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なつ子の視線は、私の後ろの方を見ていた。思わず振り返ると、背の高い男性がじっとなつ子を見つめながら、こちらに歩み寄ってきた。
「なあ」
低い、威圧的な声。怖いな、と思ったけれど、なつ子は慣れっこのようだった。
「今、友達と話してるから。あとでね」
ぷい、となつ子が顔をそらすと、そうかよ、と彼は私たちの横を通りすぎていった。彼の姿が見えなくなったところで、ごめんね、と彼女が苦笑する。
「嫌な態度だったでしょう。私も、彼も」
「いいよ、別に……大丈夫」
「潮時ですかね」
話を逸らす以外に回避方法が見つからず試してはみたものの、こんな方向に話が逸れてしまうとは。返事に窮していると、ま、いっか、と彼女は無理やり話を戻してきた。
「それよかさ。この前、松丸君と、なんだっけ、意味ありげな会話してたじゃん」
「そもそもですよ、意味のない会話は存在しますでしょうか」
「みーのーり」
なつ子が頬を膨らませる。可愛らしい表情に、思わず笑ってしまう。
それからしばらくなつ子は質問をしてきたが、私の適当な相槌に呆れたのか飽きたのか「まあいいや」といってあっさりと話題を変えてくれた。
このとき、彼女の異変に気がついていたらと思うが、それは無理な話だ。
私は秀との生活の香りを漂わせないように必死だったし、なつ子は大切なことはいわない人間だということを、このときの私はまだ知らなかったのだ。
待ちに待った水曜日、一日中休みの私は、昼過ぎに家を出た。秀は、店の住所をスマートフォンにあらかじめ送ってくれていた。好きな時間に来ていいとのことだったので、お言葉に甘えて、本当に好きな時間に出た。
店の最寄りは、うちから二駅先だった。今住んでいる場所は、彼の働く場所から考えて、立地も悪くなかったことを今更知った。大学を卒業した後、彼はこの店で働き続けるといっていたし、しばらくは今の家に住んでいられそうだと安心する。
わかっている。
ずっと彼と一緒に住み続けることは、多分ないだろうということを。
彼がある日出ていくかもしれない。ある日とんでもない喧嘩をして私が出ていくかもしれない。彼に恋人ができるかもしれない。私が遠くで働くことになるかもしれない。
「ぼんやりとしてんだよな……」
悲しくなって、思わずつぶやいた言葉は、大通りを走る車のエンジン音に轢かれる。
今が楽しくて。
例えば今日のような日が明日も明後日もずっと続かないことを、私は知っていて、だからこそ、今しか見たくなくて。
私の性格ってこんなにもぐずついていたかしら、とますます悲しくなりながら、スマートフォンの地図を見る。丸で示された私が、いったいどっちを向いているのかがわからない。目の前の道と地図上の道を何度も見比べ、ようやく目印になるコンビニを発見し、それを頼りに歩きはじめる。
二駅となりだが来たことのない町はどこか新鮮で楽しかった。少し古い商店街を抜けると、小さな店がいくつもならんだ通りに出た。日本から遠く離れた国の衣服を売っているお店、知らない国の旗がかけてあるご飯屋さん、ドライフラワーがたくさん置かれている喫茶店……そんな店に囲まれた場所に、秀が働く店はあった。小さな扉の横にある窓から店内が見えるようになっており、一目でアクセサリー屋だということがわかる。その窓は丸い形で、遠くからでも目立っていた。
店の名前はシオン。木の扉をゆっくり開けると、リン、と扉につけてあったベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
秀の声だ。何か作業をしていた最中だったようで、挨拶の後、こちらに顔を向ける。ぱっと目を輝かせ「来た!」と大きな声を出す。私は、思わずほかに客はいないかを確認する。どうやら私以外に客はいないようだ。
「律太! 律太!」
店の奥にある扉の方に向かって秀が叫ぶと「おー!」と扉の向こうから声が聞こえた。秀の声よりも低い声だ。緊張してその場に突っ立っていると、おいでよ、と秀に手招きされる。秀の横にたどり着いたところで、奥の扉が開き、ゆっくりと律太さんが現れた。
秀よりも背の高い彼は、背中を丸めて扉をくぐっていた。金に近い髪の毛をふわふわとなびかせている。私と目があうと、うれしそうに「君が」と手を差しだしてきた。あまりに自然なその所作に、驚いてしまった。指にはごつごつとした銀の指輪をつけていて、耳にも無数のピアスがぶらさがっていて、そのすべてをおしゃれにつけこなす律太さんの微笑みは、とても紳士的だった。
秀は思わず見とれてしまうような冷たい視線を持っているが、律太さんはその逆だった。薄茶色の目は太陽のように温かで、自然と笑みがこぼれるような優しさを持っていた。
差しだされた手をそっと握ると、律太さんは優しく私の手を握りかえした。大きな手につけられた指輪が、ひやりと冷たい。
「秀から聞いています。みのりさん……えっと、あれ、名字は」
「秋山です。みのりでいいです」
「そうだ、秋山さんだ。秀が、みのり、みのりって、いつもいっている。もう何度あなたの話を聞いたか」
やめてくれ、と秀が顔をしかめる。私のどんな話をするのだろう? 訊いてみたかったが、それはそれで恥ずかしくなり、結局黙ってしまう。
「律太さん、ですよね。えっと、なんてお呼びすれば……」
「律太でいいよ。改めまして……野々宮律太、この店のオーナーです。敬語は使わなくていいよ。秀が、会わせたい子がいるっていってきたときは、どんな子かと思ったよ。今までそんなことなかったから」