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律太さんと、夜中の二時まで語らい、そろそろということで私は自室に戻った。律太さんはどこで眠るのだろうかと心配になったが、秀を適当に端に寄せてベッドで寝るのだそうだ。確かに秀の部屋にあるベッドは少し大きめのものだったので、なんとか二人で横になれそうだ。
次の日は、私が一番に起きた。アラームの音で目が覚める。八時。今日は二限にゼミの集まりがある。いつもより睡眠時間が少ないが、きつくはない。
秀は午後一の講義を受けていたはずなので、昼過ぎまでは寝るのだろう。律太さんにはあらかじめ、俺らのことは放っておいていいからといわれているので、そのお言葉に甘えて、二人を起こさずに家を出た。
ゼミでの集まりは研究室の隣にある小さな部屋で行われる。私が部屋に入ると、一人だけ先客がいた。なつ子だ。
おはよう、と私がいい終わる前に、なつ子は血相を変えて立ちあがると、私に歩みよってきた。
「ねえ、大丈夫なの」
「何、どうしたの」
「松丸君と一緒に住んでいるの?」
驚いた。声も出なくなってしまう。なつ子が畳みかけてくる。
「それとも違う人と住んでいて、その人が松丸君の友達? 家に来るような仲なの?」
「ちょっと待って、何いっているの」
「彼氏からきいたの。確かに見たって。昨日、駅で、三人で夜中に歩いていて、そのままみのりの部屋に入っていくところを」
なつ子の彼は、どうしてわざわざ私たちの後ろをついてきたのだろうか。どうしてなつ子にそれを伝えるのだろう。何のために?
「後で、ゆっくり話そう。お昼休みに」
私の提案に、なつ子は少しだけ考え、わかった、と頷いた。
なつ子の席から少しだけ離れたところに座った。
頭の中は情報のバケツをひっくり返したように散乱していた。そこにあるたくさんの悲しみを、確かに感じとっていた。
落ち着け、私。悲しんでいる場合じゃない。相手の主張を聞かないと。
食堂にあるパン屋で、私たちは向かいあって座った。私の目の前にはメロンパン、なつ子の目の前にはクロワッサンがあるが、どちらも手をつけようとはしない。
それで、と先に口を開いたのは彼女だった。
「あのさ……松丸君と一緒に暮らしているのなら……」
「私が秀と一緒に暮らしていたら?」
彼女が目を大きく見開く。
「本当なの?」
「私の質問に答えてほしい。私と秀が、仮に一緒に暮らしていたら?」
「松丸君の噂、知らないでしょ? とっかえひっかえ、女の子の心をもてあそんでさ」
「例えば誰? 私、知らないんだけど」
彼女は大きな目を左右に揺らして、ひとりは……とつぶやいた。どうやら実名を把握している人物がいるようだ。
「その子は、秀にひどいことされたの? 秀がだましたり、二股かけられたり……たぶん違うよ。つきあって、別れて、その期間が短かった。ただそれだけじゃないのかな」
彼女が、ううん、とこめかみをおさえる。
「そうかもしれない、そこまでは知らないけれど……でも、皆傷ついている」
「秀だって傷ついているよ」
彼女が黙る。私も黙る。
彼女は、そうじゃなくて、と言葉を選んでいる様子だ。
「えっと……でも、男の子二人も家に呼ぶのは……」
「何を想像したのかなあ」
彼女が、なぜか泣きそうな顔で、私を見つめ、震える声で、言葉をつむぐ。
「私、彼から、みのりが男の子ふたりと駅にいたよってきいたの。一人は松丸君で、もう一人は金髪の、ピアスもネックレスもじゃらじゃらつけてる人で……そんなの、みのりからは想像できないから……」
「なつ子の彼氏、私の家までついてきたんでしょう? どうして?」
「……それは……ごめん、まだいえない」
「そう……あのね、私は秀とは友達だし、金髪の人とも友達。ただ三人で楽しく家で飲み会していただけ」
脳みその奥がじんじんする。
「何も悪いことしてないよ。考えてほしいんだけれど、なつ子は、もてる女の子と、見た目がちゃらちゃらしている女の子をつれて私が歩いていたって噂をきいたら、ふうん、で終わっていたんじゃないかなあ。男女だからいけないのかなあ。女性同士ならすべて友情なのかなあ」
どうして、目の前にいる彼女が、泣きそうなのだろう。
私の方が、ずたずたなのに。
「放っておいてほしいのにな」
これ以上話すと、泣きわめいてしまいそうだ。
私は席を立ちあがり、バッグを手に取り、店を出た。
気分が悪い。おかしくなりそうだ。
大股で駅に向かって、そのままバイト先に向かう。少し早い到着に店長が珍しいねと驚いていた。店内を見渡すと、私の心の内なんて少しも知らないお客さんばかりで、当たり前のことに少し心が落ち着く。じっとしていても苦しいだけなので、店長にお願いして早めに入らせてもらう。
いつも以上に脳みそを使って仕事をして、それでも合間合間に思い出してしまって辛くなり、それを出さないように必死になりながら接客をし、疲労困憊の状態で店を出た。
帰宅すると、玄関の電気だけがついていた。
いつもこうだ。秀が私より後に出て、私より遅く戻ってくるときは、あらかじめ、玄関の電気だけをつけていってくれているのだ。
私は電気を消して、真っ暗な中部屋に戻り、ベッドに倒れこんだ。何も考えたくなかった。体力的な疲れがあったのだろう、すぐに眠ってしまった。
真暗の中、目が覚めた。扉の向こうから、チチチ、とコンロで火をつける直前のかわいらしい音がする。秀が帰ってきているのだと知り、私はのそのそと扉を開ける。
「秀、ただいま、おかえり」
エプロン姿の彼は、振り向かずに「おかえり」と返事をする。
「みのり、体調悪いの? それとも機嫌が悪いの?」
「機嫌。悲しい」
彼が振り返る。
「原因は俺? 昨日すぐ寝ちゃったから?」
「違う。昨日は楽しかったよ。ありがとう。悲しい原因は友達」
彼が黙ってうなずいたので、聞いてくれるのならとすべてを正直に話した。
相槌を打つだけだった彼は、全ての話を聞き終えると、なるほど、と腕を組んだ。
「このままじゃ、俺のせいで友達なくしちゃうじゃん」
予想外の返答に、ぎょっとする。違うと否定する前に、秀がエプロンを脱ぎはじめて、言葉を失ってしまう。
「それはだめだよね」
エプロンを手際よくたたんで、ゆっくりとした所作で棚にそれをしまう。
「秀、何考えているの」
「いったん出ていく」
「なんで?」
「みのりが大切だから。お友達も、みのりが大切で、心配だからそんなこといってきたんでしょ。すごい勇気じゃん。いい友達だよ、大切にするべきだよ」
秀は、このときが来るのを、ずっと前から予感していたのかもしれないと思った。彼がそんなことをいいだすなんて、夢にも思っていなかった私とは大違いだ。賢い秀。まぬけな私。
「私のことが大切ならいてよ。誰かに何かいわれたからって、じゃあおしまいって、そんなの嫌だよ。だから秀にも話したんじゃない、今回のこと」
「わかるよ。でも、俺とみのりが一緒に住んでいることで、みのりの大切な友情を壊してしまうのなら、話は別。みのりと俺が友達じゃなくなるわけじゃないんだから」
泣かないの、と秀が変なことをいう。私は泣きそうなのだろうか。
「みのりはその子と仲直りすること。俺たちの同居については、その後考えようね」
彼が手際よく荷物をまとめて、じゃあと家を出ていってしまうまで、私は何もいえなかった。
涙ひとつもこぼれなかった。