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彼との生活は、平穏そのものだった。距離感が絶妙だ。夕ご飯を作ってくれたり、一緒に食べたりと、遠すぎるわけではないのだが、かといって過度な接触もない。私が部屋からでなくても何もいわないし、彼がそうなることもある。何をしているのかという詮索もない。
大学では、今まで通り接触はなかった。避けていたというより、接触するチャンスがなかったといった方がいい。
大学での接し方について、議論しなかったこと。
思い返せば、盲点だった。
彼と生活し始めて一週間たった金曜日のことだ。
大学内を、私は友人と歩いていた。
友人は、二週間前のカナダ旅行のときの喧嘩について、まだ彼がぐちぐちいってくるのだ、と困り果てていた。喧嘩の理由がそもそも、彼が昔の恋人の話をし始めたことが原因なのに、あのとき俺が怒られた意味がわからない、別に過去の話をするのは自由だろう、昔の話だ、などといってくるのだそうだ。その人っていい人なのかなあ、と思いつつ、それはひどい、と私は相槌を打っていた。
「はあー、またみのりの家に逃げこもうかなあ。一時期何度も泊めてもらったから、場所覚えているよ。今、一部屋開いているんでしょう?」
心臓が跳ね上がる。もう、その部屋には秀が住んでいる。
「ん、今、散らかっているからなあ」
「誰もいないのに?」
「物置みたいになっているの……」
贅沢、と彼女が笑う。嘘をついた罪悪感にさいなまれながら、はは、と私は目をそらす。
その先に、秀がいた。一人で歩いている。彼がこちらを見た気がしたが、そのときにはもう、私は視線をそらしていた。
それなのに。
「あ、そうだ」
私の顔を見るなり、彼は駆け足で近寄ってきた。私の友人に会釈をすると、あのさ、と挨拶もなく切りだしてくる。
「買っといた」
それだけいって、じゃ、とすぐに立ちさってしまった。「何を?」と友人が眉を吊りあげたが、私はすぐに理解する。切れかけの醤油を買っておいてくれたのだ。私の友人が隣にいたから、気を使って、何を、とはいわなかったのだろう。
バイトを早退したあの日に封じこめた不安が、その瞬間に顔をのぞかせた。
彼は、私たちの関係を他の人に伝えることについて、どう思っているのだろう。
「ねえ、みのり」
友人が、ひそひそと問うてくる。
「松丸君でしょ、あの有名な」
私は知らない。彼がどんなふうに有名なのか。
「うわさになってるよ、次はみのりかって」
何の次なのか。
背筋が凍る。今すぐ叫んで、走って、家に帰って布団に入りたい。
雨の音がした。
「うわあ、雨だあ」
友人の言葉が遠くに聞こえる。傘を忘れたなあと、のんきに彼女はいっている。
何かに腹が立って仕方がなかった。
秀のことを、知らない私。
何を考えているのかわからない、いってもくれない秀。聞けない私。勇気のない私。
うわさする人。それを訊いてくる友人。
そのすべてに腹を立てている気がしたし、それらの事柄の隙間に憤っている気もした。
大学を出てバイト先に向かい、何も考えたくなかったのでいつもよりさらに体を動かし頭を使い、今日はまたどうしたのと先輩に心配されながらも笑ってごまかし、走るようにして帰宅し、家の扉をあけると、目の前に彼がいた。
「うお、お帰り」
風呂上がりのようだ。髪先から水がしたたり落ちている。スウェット姿。
「ねえ、秀は私のことどう思ってるの」
「どうしたの、急に」
「どう思ってるの!」
私の気迫に彼は困ったように眉をひそめながらも、間髪入れずに返答する。
「一緒に住んでいる友達」
「ですよね? 私も!」
叫んだその瞬間。足と足の間に違和を感じる。
そうか、やけにいらつくと思ったら。
二人目の彼氏に、月に一日やけに怒るなあと思ったら次の日に体調崩すよねといわれて、そこまでわかっているのにどうして何が起こっているか理解しようとしないのだろうと感じたことを、思い出す。
「……みのり?」
「トイレ」
入ってすぐ、ズボンとパンツを同時に下ろした。やっぱり、と声が漏れる。当てておいたナプキンの上に、経血が染みついていた。
それを見た途端、下腹部に激痛が走る。
いつもそうだ。直前に感情が不安定になり、経血を見た瞬間に痛みが走る。いらつきは生理のせいだと知っているのに、私は直前まで怒りの正体に気がつくことができず、もちろん自分を制御できることもない。
「制御できたら苦労しないんだよな……」
怒りも、友情も、不安定さも、生理も、恋愛感情も、何もかも。
用をたし、ふらふらと外に出ると、彼が心配そうな表情を浮かべて立っていた。
「俺にできることある?」
この人は私に何が起こっているかを理解している。
そう思った瞬間、安心して、足の力が抜けていく。
「みのり!」
耳鳴りがひどい。いつもこうだ。
意識が遠のいていく。これは、いつもではない。
まあ、いろいろあったから私も疲れてはいるよなあ。
ぼんやりとそんなことを考えながら、床に座りこむ。私の名前を呼ぶ声が、遠くで何度も響いている。倒れそうになる私を、彼が受けとめてくれた。広い胸部。大きな手が、私の背中を抱く。安心感。彼の、私を呼ぶ声。
「ベッドに連れていって……眠るだけ」
いって、私の意識は消えた。