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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第四章 魔法王の森
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十五 バラージ神殿

 浴場を出たころには、冬だということもありとっぷりと日が暮れていた。

 三人は大通りに面した食堂で夕食を済ませて宿に戻った。

 旅の疲れと入浴後の気怠さ、そして満腹のせいで猛烈な眠気が襲ってきて、彼女たちは部屋に入るなりベッドに倒れ込んだ。

 久し振りの柔らかなベッドで、夢も見ないで熟睡したのである。


 翌朝、早起きのユニがエイナたちを起こし、三人は宿の一階にある食堂で軽食を摂った。

 焼きたての白パンにバター、目玉焼にキャベツの酢漬けという、ありきたりのメニューだったが、野宿で味わってきたぼそぼその黒パンや、塩辛い塩蔵肉の切り落としに比べれば、百倍ましな食事だった。


 彼女たちはあっという間に皿を空にして、食後の熱いコーヒーを楽しみながら、今日の予定を話し合っていた。

 まずは西の都市国家セレキアへ向かうため、ユルフリ川を下る船の予約が必要である。

 朝一番に予約して席を確保したら、旅に必要な物資の買い出しをして、その後は当然公衆浴場に行かねばならない。

 長い船旅ではシャワーすら望めないし、混み合う船室では服を脱いで身体を拭くことさえ困難である。今のうちに豪勢な温泉を満喫すべき――それは三人の総意であった。


「そうなると、予約を取るのは最終の船になるわね。

 早い便はもう予約で埋まっていることが多いから、ちょうどいいわ」

 旅慣れたユニが上機嫌で言い添えた。


「では、コーヒーを飲み終わったら出かけましょう」

 エイナはそう提案して、自分のコーヒーを飲み干した。

 彼女が椅子から腰を浮かしかけると、食堂から見える宿の扉が開いた。

 外はまだ薄暗い。こんな早朝に泊まろうとする客などいるはずがない。


 扉からひょいと顔を覗かせたのは、黒髪をひっつめにした中年の女であった。

 彼女はきょろきょろと中を見回してエイナたちを見つけると、ぱっと顔を明るくして中に入ってきた。

 その女性の後ろからもう一人、少し若い女性がおずおずとついてくる。


 ユニはその姿を目にして、座ったまま声をかけた。

「あら、アイーシャじゃない。どうしたの、こんな朝早くに?」


 エイナはアイーシャという名前に聞き覚えがあった。

 昨日の公衆浴場で、ユニと楽しそうに話をしていた垢擦り女が、そう名乗っていたはずだ。その時は衝立で隔てられていたので、顔や姿は見ていなかった。

 アイーシャは四十代半ばといったところで、豊かな黒髪と大きな目をした豊満な女性だった。


 ユニに空いている椅子を勧められたアイーシャは、座る前に連れの女を紹介した。

「この子はサーイヤ。あたしと同じ垢擦り女の同僚よ」


 サーイヤは背が低く小太りの女性だった。アイーシャよりもずっと若く、まだ三十歳手前に見えた。

 彼女はぺこんとお辞儀をしたが、目が泳いでいて落ち着かない様子だった。


 ユニの方もエイナとシルヴィアを紹介し、彼女たちはぎこちない会釈を交わして同じテーブルについた。


「ひょっとしてあたしを捜してたの? よくこの宿だって分かったわね」

 ユニが不思議そうな顔をすると、アイーシャが陽気な顔で笑い飛ばす。


「何を言ってんのよ。化け物みたいなオオカミの群れを連れて街に入ってきて、大通りを行進したのは誰だい?

 あんたらは街中の噂になってるよ。どこに泊っているかなんて、三歳の子どもでも知っているさ」


 ユニは苦笑した。

「まぁ、そうでしょうね。それで、あたしに何か用なの?」

「ああ、ちょっと困りごとがあってね。あんたなら……いや、あんたのオオカミならどうにかしてくれると思ったのよ。力を貸してくれないかい?」


「うちのオオカミが?

 まぁ、話の内容にもよるけど、あたしたち今日の夕方には下り船に乗ってセレキアに向かう予定なのよ。

 これから船着場に寄って、席を取るつもりなんだけど……」

「それなら、あたしが代わりに予約を取ってあげるよ。

 船賃もあたしが出す。それが報酬ってことにしてくれないかい?」


 ユニは少し顔を曇らせた。

「何だか切羽詰まった話みたいね。とにかく詳しく聞かせてちょうだい」

「そうだね。ほらサーイヤ、気をしっかり持って話すんだよ!」


 アイーシャに背中をぱんと叩かれたサーイヤは、うつむいていた顔を上げ、堰を切ったようにまくし立てた。

「実は昨日の午後、うちの息子が神隠しに遭ったんです!

 夫や近所の人と一緒に、夜遅くまで捜したんですが見つかりません。

 ユニさんのオオカミは、人探しが得意だとアイーシャさんに聞きました。

 お願いです! アリを見つけてください!」


 サーイヤはユニの腕を両手で握りしめ、ぼろぼろと涙をこぼしながらテーブルに額を打ちつけた。

 呆気にとられたユニはアイーシャに視線を送ったが、彼女もまた真剣な表情でユニをじっと見詰めている。

 ユニは小さく溜め息をついた。


「ええと、いなくなった場所に、お子さんの臭いが残っているなら追跡は可能だけど、見つかるかどうかの保証はできないわ。

 それより、もう少し詳しい状況を教えてちょうだい。

 息子さんはどこで姿を消したの?」


「バラージ神殿です!

 いつものように礼拝を済ませて外に出たら、一緒にいたはずの息子がいなくなっていたんです。

 慌てて神殿の中を探し回りましたが、見つからなくて……」

「外も捜したの?」


「もちろんです。でも、神殿の周囲は砂漠が広がるだけで、他に建物も何もありません。

 あんな所で岩陰なんかに隠れていたら、あっという間に干上がって死んでしまうって、この街の者なら誰だって知っています!」


「息子さんは何歳?」

「今年で九歳になります」


 ユニは視線を落として考えを巡らせた。

「そのくらいの年齢なら、ある程度の分別は備わっているわね。

 家出をするような心当たりはないの? 例えば、最近その子を酷く叱ったとか」

「いいえ! それに今日は友達と一緒に魚釣りに行く約束をしていて、息子はそれをとても楽しみにしていました。

 家出なんかするはずありません、絶対に神隠しです!

 ああ、あんなにいい子なのに、神はなぜこんな仕打ちを……!」


 サーイヤはそう叫ぶと、再び泣き伏した。

「う~ん、さっきから神隠しって言ってるけど、やっぱり神殿のどこかに隠れているんじゃないかしら?

 一晩経ったんだもの、お腹がすいて自分から出てくるかもしれないわ」


 泣きじゃくるサーイヤに代わって、アイーシャがユニに答えた。

「いや、それがユニさん。サーイヤが神隠しだって言うのも無理はないのよ。

 実は半年くらい前から、神殿にお参りに行った子どもが行方不明になる事件が続いているんだ。

 子どもたちはまだ誰も見つかっていなくてね。アリもそうだとすれば、これで六人目になるわ。

 みんな神隠しだって噂して、最近じゃ礼拝にいかなくなった家もあるくらいさ。

 アギルの者は子どもであっても、ひと月に一度は神殿にお参りをするのが決まりなのだよ」

「さっき周りは砂漠だって言ってたけど、その神殿ってどこにあるの? 街中じゃないわよね」


 アイーシャは首を振って、ユニたちにバラージ神殿に関する説明をしてくれた。


 彼女の話によると、バラージ神殿はアギルの街はずれから、五キロほど離れた砂漠の中にあるらしい。

 サラーム教圏の都市は、神殿を核として街が発展するのが普通だ。

 遠い昔、バラージ神殿こそがアギルの街の中心地だったのだそうだ。


 ところが数百年前、突如として砂漠から現れた怪物に街が襲われるという事件が起こった。

 巨大な怪物に人々は為すすべなく逃げ惑ったが、バラージの神官長が神殿の秘宝とされる青い石を掲げ、ただ一人で怪物に立ち向かった。


 怪物は巨大な顎で神官長の頭を捉えると、ざくろのように挟み潰してしまった。

 しかし、その途端に彼が握りしめていた青い石が光を放って爆発し、怪物を木っ端微塵に打ち砕いたのだという。


 生き残った市民たちは、怪物に破壊されつくした街を捨て、現在の地に新たな街を一から築き、それが現在のアギルということらしい。

 そして、アギルの市民は神殿の加護と神官長の勇気を忘れることなく、今でも砂漠の中に残った神殿を毎月訪れ、祈りを捧げることを誓ったのである。


      *       *


 話を聞き終えたユニは、難しい顔をしてアイーシャに訊ねた。

「その神殿を根城に、野党の集団が住み着いたという可能性はないの?」

「ありえないわ。神殿までは街からわずか五キロの距離だし、参拝の日は決まっていないから、毎日誰かしらが訪れるのよ。

 そんな連中がうろうろしていたら、絶対に人目につくわ」


「行方不明になった子どもたちの家族に、身代金の要求もなかったのね?」

 アイーシャは黙ってうなずいた。そして、泣きじゃくっているサーイヤのわき腹をつついた。


「あんた、泣いてばかりいないで、あれを出しなよ!」

 顔を上げたサーイヤは鼻をすすり上げ、持っていた手提げの中から汚い布の塊りを取り出した。

 テーブルの上で広げてみると、子ども物のズボンと、履き古した靴だった。


 サーイヤが心配そうな顔で訊ねた。

「アリが身に着けていたものですが、まだ洗濯前だから臭いがついているはずです。役に立ちそうですか?」


 ユニが苦笑しながら立ち上がった。

「ええ、特に靴は助かるわ。

 ふふっ、あたしに断るという選択肢はなさそうね。

 でも、いい? 協力できるのは今日半日だけ。それで手がかりが見つからなかったら、悪いけど諦めてちょうだい」


 アイーシャとサーイヤはうなずいたが、ユニが子どもを見つけてくれると信じ切った目をしていた。

 ユニは少し意地悪そうな表情で、アイーシャに訊ねた。

「それと報酬の方だけど、セレキアまで三人分の船賃って結構高いのよ?」


 しかし、アイーシャは堂々と言い返した。

「それは気にしないでいいわ。

 あたしら垢擦り女はね、みんな子どもを立派に育てよう、ちゃんとした教育を受けさせようと思って一生懸命働いてるのさ。子どもはあたしらの宝だからね!

 それに、アギルの垢擦り女を舐めてもらっちゃ困るよ。あたしらは高給取りで知られているんだ。

 あんたらの船賃ぐらい、あたしとサーイヤだけで払えるよ」


 ユニは片手を挙げた。

「そう、それはお見それしたわね。

 でも、あたしたちは軍の公務で動いているから、船賃もちゃんと国からもらっているの。

 だから、アイーシャには予約だけお願いするわ。セレキア行きの最終便ね。

 それと、サーイヤには神殿までの道案内と、状況を訊きたいから一緒に来てもらうわね。

 あんたたち、今日の仕事はいいの?」


 二人の垢擦り女は力強くうなずいた。

「あたしら、今日は二人とも夕方からの遅番だから問題ないわ」


「分かった。じゃあ、さっそく行きましょうか。

 あ、そうそう。報酬の話だけど、あたしたち帰りもアギルに寄ることになると思うの。

 だから、その時の風呂代と垢擦り代はサービスしてちょうだい」


 アイーシャはたっぷりとした乳房の間の胸板を、どんと拳で叩いた。

「任せてちょうだい。

 次とは言わないわ。あんたちならいつだってタダで通してあげる!」

「それはありがたいわ」


 ユニは笑ってアイーシャと握手を交わした。


      *       *


 ユニは宿屋に附属した厩に行って、寝こけていたオオカミたちを叩き起こした。


 サーイヤは巨大なオオカミ(群れの副リーダー格であるヨミ)に乗せられ、顔を引き攣らせていたが、子どもを助けたい一心で目をつぶってしがみついた。


 エイナもロキに跨ったが、正直言って釈然としない思いだった。

 子どもが行方不明で必死になっている母親は気の毒だったが、これは軍の任務とはまったく関わりない。

 立場的には単なる道案内に過ぎないユニが、勝手に予定を変更してしまうのはどうなのだろう。


 一方で、シルヴィアとカー君は目を輝かせていた。

 シルヴィアは、ユニと一緒に謎めいた事件を捜査するのが嬉しかった。

 だが、それ以上に気になることがあった。

 アイーシャが語った神殿の宝物〝青い石〟のことである。


 まだ朝の内で人通りの多くない街路を、オオカミたちに揺られて駆け抜けながら、彼女は並走するカー君に頭の中で呼びかけた。

『ねえ、アイーシャさんの話に出てきた〝青い石〟って、もしかしたら魔石じゃないかしら?』

『そう、そうなの! 僕もそうだと思ってた!』


『だよね?

 どうせ子どもの捜索はユニ先輩とオオカミたちがやるんだもの、あたしたちはそっちを捜してみない?』

『賛成! 赤龍が言ってたじゃない、青い魔石は攻撃力を上げるって。

 きっと僕の吐く火球が滅茶苦茶凄くなるはずだよね!

 うおっ、なんかみなぎってきたぞ』


 アイーシャが語った言い伝えでは、青い石は神殿の奥深くに祀られていたが、怪物が現れるひと月程前に、何者かによって盗まれたらしい。

 宝石は下半分が花崗岩と一体となっていて、そのまま飾られていたが、盗賊はその大きな岩を、たがねのようなもので破壊して持ち去ったらしい。

 神官長は粉々となった岩の破片に、わずかに残っていた小さな欠片を手にして怪物に立ち向かったのだという。


 怪物が神官長と相打ちとなって滅んだ後、人々は半分崩れ去った神殿に戻ってがれきを片付けたのだが、青い石の欠片は見つからなかった。

 そのため、今では美しい碧水晶をその代わりにして拝んでいるのだそうだ。

 シルヴィアとカー君は、神殿のどこかに魔石の欠片が残っているかもしれないと考えたのである。


 それぞれが異なる思いを抱きながら、人間を乗せたオオカミの群れは、アギルの街を抜け出したのである。

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