十三 召喚の間
リディアとの会談は、わずか三十分ほどで終わった。
国の四分の一を支配し、軍事と民政の最高責任者である赤龍帝は、分刻みの予定で動くほどに多忙である。
エイナたちは、そこへいきなり割り込んだのだから、これは止むを得ない。
ただ、リディア自身はお喋りへの未練たっぷりで、三人に対して今夜は赤城内に泊まるよう強要した。
「夜に女子会をやるのじゃ!」
彼女は小鼻を膨らませて、そう宣言した。
エイナとシルヴィアのような下っ端に、誘いを断る選択肢は用意されていない。
ユニは〝タダ酒〟が飲めるなら、文句はなかった。
赤城の城内には醸造所があり、自家製のエールは味が良いことで有名だったのだ。
赤龍帝の副官(長身のいい男だった)が時間を気にして急き立てるので、リディアは渋々三人を部屋から送り出した。
執務室の外の廊下では、若い士官が待ち構えていた。エイナたちをゲスト用の寝室に案内するためである。
「お三方の荷物は、すでに部屋の方へ運び込んでおきました。
どうぞ、ご案内します」
若い少尉が敬礼をして、にこやかな表情で先に立った。三人は何も考えずに後に続く。
だが、その背中に声がかかった。
「あー、待て待て」
彼女たちは立ち止まり、リディアの方を振り返った。
「ほかの者たちは行ってよいが、シルヴィアとカーバンクルは私と一緒に来てもらうぞ」
「え?」
シルヴィアが怪訝な表情を浮かべた。
「言わなかったか? ドレイクの奴がカーバンクルに会いたがっていると。
地下の召喚の間に案内するから、ついてまいれ」
リディアはそう言うと、エイナたちとは反対方向へすたすた歩いていく。
シルヴィアは救いを求めるようユニの顔を見たが、返ってきた言葉は素っ気なかった。
「ほら、早く行きなさい」
エイナも追い打ちをかける。
「いいなー、私も龍を見てみたい。後で話を聞かせてね!」
見捨てられたシルヴィアは、慌ててリディアの後を追った。カー君もついていく。
見送るユニとエイナの頭の中に、はしゃぐカーバンクルの声が響いてきた。
『すげー、龍だって! 僕、わくわくするぞ~!』
* *
赤城の地下にある召喚の間の扉は、呆れるほどに大きかった。
そもそも地階の造りからしておかしい。
廊下の幅は十メートル近く、天井は二階分の吹き抜けのように高い。
廊下というよりは、長大な広間が連続しているようだった。
これは召喚された赤龍が、外へ出るための通路を兼ねているためである。
扉は一枚が高さ十二メートルほど、幅が五メートルはある巨大なものだった。
その前には、ハルバートをかかげた警備兵が二人立っていた。
彼らはリディアを認めると、黙って扉の前から立ち退いた。
赤龍帝が扉のハンドルに小さな手をかけても、助けしようとはしなかった。
少女のように小柄なリディアに、この巨大な扉が動かせるとは、とても思えなかった。
シルヴィアは衛兵が手伝わないことに内心腹を立てながら、慌てて彼女のもとに駆け寄った。
「閣下、お手伝いいたします」
そう声をかけて差し出した手を、リディアはぴしゃりと打ち払った。
「触るでない!」
赤龍帝の厳しい叱責に、シルヴィアは二、三歩後ずさり、打たれた手をさすった。
彼女はリディアの力の強さに驚いた。打たれた手の甲がじんじんと痺れ、赤くなっていたのだ。
「悪く思うな。この扉は私以外の者の手では、開かないようになっておるのだ。
うっかり触れると、大変なことになるぞ」
「どっ、どうなるのでしょうか?」
「うむ、お主は呪いでヒキガエルになるところだった」
「ひっ!」
「しかも、その呪いを解くには、若い貴公子の熱い接吻を受けるしか方法がないのだぞ」
「ひぃぃぃーっ!」
震えあがるシルヴィアの頭の中に、カー君の声が響いてきた。
『リディア様、あんまりうちのシルヴィアをからかわないでくださいよ。
この扉、呪いなんか掛かってないでしょう?』
「え、うそ?」
『ほら、衛兵のおっちゃんたちを見てみなよ。
さっきから後ろを向いて肩を震わせているじゃない』
ぽかんとするシルヴィアの顔に堪えかね、とうとうリディアは吹き出した。
「すまんすまん。カー君は呪いの有無が分かるのか?」
『僕はそういうのに敏感なんだ』
「そうか、大したものだな。
だが、この扉に魔法的な処理が施されているのは本当だぞ。
見てみよ」
リディアが軽く手を引くと、巨大な扉が音もなく開いた。
まるで油を差しているように、軋み音ひとつしない。
五十センチほど開いた扉の先は、薄暗くて何も見えなかった。
「さあ、入るがよい」
リディアが形のよい顎を上げて、シルヴィアたちに入室を促す。
「え? リディア様は入られないのですか?」
「私には公務が待っているのだ。ドレイクとは、お前たちだけで話すがよい。
私がいなくとも扉は赤龍が開けてくれるし、部屋へ案内する者もここに待たせておく」
赤龍帝にそう言われては、従うしかなかった。
シルヴィアはまずカー君を先に押し込み、その後から恐る恐る入っていった。
* *
召喚の間に一歩入ると、後ろで扉が音もなく閉まった。
地階なので部屋には窓がなく、遠く離れた壁際にぽつんと小さな明かりがあるだけで、ほとんど見通しが利かなかった。
ただ、ここがとんでもなく広く、天井も高いことだけは、空気感で何となく感じ取れた。
恐らく魔導院の召喚の間に匹敵する広さがあるのだろう。
夜目の利くカー君は、特に恐れる様子もなく、すたすたと中に進んでいった。
「ちょっ、カー君! そんなに先にいかないで」
シルヴィアはへっぴり腰でその後を追う。
数メートル進んだところでカー君が立ち止まったので、シルヴィアはやっと追いつくことができた。
「もうっ、置いていかないでよ。
それにしても、全然周りが見えないわね。赤龍様はいらっしゃるのかしら?」
カー君は彼女の声が耳に入らないのか。大理石の床に座って上を眺めている。
シルヴィアもつられて天井を仰いだが、上はさらに暗くて何も見えない。
「ねえ、何か見えるの?」
『でかっ!』
「えっ、何が?」
『う~ん、人間ってのは不便だなぁ。
ねえ、シルヴィアはあんたが見えないみたいだから、明かりを貸してくれる?』
『そうか……ちょっと待て』
不意にカー君とは別の声が頭に響いた。カー君よりも重々しく、低い地鳴りのような声である。
「えっ、誰かいるの? ひょっとして赤龍様?」
不安に駆られたシルヴィアは、座っているカー君にしがみつこうと手を伸ばした。
その時である。ずっと奥の方で灯っていた明かりが不意に動き、ゆっくりとこちらに向かって近づいてきた。
シルヴィアは小さな悲鳴を上げて、その場にしゃがみ込んだ。
「なになになに、なにぃ?」
明かりは左右に揺れながら、どんどん近づいてくる。
距離が詰まるにつれ、明かりの正体が大型のランプだということが分かった。
そして、ランプを吊り下げる太い針金の輪から、何か細長いものが突き出ていた。
「え! ……ひょっとして、尻尾?」
ぶらぶらと揺れるランプが彼女の前に差し出され、やっと床の模様やカー君の姿がはっきりと見えるようになった。
だが、シルヴィアの目の前には、赤く輝く光点がずらりと列をなし、彼女の視界を埋め尽くしていた。
ひし形に規則正しく重なり合うそれは、金属光沢を放つ鱗だった。その一枚一枚がランプの明かりを反射して、きらきらと輝いていたのだ。
シルヴィアの目の前には、赤い鱗が上下左右に広がり、絶壁となって立ちはだかっていた。
シルヴィアはあまりに龍に近寄り過ぎていて、その巨大な体躯の全貌を把握できなかったのである。
彼女は慌てて上を見上げた。
鱗に覆われた逞しい胸板が続き、その遥か上方に長い首が伸び、天井に近い暗闇の中から大きな瞳がシルヴィアを見下ろしていた。
彼女はのろのろと立ち上がり、何歩か後ろに下がった。
「赤龍……ドレイク様」
そう呟くのが精一杯だった。
シルヴィアはこれほどまでに巨大な生物を見たことがなかった。
その圧倒的な質量を前にすると、恐怖よりも先にどうしようもない無力感に襲われてしまう。
人間である自分の存在が、いかに小さいかを思い知らされるのだ。
どう挨拶してよいのか分からないシルヴィアは、赤龍の顔を見上げながら機械的な敬礼をした。
赤龍はしなやかな首を曲げ、彼女の目の前まで頭を近づけてくれた。
そして、敬礼をしているシルヴィアをしげしげと眺めた後で、〝ふん〟と鼻息を洩らした。
温かい息が吹きつけられただけで足許がもつれ、危うく尻餅をつきそうになる。
低く重々しい声が、再び頭の中で鳴った。
『俺は誇り高い龍族であって、お前たち人間の軍に所属した覚えはないぞ。
その敬礼は不愉快だ』
シルヴィアはだらりと手を下ろした。
「では、どのようにして、あなた様に敬意を捧げればよいのでしょうか?」
赤龍の大きな瞳を瞬膜が覆い、再び開いた。人間で言えば瞬きに当たるのだろう。
『そうだな……龍には乙女の口づけこそがふさわしいのではないかな?』
カー君が半眼で『え~?』という声を上げたが、赤龍は聞こえない振りをした。
だが、シルヴィアはふらふらと前に出てくるのを見た彼は、少し慌てて頭をひょいと上げた。
それだけで地上から三メートルほどの高さになる。
『本気にするな、馬鹿者。リディアに知られたら折檻されるではないか。
よいか、お前を呼んだのは、あくまでカーバンクルを見るためのついでだ。
その辺で座って大人しくしているがいい』
龍にからかわれたのだと気づいても、シルヴィアは怒る気にも、笑う気にもなれなかった。
彼女はただ、圧倒的な存在の言いなりになる以外、何の気力も湧かなかったのだ。
シルヴィアが床にへたり込むと、赤龍はカー君の方に首を向けた。
『さてと、お前がカーバンクルか。
初めて見るが、思ったよりも獣のような姿をしておるのだな』
カー君はふんふんと赤龍の体の臭いを嗅ぎながら、頭も上げずに答える。
『僕のことはカー君と呼んでくれていいよ。
獣って言うけど、僕らはみんなこんな感じだよ?』
龍は頭を斜めに傾ける。
『それは魔石を得ていない幼生の話だろう。
成長したカーバンクルはいなかったのか?』
『ああ、そういう意味か。
うん、何個も魔石を食べた同族は、群れから出て独立するからね。
身体も大きくなるから、一緒に暮らすには何かと不便なんだよ』
『では、出ていった大人が戻ってくることはないのか?』
『そうだね。別に僕らも気にしないし』
『ふむ……。
あー、そこの娘……シルヴィアとか言ったか?』
ふいに話しかけられたシルヴィアは、びくんと反応した。
「はい」
『お前はこのカーバンクルの力を何と見ているのだ?』
「カー君ですか? そうですね、魔石を食べてから火球の威力が上がりましたから、二級召喚士の相棒としては、そこそこ役に立つとは思います」
『ほう、こ奴は魔石を食べたのか。何色だった?』
「確か、黄色だったと思います。あの……魔石の色に何か意味があるのですか?」
『大ありだ。
まぁ、魔石は何色であっても、カーバンクルの基礎体力や能力を上げる。
だが、その色によって特別に強化される能力が決まっているのだ。
黄色は主に知力を上げる効果があってな。有体に言って一番しょぼい奴だ。
攻撃力を上げたいなら赤、防御力なら緑が役に立つだろう』
「そう言われましても、魔石をどうやって手に入ればよいのか、私もカー君も分からないのです」
『当たり前だ。魔石がそこら中に転がっていたら、大変なことになる。
だが、幻獣界に比べれば、この世界には魔石が多い。
このカーバンクルがそなたの召喚に応じたのも、魔石を求めてのことだろう。
つまり、こいつは〝見込みがある〟ということだ』
『おう、さすがは龍だ! お目が高い』
シルヴィアはカー君の頭を殴って黙らせる。
『お前たちはエルフの里へ向かうのであったな?』
「はい」
『それならば、ドワーフの住む山を通るはずだ。
あいつらは鉱石の専門家だ。魔石に関する知識も深い』
シルヴィアは身を乗り出す。
「では、そこで魔石が手に入るのですか?」
『可能性は高いな。ただ、ドワーフという種族は欲が深い。
人間の力で奪うのは難しいぞ』
赤龍の言い方は、どうにも穏やかでなかった。
そもそもドワーフと龍族は仲が悪い。
龍は黄金や宝石、宝物類を集めたがるという悪癖があり、ドワーフよりもよほど欲深かった。
そして、しばしばドワーフの棲家を襲っては、彼らの宝物を奪うことが知られていた。
もちろんシルヴィアは、ドワーフから魔石を奪おうなどとは考えていない。
だが、魔石集めのヒントを得たのは大きい。
今回の旅は、明確な敵がいるわけではなく、シルヴィアとカー君はただエイナと組んでいるから同行を命じられたに過ぎない。
彼女たちにはどうしても〝おまけ〟という意識があって、今ひとつ気分が盛り上がらなかったが、カー君の成長につながるのなら、話は別である。
シルヴィアとカー君は顔を見合わせ、力強くうなずきあった。