけたことを誇りに思え。
エイナはな、目がいいんだ」
「目……ですか?」
「そうだ。あいつはまだまだど素人だが、目がやたらといい。
何かの訓練を受けた感じじゃないから、恐らく生まれつきじゃないかな。
目がいいというのは、相手を観察して素早く次の動きを予測する能力のことだ。
エイナはそれを無意識のうちにやっているんだろうな」
ホーク教官は笑顔を浮かべ、シルヴィアの頭をぐりぐりと撫でた。
「俺は去年、初めてエイナに稽古を付けた時にすぐに気づいたぞ。
あいつは俺のちょっとした筋肉の動き、それどころか呼吸の変化や視線の角度まで、何一つ見逃さなかった。
それを本能的に嗅ぎ取って打撃を避けよう、避けようがなければ、どこで受ければ痛みを軽減できるかだけを考えて動いていた。
目のよさについていく身体の瞬発力も、並大抵のものじゃない。
あれは、鍛えれば強くなるぞ」
そして、教官は大きな両手でシルヴィアのふっくらとした白い頬を挟み込んだ。
「シルヴィアはエイナをやりこめることに夢中になり過ぎている。
それはお前のためにはならないぞ。
エイナにお前が身につけた技術を教えてやれ。あいつは魔導士を目指すだけあって、頭がいいし呑み込みも早い。
お前ならいい教師になれるだろう。エイナを引き上げてやれば、きっとお前のいい競争相手になってくれるはずだ。
そうなれば、シルヴィアも今以上に強くなれる。分かったな?」
シルヴィアの頬を包む無骨な手に、彼女の熱い涙がぱたぱたと落ちた。
大尉が手を離すと、シルヴィアは涙を拭って笑顔を見せた。
今まで胸にわだかまっていた、もやもやとした思いはすでに消え去っていた。
「ありがとうございました!」
シルヴィアはぴょこんと頭を下げると、教官室を出ていった。
廊下から彼女が走り去る足音が聞こえてきたが、それはいかにも少女らしい、軽やかな響きだった。