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秋晴れの土曜日。買い物にはうってつけだった。
私は不動産に、手続きに関する質問を、彼は実家に、住む場所が決まったという連絡をし、その後買い物に出かけることにした。彼が、月曜日に親が仕事で出かけて家に誰もいない状態になるまでは実家に帰らないというので、衣服が必要だということになったのだ。
「俺ね、ポスター買いたい」
駅に向かいながら、彼はそういってぴょんと跳んだ。
「あと、髪を切るはさみ。みのりのも切ってあげるよ。でも、ふわふわだから、長さそろえるの難しそう」
彼の前髪は、眉を隠すようにまっすぐとそろえられている。
「それ、自分で切っているんだ」
「前髪だけ。後ろの方は、友達がやってくれる。俺を泊めてくれなかったやつ! みのりは、自分で全部切れそう」
私は、腰まである髪の毛をひっぱってみせた。
「前髪が邪魔になったら美容院に行くけれど、自分で切っちゃうこともある。ここまで伸びると、切る回数も少なくなるよ」
「無精じゃあん」
その通り。私が首をかしげると、彼も真似して首をかしげてきた。愉快な人だ。
電車に乗って三十分、新宿駅で降りた後、私たちは駅前で買い物をすませた。スタイルの良い彼は何を着ても様になり、楽しくてあれこれと試着させた。いつも無地で無難なものばかり着ていたという彼は、普段は選ばないような服を着ることができたようで、楽しそうだった。
服を買い終わり、生活用品店に向かいながら、私は彼の手にする紙袋の量を見て心配になった。寝間着と二日間分の衣服を買う予定だったけれど、結局家に服を取りに帰る必要がないほど買ってしまった。買うときは楽しかったけれど、お金のことは大丈夫だったのだろうか。私の視線に気がついたのか、彼は「貯金していてよかった。満足の買い物です」と、紙袋をあげてみせた。
聡い人だ。悪くないと思った。
次の店ではさみを買った。お目当てのポスターも、文具コーナーの近くで発見した。そんなところでポスターを売っているなんて、知らなかった。
彼の大好きな女優のポスターを買った。キセルを手にし、黒いドレスを着て、大きな瞳でこちらを見つめているその人を、私もどこかで見たことがあった。有名な人だが、彼女の映画は、見たことがない。古い映画ばかりのはずだ。それこそ、モノクロ映画の時代の人ではなかったか。
「今度、この人が出ている映画、見てみたい」
「見よう、雨の日にでも」
雨の日には映画を見る、というルールが彼の中にあるのかもしれない。それは、私の世界にはないルールで、新鮮だ。
よくも知らない人の生活が、私に近づいてくる。それなのに、あまり不安ではないのは、なぜだろう。私が、この人のことを信じすぎているからだろうか。
ほのかな金木犀の香り。メープルシロップをたっぷりかけられたホットケーキ。優しいのに冷たい視線。近くにいるのに、実はたっぷりととられた距離感と、しっかりと引かれた境界線。
こんな人もいるんだなあと思いながら、こんな人だとどこかで予想していたのかもしれないとも思った。
店を出て、秋晴れの空に彼が微笑む。金木犀の香りがした。こんな町中にもいるんだと、あたりを見渡すが、姿は見えない。香りだけが、その存在を艶やかに主張している。
家に帰って荷物をほどいた後、彼が「生活の相談をしよう」と提案してきた。私は彼の部屋に行き、床に転がっていたクッションを引きよせて床に座った。
「どうぞ」
私がうなずくと、彼はよし、とベッドの上に座る。気合を入れたのだろうか、勢いが良すぎて少しはねた。小さい子どものようなことをする人だ。当の本人は、すごいバネ、とベッドのせいにしている。
さてと、と彼が前のめりになる。
「共有しなきゃならないことがたくさんあると思うんだ。授業のある日とか時間とか、バイトの時間とか、恋人の有無とか、触れないでほしいこととか、注意点とか、もろもろ」
ちょっと、と思わず遮る。
「秀、恋人いるの? 私、恋人がいる人とは一緒に暮らしたくないよ。相手に悪いじゃん」
「俺に恋人はいないし、今は恋愛する気もございません。ごめんごめん、なんか確認するタイミング逃していた……ってことは、みのりも」
「いません。恋愛はどうかな……積極的にする気は無い。あんまり得意じゃないし」
「おそろいじゃん」
いえーい、と彼が大きな手を突きだしてくる。タッチせよということだろうか。いえーい。軽くタッチをすると、きゃっきゃと子どものように喜ぶ。意味がわからない。
「まあ、予想外にやってくるものが恋愛なので、落ちたらそのときに考えましょ」
「そうだね……じゃあ、一週間のだいたいの予定から」
彼も私も週三日、大学での講義があった。
就職活動をするような時期だったが、彼は友人の店で、私は今のバイト先である喫茶店で、社員として働かないかと声をかけられ、お互いその誘いを快諾していた。就職活動に奔走する友人には羨ましがられるとこぼすと、俺もと彼はけらけら笑った。羨ましがられようと、疎ましいと思われようと、深く考えこんだりしないようだ。
カフェに就職か……まあ、内定ひとつってことで、他にもいろいろ探してみたら?
きっと善意で、友人にそんなことをいわれたこともある。私は私なりにたくさん考えて決めたのに。納得もしていて、楽しみでもあるのに。そんな言葉を飲みこんだことを覚えている。
それに比べて彼は、笑うだけだ。
きっと彼が就職活動をしていたとしても、羨むような発言や、案じるような発言は、しなかったのではないかと思う。ふうん、と事実を受けとめただけの返事をするか、または、何か冗談でもいってからからと笑うのではないか。
期待しすぎだろうか。突然の同居人だ、いろいろと自分に都合のいいようにとらえているだけかもしれない。
それでもいい。結局はそんなところに着地する。
「俺たちの休みが被るのは土曜日だけね……今日が土曜日でよかった。みのり、あのさ、嫌なことは嫌っていおうね。干渉されるのが嫌とか、されないのが嫌とか、バランスあるじゃん。それを、細かいことでも伝えてくれると嬉しい」
「秀、誰かと暮らすの初めてじゃないでしょう」
このとき初めて、彼の困った顔を見た。
触れられたくなかったことだったかもしれない。思いついたことをすぐに口にしてしまったことを恥じた。
「ごめん」
「いや、俺こそ」
彼は困った表情のまま、小さく笑った。
「隠しているわけじゃないけれど、いわなくていいかなとも思って。実家に帰る前は、同棲していた、というか、俺が勝手に恋人の家に住みついて、別れたから追いだされたって感じ。そのときの反省を踏まえて……」
「そのときは、嫌なことは嫌って、いえなかったの?」
「俺じゃなくて相手がね」
ごめんともう一度謝ると、別に嫌な思いはしていないよ、と彼は私をのぞきこんだ。
嫌なことは嫌、か。
「そこまで相手に近づいたことがない」
「ん?」
「いや……秀は、すごいと思うよ」
彼が目を細める。大学で、たまに遠目から見ていた、あの、冷たい目。綺麗な目。
こんなに間近で、独り占めしてしまえる日が来るなんて。
「みのりはいい子」
冷たい瞳に、柔らかな秋の日差しのような温かさが、ほんのりとやどる。
「私も、秀といると楽でいいよ」
何よりだ、と彼が笑う。瞳の中にいた冷たさはどこかに消えてしまって、少し惜しいとも思う。