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彼を家に泊めた。困っていたようだったから。
一人暮らしには広すぎる、2DKの一部屋。私の部屋の隣。三週間前まで妹が住んでいたけれど、恋人と一緒に暮らすのだと出ていってしまった。お姉ちゃんごめんね、寂しいと思うけれど。去り際にそういわれ、平気だとはいったものの、妹が出ていった家は思っていたよりも静かだった。寂しさを紛らわすように、妹が置いていった家具はそのままにしていた。小さなテレビ、新品に近いベッドと、丸机にクッション、ビーズがたくさん入ったソファ。かけ布団も置いていったので、少し寒い秋の日でも、問題なく人を泊めることができた。
次の日の朝、彼は私より早く起きていた。
「おはよう。金木犀の香りがすごいね」
そういって、手にしているフライ返しを窓に向けた。キッチンにある小さな窓が開いている。確かに、金木犀の香りが部屋中に広がっていた。今更そのことに気がついたのは、彼が私の家にいたことに、驚いていたからだ。
彼を泊めたことなど、すっぽりと頭の中から抜けていた。
旅行をした日の朝、目が覚めて、どこだかわからなくなるような、小さな混乱に似ていた。もちろんすぐに、そういえば彼を泊めたのだったと思い出し、平然を装いながら、私は「そうだねえ」とのんきに答えることができた。
彼の切れ長な目が、静かに微笑む。
彼の目を、美術品を見るときのような気持ちで眺めた。美しい目だ。大学で彼を見かけるたびに、私は彼の目を追いかけていた。その目は笑っていることが多かったけれど、授業中にホワイトボードを見ていたり、購買で文房具を選んでいたりするときの目は真剣そのもので、私はそんなときの彼の目が特別に美しいと思っていた。
対峙しているものと真剣に向きあっているはずなのに、さして興味がないような、うらはらな目だった。
どこか静かで、冷酷な気配のある視線。柔らかな笑顔からは想像もできないような、特別な冷ややかさ。
そんな美しい目を持つ彼を表現するには、格好いいというより、色気があるという方がしっくりくる。
私はそんな彼を、家に泊めたのだった。
「勝手に冷蔵庫開けちゃった。ホットケーキ作ったけど、いる?」
昨晩、私のスウェットを貸すという提案が却下されたため、彼は昨日の格好のままだった。細身のジーンズは寝づらそうにも思えるけれど、昨日の晩はゆっくりと眠れたのだろうか。
「松丸君……あの……」
訊きたいことがたくさんあったけれど、うまく言葉にならない。
「秀でいいよ、秋山さん。俺はなんて呼べばいい?」
私は緊張して、松丸君と名字をよぶだけで精一杯なのに、彼はさらっと、私の名前を口にする。しかも、秀だなんて親しそうな呼び名を提案してくる。
「……みのりでいい」
「みのり、ホットケーキ食べる?」
彼の距離の詰め方は独特だった。まるでずっと前からの友人のようだ。その態度が不愉快でも愉快でもないのが、不思議だった。当たり前のように、彼は私に近づいてくる。当たり前のように冷蔵庫を開けて、当たり前のようにホットケーキミックスと卵と牛乳とバターとフライパンとフライ返しとコンロを使って、お皿を出して、ホットケーキを作ってくれる。
「ありがとう、ホットケーキ好き、食べたい」
「オッケー。すごいんだよ、二段重ね。メープルあったでしょ、カナダの。お土産?」
「友達が、この前行ったんだって。彼氏と一緒に行って、けんかして、腹が立って、気晴らしに目いっぱい買ったんだって」
「旅先のけんかか、よくあることだね。ホットケーキに合いましたって、伝えて」
ほら、と彼がホットケーキを見せてくる。メープルシロップがたっぷりとかかった二段重ねのホットケーキは、朝の光をうけてきらきらと輝いていた。
「そっちの……秀の部屋に、クッションふたつと机があるから、よければそこで食べよう。前までさ、妹が住んでいたんだ。一緒に食べるときは、そうやってそっちの部屋で食べていたんだよ」
「俺も食べていいの?」
彼がきょとんとした表情でいった。私もきょとん、だ。
「作ったのに、食べないつもりだったの?」
「泊めてもらったお礼で、作った」
不思議な人だ。名前を呼びすててぐっと近寄ったと思ったら、今度は少し遠慮がちだと思わせるような、そんな絶妙な距離をとってくる。スウェットを貸す提案は断り、作ったホットケーキを食べるつもりがないように。
なぜだかとても、心地いい。不思議な気持ちだ。
「一緒に食べよう。半分に切るよ」
「一枚ずつじゃなくて?」
「せっかく二段に重ねてくれたんだから」
それはいいね、と彼は笑った。いつもの笑顔だ。