九 出自
マリウスの顔から、すっと笑みが消えた。
糸のように細められた目が開かれ、緑がかった瞳がエイナをじっと見詰めた。
「君は自分が魔導士として、一人前だと思っているのかな?」
エイナはかぶりを振った。
「自分の未熟さは知っているつもりです」
マリウスは軽くうなずいた。
「そうだね。
君が膨大な魔力量を持つことは、誰もが認めている。
そして、ケニス大尉の護衛任務以来、技術的に急速に進歩していることも否定するつもりはない。
しかしだからと言って、君が魔導士として大成したかと問われれば、それは否だ」
エイナはマリウスが何を言おうとしているか、この時点で覚っていた。
参謀副総長は言葉を重ねる。
「君には習得すべき魔法がたくさんある。
魔力の制御、高速詠唱の技術においても、未完成だと言わざるを得ない。
そんな君が、現代における最高峰の大魔法を学びたいと言うのは、順番が違うのではないかね?」
マリウスの指摘は正しかった。
それはエイナ自身、何度も自問してきたことだった。
「おっしゃるとおりです。
自分が分不相応な願いを口にしていることは、十分理解しているつもりです。
ですが、あれをこの目で見て以来、私の脳裏から爆裂魔法のことが離れてくれないのです。このままでは……私は気が変になってしまいます!」
「ふむ……」
マリウスは少し黙り込んだ。
彼は考えあぐねた様子で、テーブルの上に置かれたケルトニア酒のグラスに手を伸ばしたが、その権利者であるユニにぴしゃりと叩かれてしまった。
「君がそこまで爆裂魔法に執着するのには、何か理由があるのではないかな?」
酒の入ったグラスを舐めるユニを、恨めしそうな顔で眺めながら、マリウスはさらりと訊ねた。
「えと、あの……自分でも、おかしいとは思っています。
こんなことを言うと変に思われるかもしれませんが、マグス大佐が唱えた呪文が聞こえてきた時、私は強烈な既視感に捉われました。
涙が出るくらいに切なく懐かしくて、自分の感情が抑えられなくなりました。
王国に戻ってからも、爆裂魔法を思い出すたびに同じ思いに捉われて、心が苦しくなります」
マリウスは切子ガラスの酒瓶を手に取ると、空になったティーカップにとぽとぽと注いだ。秘書のエイミーが見たら、複数の理由で激怒していただろう。
「つまり、君はマグス大佐に出会う以前に、爆裂魔法の術式を聞いたことがあると言いたいのだね?」
「はい。もっとも、そうはっきりとしたものではありません。
そもそもマグス大佐の呪文は、私にはひと言も理解できませんでした。
ですが、あの不思議な旋律を聞いた瞬間、私の心の奥底から、ぼんやりとした記憶が蘇ってきたのです」
「幼いころ、母親が歌っていた子守唄的な感じかな?」
「そんな感じですが、私の記憶に紐づけられていたのは父の顔なのです」
「お父上が、君を育てていたのかね?」
エイナは首を横に振った。
「違います。
私の幼少時の記憶は、ほとんどが母親の思い出です。
父は私が目覚めたころには仕事で家を出ていました。私が父と一緒に過ごしたのは、夕食時のわずかな時間に過ぎません。
なぜその旋律に限って父の顔が浮かんでくるのか、自分でも不思議でならないのです」
「なるほどなぁ……」
マリウスはため息混じりに言葉を吐き出すと、カップに注いだ酒を一息で飲み干し、天井を仰いでソファの背もたれに上体を預けた。
彼はしばらく天井を見つめた後、バネ仕掛けのように元に戻った。
「というわけで、ユニさん。ここからはあなたの番です」
テーブルの下では、ユニのごついブーツ攻撃をマリウスが華麗に躱していた。
ユニは小さく舌打ちをして、マリウスを睨んだ。
「いいけど、その前にエイナの質問に答えてあげたら?」
仏頂面のユニとは対照的に、マリウスの顔にはいつもの笑顔が戻っている。
「それもそうですね」
彼はそう言うと、エイナに視線を向けた。
「爆裂魔法について私が知っていることは、ケネス大尉と大差ない。
あれは帝国の国家機密だから、一般の魔導士が術式を知ろうとしても無駄なんだよ。
もちろん、高魔研でもマグス大佐以外に爆裂魔法を操れる魔導士を探しているから、天才と謳われるような魔導士には、声がかかって試験が行われる。
当然、彼らには呪文が明かされるわけだが、実験が不首尾に終わると術式に関する記憶を消されてしまうというのが、もっぱらの噂だ。
帝国において精神操作系の魔法は、禁呪とされて違法なんだが、高魔研ではそれが公然と行われているらしい」
マリウスの説明を聞いたエイナの瞳には、明らかな失望の色が浮かんでいた。
彼はそれを見て、慰めるように言葉を重ねた。
「まぁ、だからと言って、あの魔法に近づく方法がないわけじゃない。
それについては後から説明するよ。
まずはユニさんの話を聞こうじゃないか。その方が、君もいろいろ納得がいくだろう」
バトンを渡されたユニは、グラスにケルトニア酒を注ぐと(三杯目だった)、それを手にして立ち上がり、テーブルを周ってマリウスの隣りに腰を下ろした。
エイナと向かい合う形になった彼女は、驚くべきことを話し始めた。
* *
「エイナ、あなたは魔導院を卒業する直前、第一軍の演習で帝国の工作員に拉致された事件を、もちろん忘れていないわよね?」
エイナはユニが何を言い出すのかと思いながら、小さくうなずいた。
「あの事件の後、あたしは蒼龍帝シド様に呼び出され、ある調査を依頼されたの。
それは、あなたが七歳の時に姿を消した、お母さんの行方を探せというものだったわ」
エイナは息を飲み、思わず腰を浮かせかけた。
ケイトがすばやく軍服を掴んで引き戻す。
「無駄な期待を抱かせたくないから結論を先に言うけど、一年半以上探し回っても、彼女の居所は掴めなかったわ。
ただ、これだけは言える。
あなたのお母さんは生きていて、エイナのことをそっと見守っているわ」
エイナの大きな目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「それは……本当ですか?
本当にお母さんは、生きているのですね!」
ユニは視線を逸らし、下を向いたまま答えた。
「ええ、本当よ。ただし、あるのは状況証拠だけ。
でも、私の名誉にかけて誓えるわ。リーナ・ライエンは生きている。間違いないわ」
その瞬間、エイナの顔が強張った。
「リーナって誰のことですか?
私の母はクロエ、クロエ・フローリーです!」
「そうだったわね。
ちなみに、お母さんの旧姓はご存知?」
「えと、あの……それは知りません。訊ねたことがありませんでした」
「そう。まぁ、知っててもあまり意味はないんだけどね。
あなたのお母さんの本当の名前は、アデリナ・ライエンというの。
ただ、みんな彼女のことはリーナと呼んでいたから、リーナ・ライエンの方が通りがいいわね。
そして、お父さんのエリク・フローリーというのも、本当の名前じゃないわ。
彼の本名はニコル・クライバー。
ご両親二人とも、帝国人よ」
「そんな……!」
「驚くのも無理はないけど、これは事実よ。受け入れなさい。
あなたのお父さんは帝国軍の魔導士官だったの。お母さんの方は没落した貴族の出で、〝吸血鬼狩り〟として名を馳せた剣士だった。
あたしはね、この一年半の間に三度も帝国に潜入して、ご両親のことを調べたの。
二人はある事情で帝国を追われ、名前を変えて王国の辺境に潜り込んだ。
そこで生まれたのが、あなただったのよ」
エイナは呆然として、とにかく何か喋ろうとした。だが、口がぱくぱくと動くだけで、言葉が出てこなかった。
その彼女の手を、隣に座っているケイトがぎゅっと握ってくれた。振り返って見たケイトの横顔も青ざめていた。
これはケイトも初めて聞く話のようだった。
ユニはなおも話を続ける。
「ニコル・クライバーは天才的な魔導士だったみたいね。
帝国には、マグス大佐以外にも爆裂魔法が使える魔導士がいるという話、聞いたことがあるかしら?」
ユニの質問で呪縛が解け、エイナの口からやっと言葉が出てきた。
「ケネス大尉からそう伺いました。
ただ、実戦で使えるのはマグス大佐だけだとも……」
「そうね。その辺は帝国でも詳しく知る人はいない――というより、軍部が事実関係を隠していると言った方がいいわね。
そうでしょう、マリウス?」
マリウスは大げさに肩をすくめてみせた。
「マグス大佐以外の魔導士が誰かを知ろうとするのは、タブーとされています。
ただ、その一人はサシャ・オブライエンだという話は有名ですね」
「サシャ・オブライエンというのは、マグス大佐の前に〝魔女〟と呼ばれていた大魔導士よ。
彼女はとっくの昔に引退していて、まだ生きているなら百三十歳を超す化け物ね。
サシャが爆裂魔法の実験に成功したのは、百歳ころの話らしいわ」
エイナがきょとんとしていたので、ユニがサシャのことを説明してくれた。
「さすがに百歳の老婆を、戦場に出すわけにはいかないでしょ?
ところがね、彼女の他にももう一人、爆裂魔法に成功した魔導士がいるの。
それがあなたのお父さん、ニコル・クライバーよ。
彼は実戦レベルで爆裂魔法を使えたらしいんだけど、軍が大々的にその存在を喧伝する前に、戦死してしまったの」
「えっ? 戦死って、どういう意味ですか?
父が亡くなったのは私が七歳の時で、それも事故でしたけど」
「少なくとも軍の公式記録ではそうなっているわ。
今から二十五年くらい前の話だけど、彼は自分の中隊を率いて東北部の開拓村に赴いたらしいの。
そこでアフマド族の襲撃を受け、開拓民もろとも全滅したということになっているわ。
最終の階級は魔導中尉。死後に大尉を追贈されているわね。
士官が戦死した場合、二階級特進が普通だから、本当だったら少佐になっているはずなんだけど、よほど不都合なことがあったのかしら。
とにかく、彼が爆裂魔法を使えたという話は、公式記録のどこを見ても書いていないわ。
そして、マリウスが言ったように、ニコルのことを探るのは軍ではタブーとなっているっていうわけよ」
「あたしもある程度のところまで調べ上げたんだけど、エイナが黒死山から戻って報告した話を聞いて、ぴんときたのよ。
それで先月、また帝国に渡って、帝都ガルムブルグに潜入したの。
そこで全滅したとされている村の生き残りに会うことができたわ」
「ユニさんからいきなり『帝都に行きたいから、アラン少佐とロック鳥を貸してちょうだい』と言われた時は驚きましたよ。
おかげで蒼龍帝とユニさんが、裏で何をしているかを知ることができたんですけどね」
マリウスが入れた軽口を無視して、ユニはさらに話を続ける。
「それでやっと、ことの全貌が掴めたの。
マリコフ村はアフマド族じゃなくて、吸血鬼に襲われていたのよ。
エイナたちが黒死山で会ったという伯爵が、アフマド族の依頼を受けて動いたんでしょうね。
軍はニコルに対して、住民もろとも村を爆裂魔法で葬り去るよう命じたらしいわ。
彼はその命令に逆らって村人を逃がそうとしたんだけど、伯爵の眷属に襲われて部下たちは全滅。揚句に村人を人質に取られ、魔法の行使を強要されてしまった。
それを救ったのがあなたのお母さん、リーナ・ライエンだったの」
「リーナは吸血鬼専門の狩人なだけに、かなり強かったけど、伯爵の眷属も強敵で、ニコルの加勢でどうにか勝てたらしいわ。
軍に戻れないニコルはリーナと意気投合して、一緒に旅をするようになったの。
二人は帝国の南部で吸血鬼を狩っていたんだけど、真祖の怒りを買って付け狙われた――それで王国に逃れてきたってわけ」
「二人は旅をするうちに、愛し合うようになったんでしょうね。
王国に渡ってきたのも、平和な暮らしを望んだからかもしれないわ。
あなたのお母さんが姿を消したのは、吸血鬼の追手が辺境にも迫っていたからだと思うわ。
まだ子どものあなたを巻き込みたくなかったのね」
「でも変です!
私を引き取ってくれたアイリ叔母さんは、お母さんの妹でした。
お母さんが帝国人だとしたら、叔母さんもそうなんですか?」
ユニは肩をすくめた。
「それは嘘よ。調べてみたけど、アイリは六人姉弟の長女で、姉なんかいなかった。
どうしてリーナの妹ってことになっていたかは、あたしにも分からないけどね。
裏で何かの約束があったのか、ニコルが精神操作系の禁呪を使ったのか……そんなところかしら」
ユニは四杯目のケルトニア酒を呷った。
そして話を打ち切るように〝ぱんっ〟と両手を打った。
「とにかく、あなたのお母さんは一人で吸血鬼を倒せるほど強い女性よ。
居所までは分からないけど、王国内にいるという痕跡はいくつか見つけたわ。
エイナが魔導士として一人前になったら、きっと向こうの方から会いに来てくれると思うわ」
ユニはそう言って立ち上がると、秘書官室へ続く扉へと向かった。
マリウスが慌てたように、その背中に声をかける。
「どこへ行くんですか? まだ第一部が終わっただけですよ」
ユニは扉の前で振り返り、マリウスに向かって思い切り顔をしかめ、舌を出した。
「おしっこ! 察しなさいよ、馬鹿!」
床に寝そべっていたオオカミが、気怠そうに大きな欠伸をしてみせた。