十四 浴場
シルヴィアたちと赤龍の会談は、一時間余りにわたった。
とはいえ、そのほとんどはカー君に対する赤龍の質問で占められた。
ドレイクはカーバンクルたちが、巣立ちした同族たちに対してほとんど無関心なことに驚き、彼らが自分自身に対してあまりに無知であることを不思議がった。
シルヴィアに対しては、人間がカーバンクルをどう評価しているかを訊いてきた。
彼はどうやら、彼女が二級召喚士に認定されていることが不満なようであった。
「つまり、ドレイク様はカー君が強力な幻獣になり得る……とお考えなのですね?」
シルヴィアはそう訊き返した。
この巨大な龍が、自分の召喚した幻獣を買っているのは、決して悪い気分ではない。
『そうだな。ただ、それはカーバンクルがいかに魔石を多く手に入れるかにかかっている。
人間どもは無知なだけだが、成長していないカーバンクルを目にすれば、二級と判断するのも止むを得まい。
もし、今のこいつが、あと三つばかり魔石を取り込んだなら、その辺の国家召喚士の幻獣など蹴散らせるほどの力を得ることだろう』
「この子が国家召喚士の幻獣以上……。それって、私次第なのですね?」
『うむ、お前がカーバンクルに選ばれたということは、そういうことなのだ。
せいぜい励むがよい』
会談は、そんなやり取りで終了した。
召喚の間を出たシルヴィアは、待っていてくれた士官の案内で、エイナたちの待つ部屋へと向かった。
シルヴィアの足取りは軽く、頬は少し上気してバラ色に染まっていた。
「カー君、あたし頑張るわよ。
ドワーフから魔石を手に入れて、必ずあなたを成長させてみせるわ!」
張り切るシルヴィアを横目で見ながら、カー君はいたって呑気だった。
『そうだね、あんまり無理しない程度に頑張ろうよ。
でもドワーフって、土の中で暮らしているんだろう?
そういう種族って、僕、苦手なんだけどなぁ……』
「何言ってるの! ドワーフは闇の種族とは違うのよ。それは偏見だわ」
『でも僕、地下に潜るとぞわぞわするんだよ。
さっきの召喚の間だってそうだよ。とっても居心地が悪いんだ』
「難儀な性格ね~」
* *
その夜、リディアの言う「女子会」は悪夢であった。
ユニは酔っぱらって下品な冗談を連発し、負けずに酔ったリディアは果てしなく喋り続けた。
あまり酒が得意でないエイナとシルヴィアは、引き攣った笑いを浮かべ、ほとんど相槌を打つだけに終始した。
ユニとリディアは噛み合わない会話で、何がおかしいのかけたたましく笑い、涙を流してベッドの上で転げまわった。
酒癖の悪いリディアは下着姿となり、「貧乳は正義だ!」と叫んでシルヴィアに襲いかかった。
「リディア様、胸を揉むのはやめてください~! 痛いですぅ!」
悲鳴を上げるシルヴィアだったが、ユニもエイナも助けに入らなかった。
彼女たちは胸の大きさでリディアの仲間と認定されていたからだ。
結局、彼女たちが眠りに落ちたのは深夜の二時過ぎだったが、ユニとリディアは朝の五時前にはけろりとして置き、眠りこけているエイナたちから毛布を剥ぎ取るのだった。
* *
まだ周囲が暗い朝の六時過ぎ、エイナたちは赤城市の南大門を出た。
門前から少し離れた野原には、もう群れのオオカミたちが待ち構えていた。
オオカミたちに荷物の詰まった振り分け鞄を取り付けると、ユニはいつものようにライガに、エイナとシルヴィアはロキとトキにそれぞれ分乗して出発した。
赤城市から南へ延びる街道は、国境を出るとすぐに二手に分かれる。
左手はルカ大公国(非サラーム教国)へ向かう街道で、内陸を移動する商隊も利用する整備された道である。
この街道は南部密林と呼ばれる広大な森林地帯に添って南下しており、かつては密林に棲息するオークによる被害があった。
しかし十数年前、ユニがオークの族長と友好関係を築いた結果、今では安全な通行が保障されている。
一方、右手に別れる街道は、ハラル海(岩石砂漠)を曲がりくねって進む険しい道で、オアシス都市アギルへと続いていた。
臑に傷を持つ者が時折利用するような、酷く寂れた街道である。
ところがリスト王国とケルトニアとの間で交易が始まったことにより、両国を結ぶ安定した陸路が必要となった。
貿易は北海回りの航路で行われるが、海が安定する七月から十月の間に限られ、冬季は氷に覆われて途絶してしまう。
船が動かない季節でも、商人同士の発注や値段交渉は必要であり、軍関係者の緊密な打ち合わせも欠かせない。
そのため、ケルトニアの支配下にある大陸西沿岸と川で結ばれたアギルから、王国へと至るこの荒れ果てた街道が注目されたのである。
両国は分担して街道の整備を行い、交通量は格段に増加した。
かつてユニがこの街道を辿った時には、水と食糧・飼料を運ぶために馬車が必要であった。
今は要所に中継基地が設けられ、そうした不便はなくなっている。
砂漠の中を通る道ではあるが、コルドラ大山脈の南端に位置していることから、地下に伏流水が流れており、適切な位置で井戸を掘れば水が出るのである。
おかげで一行の旅は、なかなかに快適なものであった――と、ユニは感じていた。
しかし、そんな昔のことを知らないエイナとシルヴィアにとっては、まるで地獄のような道行であった。
冬ということで暑さはないものの、乾燥した砂漠を吹き荒れる砂嵐は凄まじく、オオカミの乗り心地はお世辞にもよいものではなかった。
食事が質素――固い黒パンなのは仕方がない。
それでもオオカミたちが自給自足で、どこからか獲物を狩ってきてくれる。その分け前でスープが作れるから、文句を言うのは贅沢である。
問題は水浴びができないことだった。水が手に入るとはいえ、貴重なことには変わりないから無駄遣いはできず、固く絞ったタオルで身体を拭くのがせいぜいである。
岩石砂漠に入って数日が経つと、エイナとシルヴィアは顔を見合わせるたびに「お風呂に入りたい」と嘆くようになった。
ユニはそんな二人を意味ありげに見ていたが、何も言わなかった。
国境を出て五日目、エイナたちはとうとうアギルに到着した。
アギルは〝オアシス都市〟と呼ばれ、豊富な湧き水に支えられた緑豊かな楽園であった。
政治的には南の大国ペルシニアの支配下にあるが、その束縛は緩く、商業中継地として繫栄する自由都市といった雰囲気がある。
この街では、以前に比べて王国からの訪問者が格段に増えたため、召喚士の存在も知られるようになっていた。
そのためカー君はもちろん、ユニの引き連れるオオカミの群れも幻獣として市中に入ることを許された。
道行く人々は、額に宝石が埋め込まれた見知らぬ獣と、巨大なオオカミの群れに驚いたが、ある程度の距離を取るだけで、騒ぎになるほどではなかった。
アギルには旅人のための宿屋が多く、ユニはその一軒を適当に選び、旅装を解いた。
案内された部屋に落ち着くと、エイナとシルヴィアは我慢しきれずに宿屋の小女に迫った。
「お風呂を、湯桶を用意してください。今すぐ!」
使用人の女は、きょとんとした顔をしている。
「あの、そのようなものの用意はございませんが……」
二人は引き攣った顔で、なおも女に詰め寄る。
「そんなはずはないでしょう。
宿屋で湯が使えないなんて、聞いたことがないわ!」
「そう言われましても、宿で湯浴みをするなど、こちらこそ聞いたことがありません」
「まぁまぁまぁ」
ユニが苦笑いを浮かべながら割って入った。
「二人には言ってなかったけど、このアギルでは宿だけじゃなく、家でもお風呂に入る習慣がないのよ」
「そんな!」
「怖い顔しないでよ。それにはわけがあるの。
実を言うとね、この街の名物はお風呂なのよ。
アギルには水だけじゃなく温泉も湧いていてね、よほどの金持ちじゃない限り、市民は公衆浴場を利用しているわ。
狭っ苦しい湯桶で身体を洗うより、大きな湯船に浸かって垢擦りとマッサージをしてもらう方が、千倍も気持ちいいのよ」
「温泉ですか!」
「大きな湯船!」
エイナとシルヴィアが同時に叫び声を上げた。
リスト王国は、一応は文明国ということになっている。
そんな国でも、入浴文化に関してはお寒いものだった。
自宅に湯船のある風呂を持つのは、ごく限られた富裕者だけで、一般庶民は週に一、二度、大きな桶に湯を張って、その中で身体を洗うのがせいぜいである。
いや、湯を張るのはかなりの贅沢で、水浴びの方が普通である。
宿屋では専用の竈で大量にお湯を沸かしているので、お湯を使えることが多く、それを旅の楽しみに挙げる者が多い。
ましてや広い湯船となると、夢のような贅沢である。
「ユニさん! 夕飯まではたっぷり三時間はあります!
今すぐ行きましょう!」
シルヴィアがユニの腕を握って揺さぶった。エイナもその隣でぶんぶんとうなずいている。
ユニとて当然そのつもりである。二人は知らなかったが、風呂好きということにかけては、ユニの方が一枚も二枚も上手なのだ。
* *
アギルの公衆浴場は、神殿かと見紛うばかりの、石造りの立派な建物だった。
中は当然ながら男女で分かれており、料金を支払って先に進むと脱衣場があり、服を脱いで貸し出される大きなタオルで身体を包み、浴場に通じる分厚い扉を開ける。
一歩中に入ると、たちまちむっとする蒸気が身体を包む。
いわゆる〝蒸し風呂〟であり、これがペルシニア風の浴場の大きな特徴なのだ。
アギルの場合は温泉が湧いているので、さらに大きな湯船にたっぷりのお湯が張られている。
お湯につかって身体をほぐしたら、広い床に思い思いに寝そべって存分に汗をかく(床下に湯が通してあり、じんわりと温かいのだ)。
のぼせないための水風呂もあれば、無料の飲泉所もあり、お金を払えば冷たいレモン水や牛乳を飲むこともできた。
懐に余裕のある者は、さらに垢擦り女に全身の汚れを落としてもらい、香油を塗り込みマッサージを受けることができる。
この垢擦り女はアギルの公衆浴場の名物として名高く、これを目当てに訪れる者がいるほどである。
ユニは馴れたものだったが、エイナたちにとっては天国のような場所であった。
湯船は数十人が一度に入れるほど大きく、貴族の娘であるシルヴィアでも経験したことがない。
三人は受付で事前に申し込み、それぞれ垢擦り女をつけてもらっていた。
垢擦り場の一角はカーテンで仕切られ、竹で編んだベッドと衝立が交互に並んでいる。
垢擦り女は太腿が露わになる短いズボンと、かろうじて胸が隠れる短い上着を身につけただけの半裸である。
とはいえ、そこに色気などはなく、逞しい体格と剥き出しの太い腕、冗談を言い合っては豪快に笑い合う中年女たちである。
エイナとシルヴィアは、それこそ赤ん坊のようにベッドに転がされ、全身をくまなく洗われた。
たっぷりのシャボンをつけたヘチマで肌を擦られると、赤面するほど大量の垢が出る。
そして全身の産毛や無駄毛を剃毛されるのだが、彼女たちが使用する剃刀は信じがたい切れ味であった。
陽気な中年女たちは、これはドワーフが鍛えた特別の刃物で、とんでもなく高価な代物だと自慢した。
エイナもシルヴィアも若い娘らしく、日常的にある程度の処理はしていたが、赤城市を出てからは何もしていない。
「そこはいいです、自分でやります!」
そう訴えても、垢擦り女たちは聞く耳をもってくれない。
彼女たちは体術の心得でもあるのか、エイナたちはまったく抵抗できず、腋はおろか、股間にいたるまで、つるつるにされてしまった。
ここまでされると、もう恥ずかしさの限界を超えてしまい、二人は開き直ってなすがままになった。
全身に香油を塗りこめられ、マッサージを受けると、あまりの快感に思わず変な声が洩れる。
過酷な旅で蓄積した疲労が、じわじわと身体の内部から滲み出し、汗とともに流れ出していくのがはっきりと分かる。
快感は次第に眠気に変わり、彼女たちは乳房やお尻を揉まれていることも忘れて、うとうとしはじめた。
垢擦り女たちが、衝立越しに続ける陽気なお喋りも、子守唄のように思えた。
ユニは長湯で、エイナたちよりだいぶ遅れてやってきたようだった。
夢うつつのうちに、その気配を感じていたエイナだったが、ふいに垢擦り女が上げた叫び声で意識が覚醒した。
「あれ、あんた! ユニさんじゃない?
この刀傷、間違いないわ!
覚えてる? ほら、あんたに海賊の話をしたアイーシャよ!」
それに応えるユニの弾んだ声が響いたが、あとは衝立と浴場の騒がしさに邪魔されて聞き取れなくなった。
再び襲ってくる眠気の中で、エイナはぼんやりとユニの裸体を思い起こしていた。
彼女は服を脱ぐと驚くほど肌が白く、四十歳近いとは信じられないほど引き締まった身体をしていた。
だが、それ以上にエイナの目を惹いたのは、左肩から右の乳房にかけ、斜めに走る大きな刀傷だった。
肌が白いだけに、肉が引き攣れたような醜い傷跡は余計に目立った。
エイナはユニがこれまでどんな冒険をしてきたのか、シルヴィアから散々聞かされてはいた。
親友が目をきらきらさせて熱弁する活躍は、物語のように華々しいものだった。
だが、その陰では死と隣り合わせの危険を乗り越えてきたに違いない。
ユニの傷跡は、それを雄弁に語っていた。
ユニの信奉者で、彼女と一緒に入浴できることではしゃいでいたシルヴィアも、その傷を見た途端にしばらく大人しくなった。
『自分にはユニのような覚悟があるのだろうか?』
エイナの頭の中で、そんな思いがぐるぐると駆け巡ったが、それも押し寄せる眠気によって、いつしか呑み込まれてしまった。
彼女はこの翌日、自分が巻き込まれる事件のことを、まだ何にも知らなかった。