7
目を覚ますと、見慣れた天井がそこにあった。自分の部屋のベッドに横たわっている。何が起きたか理解するのに数秒かかった。私が気絶して、秀がここまで運んでくれたんだろう。
「すごいな……お姫様抱っこかな」
耳鳴りの向こうで、料理をする音が聞こえる。何を作ってくれているのだろうか。
「秀……」
呼んでみるけれど、声が小さすぎて届かない。それはそうか、と寝返りをうつと、料理をする音が止まった。足音がして、ノックの音が部屋に転がる。
「起きた?」
すごいな、どうして私の声が聞こえたのだろうと思いながら、返事をする。まぬけな、うんともすんとも聞こえるような音が、口から漏れる。
「開けていい?」
「いいよ」
ゆっくり開かれた扉の先に、彼がエプロンをつけて立っていた。
「救急車呼んだ方がいいかと思ったけど、やめた」
彼は、今までに見たことのない表情をしていた。私の好きな、冷たい目。それなのに、ちょっと悲しそうで、唇は何かを我慢しているかのようにへの字に曲がっている。
「よくあるから平気だよ」
「気絶が?」
「一瞬だけ、みたいな」
「今回は一瞬じゃなかった、二時間寝ていた。しばらくは汗とかかいていたけれど、ふいたら汗がひいたし、寝ていたみたいだったから、救急車は呼ばなかった」
なんだか子どもみたいだ。やっと私は、彼にどれだけの心配をかけてしまったかを自覚した。
「ごめんね」
「俺がごめんだよ。疲れさせちゃったよね、しっかり俺、考えないと……俺が悪いと思ったし……ごめん、みのり。一緒に暮らすのに」
いつもひょうひょうとしている彼が支離滅裂なのは、なかなかに面白かった。
「そうね、話さないとね。まず、お願いがあるの」
「なあに、何でもいって」
「水持ってきてほしい。あと、私のカバンも。痛み止め、中に入っているから」
よし来たと、彼が懸命に動くその姿が、愛おしくて仕方がなかった。
薬を飲んで、すぐにまたベッドに寝転んだ。すぐに話そうと彼をさそうと、彼は自分の部屋から、ビーズのクッションを持ってきて、私の頭のすぐ隣にそれを置いた。そこに座ると、視線が同じ高さになる。しゅんとした彼は、黙って私の言葉を待っているようだった。
「話した方がとは思ったけれど、何を話せばいいんだろう……」
「みのりが、俺に知っておいてほしいことは全部。人によって違うことだし、俺はうまく察することができないと思うし」
いつか誰かにそのようにいわれたのかもしれないと思ったが、指摘するのはやめておいた。代わりに、私が知っておいてほしいことを考える。
「オッケー……えっとねえ、私の生理は、すごく痛い。私は、血を見た瞬間から痛みがどばっとくる。耳鳴りが凄い。痛み止めで少し痛みは和らぐけれど、完全になくならないのが一日目と二日目。三日目からはけろっと動けるようになるけれど、最初の二日間はげっそりしてる。直前は、さっきみたいにイライラしているから、気をつけはするけれど、自分をコントロールできなくなるし……その、たまには、ご迷惑をおかけすることになるかと」
「……これからもここに住んでいていいの。俺がいると、みのりが大変になっちゃうなら、俺、すぐにでも出ていくよ」
そんなことないのに。
私は泣きそうになった。彼の優しさが、本当に澄んでいて、綺麗で、嬉しかったから。
「秀が、私に耐えられなくなったら出てっていいよ。でも、私は出ていってほしくないな。苦しいときに、誰かがいるのって、すごく幸せなことでしょう」
彼が、ベッドに寄りかかる。それ、わかるよ、と小さくつぶやく。
「俺も一か月に一回、血を流すんだったらさ、もう少しわかることもあるのにね」
「全く違うからこそ、わかることもきっとあるよ」
「みのりは大人だなあ……」
彼がうなだれる。私はその頭を撫でたくなるけれど、痛みのせいで腕をあげる元気も出ない。
「ねえ、秀」
顔をあげて心配そうに私を見つめる彼に、今なら何でも訊けると思った。
私は、ずっと気にかけていたことを口にする。
「秀はさ、どうして私と一緒に暮らせると思ったの。周りの目とか、気にしなかったの。今、どう思っているの」
「んー……」
秀は、私がいつかこういう質問をすることをわかっていたのかもしれない。あまり驚いた様子のない彼は、ゆっくりと目を伏せる。
「一目ぼれってあるじゃん。あれは、恋愛だけに起こることではないと思っていて」
長い指を、唇に当てている。言葉を、ゆっくりと選んでくれているのだろう。
「みのりが俺の前に現れて、家に泊まらないかっていってきたとき、この子は、本気で俺のことを落としにかかっているか、本気で恋愛感情はなく心配しているかのどちらかだって思った」
薄い唇が、ふわりと微笑む。
「目を見てわかった気がした。どちらにせよ、この子は本気だって。俺はみのりのことを、一瞬で好きになった。この好きっていうのは、恋愛対象としてではなくて、人間として、一個人として興味を持った、っていう意味の好き。本気で俺を落としにかかっているのなら、面白いと思った。そういう子とつきあってみるのもありかもなって。本気で心配しているのならもっと面白いと思った。そういう友達が欲しかったから」
伏せた目は、私からはよく見えないけれど、きっとどこか冷ややかなのだろう。それでいて、悲しいほどに、温かいのだろう。
「周りの目は、気にしたくないと思った。みのりは、俺のことをよく知らないでしょう」
「どういう……」
そういえば、友人がいっていた。あの有名な松丸君。次は、みのりか。
「俺の恋は金木犀みたいなの」
ふう、と彼はため息をつく。
「わっと咲いて、すぐに枯れちゃう。それの繰り返し。そういえば、今咲いている金木犀も、この雨でみんな散っちゃうかもね。毎年そうだよね。雨に流されちゃう」
「そうだね……秀の恋愛は、潔いってことだよね」
思ったことを口にすると、彼は黙ってしまう。どうしたのかと不安になるが、何もいわずに待ってみることにする。すると、彼は小さく、そうか、と漏らした。空気が微量にしか振動しない、本当に小さな声だった。
「秀?」
「俺は、俺の知らない世界を見せてくれるみのりが好きだよ。でもこの好きっていうのに、今のところ恋愛感情は見つからない」
はあ、と意識せずにため息が出た。
「……みのり、それはなんのため息なの」
「よかったなって」
今までつきあってきた人の顔が浮かぶ。
「私も、秀のことは好き。でも、恋人になってほしいっていう感情がない。この感情を友情って表現すればぴったりとあてはまるのに、どうして男女だとそれがものすごく難しくなってしまうんだろう」
今、やっとわかった。
ずっと探していた答え。どうして、私は彼らと「うまく」つきあうことができなかったのだろう。
私は、彼らのことを大切にしていた。
それに代わりは無かった。
ただ、秀と同じように、大切な友人だったのだ。