2
「みのり、同じ学科だよね?」
彼は、リスのようにホットケーキを頬張っている。
「そうだよ。授業もかぶっているよ」
「話したことは、あんまりないよね」
「挨拶ぐらいじゃないかなあ」
結局ホットケーキは、二人でつついて食べることにした。彼が最近見た映画で、そういうシーンがあったのだという。古い映画で、恋人たちの初めての朝食だったというから、どういう意味でいっているのかとも思ったが、彼はただ純粋に、好きな映画のあこがれのシーンについて話しているだけだった。
「なんでみのりは、よくも知らない俺を、泊めてくれたの?」
「困っていたから」
「俺が家を追いだされた話、知っていたの?」
「……大声で話していて、聞こえた。ごめん」
なるほどねえ、と彼はホットケーキを飲みこんだ。
昨日の夕方、講義が終わってすぐ、彼の友人が大きな声でいったのだ。ええ、お前、家を追いだされたの! 何事かと周りにいた人が振りむく中で、そうなんだよと秀は笑っていた。駅前の二十四時間開いているファストフード店で時間をつぶす予定だという。
大学のすぐ近くにあるカフェでのバイトが終わった後、私はまっすぐ家に帰ろうとした。駅の改札を通ろうとしたところで、視線の隅に、ファストフード店の看板が見えた。
そんなわけは、と思いながら、踵を返していた。
二階の隅っこの席に彼はいた。目の前に小さなカップが置いてある。スマートフォンをいじっている。その目は、ひんやりとしている。
その冷たい視線が、初めて、悲しさをはらんでいるように見えた。
心臓がばくばくと鳴っていた。彼は私に気がついていない。このまま帰ってしまえばいい。放っておけばいい。どうにかなるだろう。そういう思いはもちろんあった。声をかけたところでどうなる。何もできないだろう。そうも思った。
それでも私は、彼をそのままにしておけなかったし、解決方法も知っていた。
狭い通路を縫うように進みながら、彼に近づいた。私が隣に立っても、彼は興味を示さない。
「ねえ」
突然声をかけたのに、彼は落ち着いたものだった。視線を私に向ける。少し、冷ややかに。
「ん? あ、こんばんは」
「こんばんは。本当に泊まるとこないの」
「うん、親と喧嘩して、出ていってやるとかいったら、マジで出ていけっていわれた」
「あのさ、私の住んでいるところ、部屋がふたつあるのね。ひとつ空き部屋なの。つい最近空き部屋になっちゃったから」
彼の目が、少しだけ見開かれた。その目が語っていることを、私はすぐに読みとった。
それ、どういう意味?
私は慌てた。
「ただの善意」
額がじんわりと熱くなる。今更になって、下心ありだと思われても仕方がないことに気がつく。もしかしたら、私よりも前にこうやって彼のことを誘って、どうにかなろうとした人がいたかもしれない。
消えてしまいたいほど恥ずかしい。困っていたから助けたい。ただそれだけなのに、どうしてこうも難しいのだろう。
「本気……」
私の言葉を繰り返した彼は、にこりと微笑んだ。
「……だね。本気だよね。わかるよ」
わかってくれた。そこで彼の言葉を疑ってもいいと思うけれど、彼もまた、本気だと思った。ほっと胸をなでおろしたところで、彼が立ち上がる。私が思っていたより、背が高かった。私の鼻先に、彼の顎がある。
「すごくありがたい。お言葉に甘えます」
頼れる人、いなかったのかな。あんなに、人に囲まれてるのに。
「俺、友達多いけれど、今晩泊めてっていえるような関係の人はひとりしかいなくて。そいつに連絡はしたけれど、知るかって断られたところだった」
私の心を読んだようにそういって、彼は困ったように笑った。
「何かにつけてもう二十三になるんだから、って親がいうんだよ。俺の同級生は、就職して、独り暮らししてる人も多い。俺は浪人生だからまだ大学生だけれど、俺と同じように、この歳で勉強している人だって山ほどいる。でも、親は、就職して独り暮らししている奴らが普通だと思っている」
「普通」
私が顔をしかめると、いい表情だと褒められた。
「最近そういうことを親からよくいわれるようになって、じゃあいいよ、独り暮らししてやるよ! って叫んだら、やれるものならやってみろ! って」
「じゃあ、追いだされたっていうか……」
「正確には、出ていった。それで、帰れない」
「プライドは大事です」
だよね、と、彼はホットケーキを頬張る。私も食べる。甘くて、おいしい。
「このまま帰ったら、かっこ悪いじゃん」
「まあ、気持ちはわかる」
「だから昨日は助かったよ、本当にありがとう」
「これからも住めばいいじゃん」
いってから、あ、と思ったがもう遅い。私の提案に、彼の目はまた、少しだけ見開かれる。昨日の夜と同じような表情だ。笑ってしまう。
「安心して、昨日と同じ意味での提案だから」
「みのり、マジでいってるでしょ」
私はいつでも大まじめだ。
「さすがにこの大きさの家にずっと住むのは、家賃的にも広さ的にも無理。親はさ、妹が出ていっちゃったから、お姉ちゃんごめん、妹の家賃は出すよっていってくれているんだけれど、それもなんだかね。でも、引っ越しするのもお金がかかる。さてはて、と思っていたところだったし……」
ホットケーキの甘さは、金木犀の香りに似ていると思った。優しく、私を包みこむ。
「いいの、俺で」
「ウィンウィンでしょ」
最近覚えた言葉を使ってみる。彼は、目をぐるぐるさせている。
「俺を信用しすぎじゃない?」
「どういう意味?」
「いや……わかんないけれども」
わかんないならいいじゃん、と、最後の一切れに手を伸ばす。私がそれを口に入れて飲みこんでしまう頃には、彼も決意したようで、ま、いいか、と笑っていた。
私はここでひとつ、彼に確認すればよかったのだ。
ただ、私たちはよくても……——。
少しだけ、その言葉は浮かんだのだ。それでも、私は飲みこんでしまった。
彼と暮らせることが、純粋に嬉しかったから。偶然拾った綺麗な石を、そっとポケットにしまう子どもが抱くような喜びを、たった一瞬のものにはしたくなかったのだ。