13
混乱した。どうして。家に戻ろうか。でも、前に進みたい。どうして邪魔をするのか。私はなんていうのが正解なのか。
「よかった」
なつ子がほっと、胸をなでおろした。何がよかったのだろう。
「みのり、ごめん」
「……どうしてなつ子ひとりじゃないの」
本当にききたいのはこんなことではないはずなのに、私はそんなことを問うている。
「俺? 君の彼氏に元彼女を取られた人」
「そうだったの?」
訊ねたのは、私ではなくなつ子だった。大きな目をさらにひん剥いている。
「そうだよ」
「順番は守ったでしょ」
私は、静かに、名前も知らないその男に話しかけていた。
「順番?」
「あなたがまず元彼女にふられて、それで、秀とあなたの元彼女はつきあったんでしょう」
私の言葉に、男は黙った。その通りだったようだ。
「そうなら、それは、取ったとはいわない。秀は悪くない。浮気を促したわけでもない。彼は、恋人のいる女性をたぶらかしたりしない」
「女って、恋人の過去の恋愛話なんて、したがらないのかなって思っていたけれど」
「私の話? 私はそもそも、秀の恋人じゃない」
声が震えていた。なぜかはわからないけれど、私はしっかりと、前を見据えて、名も知らないこの男と、対峙しなければならないと思った。
秀を守らなければ。
「一緒に住んでいるのに?」
「一緒に住んでいたら恋人になるの?」
「不健全だろ」
「あなたの想像力が不健全なだけでしょう」
何を、と男が目を吊りあげる。もうやめてよ、となつ子が半泣きで男を止める。
友人として、なつ子に忠告をしようかな、とのんきなことも考える。彼、あんまりいい人じゃないかもよ。
そこではっとする。そうか、なつ子はこんなふうに考えていたのか。そして私に話してくれたのか。秀はやめた方がいい、と。
だとしたら。
「なつ子。今やっと、なつ子の優しさがわかったよ。私と秀を遠ざけてくれようとした優しさが。今度、秀と話してみるといいよ。秀に対するイメージだけで、話したことはないでしょう。いいやつだから。人の恋人をとるような真似は絶対にしない、芯の通った男だから」
なあー、と男が首の骨をならす。
「俺のこと、無視しないでよ」
「名前も存じませんけれど、あいにく秀は不在です。なにか彼に文句があるなら、直接お話されたらどうですか」
「不在なのか。ちょうどいいや」
背丈の大きな男が、ずい、と歩み寄ってきた。
「え?」
ずい、ずい。三歩で、目の前だ。
「ちょっと、何するの!」
なつ子の叫び声と、目の前の彼が微笑むタイミングが重なった。身の毛がよだつ。
「何ですか」
「俺とも友達になろうよ、みのりちゃん」
「お断りします」
何を考えているのかわからない。にたにたと、彼は笑っている。
「何でだよ」
彼の大きな手が、ゆらりと動いた。反射的に、手をつかまれると思い、後ろに下がった。
長い手が、私の腕を狙って伸びてくる。やだ、と叫んだ。
「おい」
私の腕を目の前の男がつかむ直前。
男の後ろ側から、声がした。
秀だ。
「何しているんだ」
ゆっくりと、歩いてくる。
冷たい、射るような視線と共に。
優しい秀は、どこにもいない。
「お前だよ。何しているんだって、聞いているんだ。答えろよ」
「何もしてねえよ」
男が叫ぶ。
「うるせえな……だいたい誰だお前」
「松丸……お前の元彼女の元彼氏だよ」
「あ? 複雑だな……俺に何の用事だよ」
「俺の女を取った挙句、すぐに捨てたやつが、同棲まがいのことをしてるっていうんで見に来てやった」
「そんな性格だからフラれるんだろ」
男の真横に、秀が立った。大きな男だと思っていたけれど、秀の方が背が高い。
「まずはその手を降ろせ。みのりから離れろ。俺のこと殴ったり蹴飛ばしたかったりするなら、すればいい。それで気がすむのなら、どうとでもしろよ」
男は静かに手を降ろして、体の向きを変えた。秀のことを、正面からにらみつけている。
「やめてよ」
「なつ子は黙ってろ」
「ねえ、着いてくるだけっていったじゃん、嘘つき!」
つかみかかったなつ子のことを、男が振りはらった。なつ子の軽い体が、跳ねとばされる。
「なつ子!」
私が叫ぶ前に、秀がなつ子の体を支えていた。
「大丈夫? 離れてなよ、危ないから」
秀が、静かになつ子に話しかける。なつ子はこくこくと小さくうなずいて、いわれたとおりに何歩も後ろに下がった。
「そうやって優しくして、何人もの女をたぶらかしてきたってわけか」
男がせせら笑う。
「人聞きが悪いな。俺は真剣に付きあったよ。その期間が短いことと、軽薄さをイコールで結ぶなよ」
「ミカもそうやって捨てたのかよ」
「ああ、ミカちゃんの。確かに彼女とはすぐに別れちゃったよ……つきあうと同時に一緒に住んでね……やっぱりしばらくは一人がいいって、俺がふられた。短い期間だったけれど、君の話も聞いたよ。怒るとすぐに叫ぶんだろ? 穏やかに生きなよ」
挑発だ。やめてよ、と叫びたかったけれど、怖くて声が出ない。さっき飛びだしていったなつ子のすごさを痛感する。
うるせえな、と男がぐっと拳を握った。
あ、と私の口から声が漏れた。
握った拳を、男が後ろに引く。
殴る気だ。
「やめて」
私の声はか細い。男の叫び声にかき消される。
殴られる。
ぎゅっと目をつむってしまう。暗闇の向こうで、バキ、と痛々しい音がする。なつ子の叫び声が聞こえる。目をつむってしまったことを後悔する。
「秀!」