十 新学期
エイナが魔導院の寄宿舎に入ったのは、六月のことだった。
それから半年が経ち、年明けとともに魔導科第三期生の新たな学生生活がスタートした(リスト王国では、新年一月から新学期が始まるのが一般的)。
これまでの期間の補習で、エイナは小学校四年と五年の課程をすべて自分のものとしていた。
それは並大抵の努力でなせる業ではなく、指導に当たった教授陣たちは、エイナに惜しみない賞賛を送った。
もちろん、彼女自身の頑張りもあったのだが、同室となったシルヴィアの功績も大きかった。
理数系ではほとんど手助けの要らなかったエイナであったが、国語や社会といった科目では、毎日出される大量の課題に苦しんでいた。
授業中ならば、疑問点は先生に聞けばいくらでも丁寧に教えてもらえるのだが、自習時間はそれができないからだった。
そんな時は、勉強が進んでいる上に優秀な生徒であったシルヴィアが、よい先生役となってくれた。
半年の補習期間中は魔法に関する指導は一切なく、一般教科の遅れを取り戻すことに専念することになった。
魔法の授業に関しては、正規の手続きを経て入ってくる新入生たちと公平な立場で学ぶべきであり、これは当然の措置である。
新年度の魔導科は、初めて三クラスの複数編成となったが、一学年を合わせて五十人足らず、エイナのクラスも十七人である。
それでも、一学年で七人という召喚士科のシルヴィアからすれば、羨ましい限りであった。
魔法科に集められた生徒は多くが孤児院の出身者で、ケイトの勧誘を受けた者であったが、一般家庭の子も一割程度混じっていた。
そうした生徒たちは、ほとんどが軍人の家系の生まれであった。
魔導士として軍に入れば、最初から将校の座が約束されているという特典は、軍に身を置く者にとっては大変な魅力であった。
一般兵と士官とでは、立場も待遇も違う。ましてや将校ともなれば、軍大学でも出ない限り、最初から就ける地位ではない。
そういう意味では召喚士も同様ではあるが、彼らの場合は持って生まれた特異な才能が物を言う世界であった。
それに対して魔導士の場合、人間誰しも潜在的には多少の魔力を持っているから、勉学さえ優れていればどうにかなるのである。
したがって、国中から集められた魔法科の生徒たちは秀才揃いであった。
半年という短期間で、二年分の学業の後れを取り戻したエイナは、それなりの自信をもって新たな環境に挑んだ。
しかし、すぐに自分がやっと人並みになっただけであり、一般科目においてはクラス最下層からの出発だということを思い知らされたのである。
* *
魔法科の課程は一週間に六日、三十四コマの授業があった。
一年生は一般科目が十二、魔法科目が十六、軍事教練が六コマという配分である。
魔法科目と軍事教練は、新入生が初めて経験する教科だったので、まったく同じレベルからのスタートとなる。
そういう意味では、エイナの学業の遅れは深刻な問題とはならなかった。
十六コマの魔法科目は、魔法理論という座学が十二、実技が四という配分で、初学年であることもあって座学重視であった。これは意気込みをもって臨んだ生徒たちにとっては、肩透かしを食らったようなものだった。
この座学は、魔法の体系や歴史を学ぶ一般理論、〝神聖文字〟と呼ばれる呪文を構成する言語を学ぶ魔法語学、術式対象物との方角や距離を判断するための測距学が主要な内容だった。
それは、これまで学んできた学問とは、まったく系統を異にする不思議な世界だった。
集められた生徒たちは、いずれも強い向上心を持っていたこともあって、この未知の世界に果敢に挑んでいった。
授業は高度で複雑なものだったが、エイナは楽しかった。
彼女は暗算が得意だったので、特に測距の科目ではたちまちクラスの先頭に躍り出た。
魔導士は季節ごとに異なる太陽の角度や星の位置などから、時間や方角を即座に割り出すことが求められる。
そして、これらに風の強さや方向、気温を体感して偏差を加え、最適な呪文を組みあげねばならない。
五感を駆使して得た情報を細かく数値化し、複雑な公式に当てはめて最適解を導き出す。それは高度なパズルを解くことに似ていた。
エイナは学校に通えなくなってから、思いついた適当な数値同士を四則計算で解くという一人遊びをしてきた。
測距学の課題は、それよりも遥かに複雑な計算だったが、挑みがいのある相手に思えたのだ。
週に四日ある魔法実技では、最初の段階として魔力の制御から教えられた。
生徒たちはケイトにスカウトされた際に、誰もが魔力を流し込まれるという経験をしていた。
その魔力に反応し、未熟でも自分の魔力を動かしてみせた者だけが集められたのだ。
エイナ一人が特別だったわけではない。
魔力は全身に平均的に存在しているが、これを動かして特定の場所に溜め込むのが第二段階となる。
魔力の〝入れ物〟は観念的なものであるから、容量を持った臓器でなくても構わない。
ただ、全身の血液が集まる部位が感覚的に掴みやすいため、男子は心臓や胃に魔力を集める者が多く、女子はほぼ例外なく子宮が魔力の器となった(ちなみに、エイナのクラス十七人のうち、女子は五人だけである)。
第三段階では、溜め込んだ魔力を引き出し、呪文に合わせて放出する訓練である。
魔力は全身の血流に乗せるようにして集めるのだが、放出する際には血管は使わない。脊髄に沿って螺旋を描くように渦を作るのである。
放出するのはどこからでも可能だったが、方向を定めやすいことから、手の平や指先が好まれた。
放出訓練では、最も初歩的で単純な魔法――〝明かりの魔法〟が使われた。
単純とは言っても、生徒たちが話している中原語(この世界で広く使われる共通語)と、全く異なる言語(神聖文字)で構成された呪文を口にするため、簡単なものではなかった。
神聖文字には、中原語に存在しない発音が多数含まれているからである。
指先の数センチ先に、ランプほどの明かりを灯すだけの地味な魔法を、クラス全員が習得したのは初年度の秋に入ったころだった。
生まれて初めて〝魔法〟を実現させた生徒たちの感激は、微笑ましいほどに大げさなものだった。
女子はもちろん、男子生徒の大半ですら、初めて成功した時には涙を流したのである。
魔法実技の授業を担当するのは、ケイトと決まっていた。
他の先生たちは、理論と知識を教えることはできても魔導士ではない。
このリスト王国に魔導士と呼べる人間は、ケイトの他には参謀副総長のマリウスしかいなかったのだ。
* *
十月のある日のこと、最後まで手こずっていた三人の生徒が、揃って明かりの魔法に成功した。
二人の男子と一人の女子は、自分の手の先に生まれた明かりを目の当たりにして、その場に泣き崩れた。
クラスの仲間たちが歓声を上げて駆け寄り、その成功を祝った。
女の子たちは抱き合って全員が号泣し、男子たちは二人の成功者を胴上げした。
指導に当たっていたケイトは、自分が初めて魔法を使えた日のことを思い出さずにはいられなかった。
彼女はマリウスに魔力の動かし方を教わった最初の日に、いきなり〝発火の魔法〟を使ってみせたのだ。
発火の魔法も初歩的なものであるが、明かりの魔法より数段高度である。
ケイトがいかに天才的な人物であるか、そしてマリウスがどれほど驚いたのか――今のケイトにはよく理解できた。
しかし、生徒たちの進歩を喜ぶと同時に、ケイトの心の内には苦悩もあった。
この初歩魔法を全員が発動させる過程で、ある程度生徒たちの限界も見えたからである。
覚えの早い遅いはあまり関係はない。問題は潜在魔力量であった。
魔導士としての成長に伴って魔力量が増大する例はあるが、基本的にその人間が持つ魔力量は天から与えられた資質である。
自分が集めた生徒たちが魔導士になれることを、ケイトは疑っていなかった。ただし、全員が軍の魔導士となれるかどうかは、まったく別の問題だった。
参謀本部のマリウスは、召喚士に倣って魔導士を選別する方針を決定していた。
すなわち、軍に所属して戦争の道具となる一級魔導士と、その基準には満たず、市井に暮らして後進の指導に当たる二級魔導士の二種類である。
子どもたちにとって、そのどちらが幸せなのだろうか?
そう考えると答えが出せない自分に、ケイトは気づいていたのである。
翌日の魔法実技の授業は、ケイトが軍の任務でどうしても時間の都合がつけられず、座学の先生の監督のもとでの自習となった。
全員が習得した明かりの魔法を、より素早く、より強く発動させるための練習である。
エイナは、明かりの魔法の発現に最初に成功したグループの一人であった。
それは七月の末のことで、彼らは仲間たちから賞賛と羨望の眼差しを受けていた。
そのため今日の自習内容は、彼女が二か月以上繰り返してきた地味な復習と変わりない。
正直に言って、それは退屈でしかなかったが、ケイト先生はクラスの仲間を置き去りにして、エイナが先に進むことを許してくれなかった。
エイナはそのことに特段不満を覚えず、ただひたすら呪文の精度と速度を上げることに没頭していた。
ただ、エイナとともに最初の段階で明かりの魔法を成功させた級友のミハイルは、この自習に不満を抱いていたようだった。
優秀な生徒が集まった魔法科のクラスの中でも、ミハイルはとびきりの秀才だった。
一月に新年度が始まると、ミハイルは最初からクラスのトップに君臨した。
彼は十二歳にしては上背もあり、容姿や態度も垢抜けていた。
クラスでは数少ない一般家庭の子で、父親は第一軍の大尉だということだった。
ただ、彼の天下は数か月で危うくなった。
当初は一般科目で後れを取っていたエイナが、猛烈な勢いで迫ってきたからである。
半年も経つと、この二人はクラスの首位を巡って、激しい争いをするようになっていた。
つい先週のテストでも、ミハイルは僅差で首位を奪い取ったが、その前の中間考査では数点差でエイナに敗れていた。
ミハイルはプライドが高い反面、正々堂々と戦うことを好んだ。
エイナとは決して慣れ合うことはなかったが、年頃の男の子にありがちな意地悪はせず、彼女を好敵手として遇していた。
むしろどこかどん臭く、からかわれることの多いエイナを庇うことが多かった。
そのためクラスの中では、二人は好き合っているのだと見做されていた(もちろん二人はそれを否定していた)。
自習時間中、クラスの子たちは明かり魔法の速さを競う勝負をしていた。
二人ずつ組となって三本勝負をし、先に二本を取った方が次に進むトーナメントを始めたのだ。
子どもたちにとっては遊びだったが、内容的には全く問題はないので、監督の先生は口を出さなかった。
ただし、ミハイルとエイナはこの勝負から除外された。二人が入ると決勝の組み合わせが最初から決まってしまうので、興が削がれるからだ。
そのため、盛り上がる級友たちを横目で見ながら、二人は退屈な復習を繰り返すしかなかったのだ。
「なあ、エイナ」
ミハイルが真面目に練習しているエイナの側にやってくると、周囲を窺ってから声をかけてきた。
「どうしたの?」
「俺たちも勝負をしないか?」
「また? 一昨日もやったじゃない」
「そうじゃなくて、新しい魔法を試してみないか?」
「嫌よ。勝手に試しちゃ駄目だって、ケイト先生から言われているじゃない」
「だから、そのケイト先生がいないからやってみるのさ。
お前、発火の魔法の呪文はもう覚えたか?」
「〝お前〟って言わないでよ。
もちろん、もう覚えているわ――って、まさかそれを試すつもりなの?」
「大丈夫、昼間なんだから、バレたりしないさ。
エイナだってケイト先生のお手本を見ただろう? 手の上に小さな炎を出す魔法なんだから、離れているオットー先生が気づくはずはないよ」
確かに、明かりの魔法は手の先にランプ程度の光を出すだけのものである。
夜ならまだしも、この真昼間の屋外では、よほど近くで見ていないと魔法の効果が分からない。
最近始まった発火の魔法の呪文の授業の始めに、ケイト先生が手本として実演してくれたが、その効果は明かりの魔法と見た目に大差がなかった。
出現するのが単なる光か、ゆらぐ炎かの違いだけで、その明るさ自体はどちらもごく頼りないものだったのだ。
だが、まったく無害な光に対し、炎は熱を持つため触れば火傷をするし、大きければ立派な武器となる。第一、炎にはいかにも魔法らしい印象があった。
魔導士に憧れる生徒たちにとって、魔法のイメージは巨大な炎を意のままに操る姿であったから、実際に炎を生み出してみたいという欲望は誰しもが持っていた。
「でも……」
躊躇するエイナを、ミハイルは馬鹿にしたような目で見下した。
「何だ、自信がないのか。やっぱり女だな。
まぁ別にいいさ。それなら俺一人でやるだけだ。ケイト先生に告げ口なんかするなよ?」
やっぱり女だな――その一言が、エイナの闘志に火をつけた。
女だから家を継げないのか?
女だから十五歳で婿を取らされるのか?
女だから殴られても我慢しなければならないのか?
女だから母の行方を探しに行けないのか?
エイナはそうした考え方に抵抗しようとして、魔導士になる決心をしたはずだった。大人しい彼女の心に、敵愾心が湧き上がってきたのだ。
「いいわ、やってやろうじゃない!」
「よし、じゃあ俺からやるぞ」
ミハイルはそう言って、早口で呪文を唱え始めた。
離れた敵に飛ばす攻撃魔法ではないから、面倒な測距計算は必要ない。ただ目の前に小さな炎を出すだけの魔法である。
それでも、明かりの魔法よりは複雑で、ミハイルが呪文を終わらせるまでに十分以上かかった(ケイト先生だったら、二重詠唱を使って数秒で唱えてしまうだろう)。
精神を集中し、真剣な顔つきで前に出した彼の手の平の上に、ぽっと炎が灯った。
近くで見ているエイナでなければ気づかない、ささやかな炎であったが、それは確かに魔法が生み出したものだった。
ミハイルは「どうだ」と言わんばかりにエイナの方を見て、白い歯を見せて破顔した。
吹きわたる秋の風は涼しかったが、よほど力を使ったのだろう、彼の額には汗が浮かんでいた。
「あたしの番ね」
初めての魔法を見事に成功させたミハイルに、エイナも負けるわけにはなかった。
精神を集中し、お腹の底から魔力を螺旋状に上昇させる。
唱える魔法に従って、彼女の魔力は生きた蛇のようにうねり、身体の中を駆け上ってくる。
何匹もの蛇が絡み合いながら腕の先へと集まっていき、手の平が破裂しそうになって熱を持った。
『ミハイルよりも大きな炎を出してやる!』
エイナの意識はただその一点に集中していた。子宮に溜め込んだ魔力のありたけを注ぎ込むつもりだった。
発火魔法は練習用の初歩的な魔法ではあるが、炎を扱う以上危険も伴う。
そのため、教わった術式には過剰な魔力が投入されないよう、一種のリミッターが組み込まれていた。
エイナはその限界値まで魔力を込めるつもりだった。安全装置を過信した、油断だったのかもしれない。
手の平と五本の指を巡る血液が、まるで沸騰しているような感じがしても、エイナは構わずに魔力を送り続けた。
そして、呪文の終了まであと数節というところで、安堵した彼女はわずかに集中を欠いた。真剣な顔でエイナの手を見守っているミハイルの顔を、ちらりと見てしまったのだ。
魔力の流れがわずかに乱れた。
ぼんっ!
思いがけない音とともに、いきなり爆発が起きた。
腕を前に伸ばしたエイナの手の上で、大きな炎の塊が現出したかと思うと、爆散してあっという間に消え去ったのだ。
炎が出たという点では成功であろうが、制御の面では完全な失敗だった。
それだけなら、エイナの未熟さを笑うだけで済んだ話である。
だが、エイナが出した炎はあまりに大きかった。
直径で軽く一メートルを越え、覗き込んでいたミハイルも、術者であるエイナ自身をも巻き込んだのだ。
炎の塊が弾けた瞬間、ミハイルは「あっ」と叫んで尻もちをついた。
前髪がちりちりになり、毛髪が燃える嫌な臭いが煙とともに漂った。
強烈な光で網膜がやられ、視力が奪われたまま数時間も戻らなかった。
エイナの方も、目がやられたのは一緒だった。
伸ばした腕を覆っていた服の袖は焼け焦げ、黒い煤となって風で飛んでいった。
剥き出しとなった腕は、火傷を負って赤くまだらになっていた。
彼女は目が見えなくなっていたので、何が起きたのかも理解できずに呆然としていた。
ふっと貧血のような感覚が襲ってきて、耳の奥でキーンという金属音が鳴り響いた。
そして、立ったままエイナは意識を失い、棒のように地面に倒れてしまった。
それは、初めて経験する〝魔力切れ〟という症状だった。