七話
その日は久し振りの冬晴れで、昨夜まで続いた吹雪が嘘の様な穏やかな空だった。里の者達の多くは自分の家の雪掻きに精を出し、それぞれ親しい者達の家を周っては新年の挨拶を交わしている。
里は『黒鉄』を見つける事の出来ぬまま、年を越し、新たな年を迎えていた。
「里にいる時には迂闊に鬼の姿に戻るなと何度も言っているだろう!」
さえは椿を一輪手にした黒鬼を睨んで叱りつけた。
さえが受け取らない事を分かっているので、黒鬼は床の上にそっと椿を置いてから、黄金色の瞳を細めて言った。
「誰ぞ来たら我には気配で分かる。」
「そう言う事を言っているのでは無い!」
さえが尚も言い募るのを、黒鬼は肩を竦め、やれやれと言う風にしてタロの姿へ変わった。
さえはその黒鬼の態度に更に腹を立てたが、もうこれも何度と繰り返された事なので諦めるより他に仕方ない。
黒鬼がさえに妻問いをした翌日からこうなのである。
初日に椿を差し出した黒鬼に対し、さえは最初、『黒鉄』に関する何かがその椿にあるのかと思った。
さえの中では、前日の黒鬼の妻問いをすっかり無かった事にしていたのだ。
だが、口の端を上げて笑った黒鬼の言葉に、さえの顔は盛大に引き攣った。
「我の母が言うには、妻問いには相手に花を贈るのが礼儀なのだと」
以来、黒鬼は椿を差し出す時にだけ、わざわざ『移し』を解いてタロから元の鬼の姿に戻り、さえに妻問いを続ける様になった。
吹雪の日でもふらりと何処かに出掛けたかと思うと、帰ってきたその手には必ず一輪の椿があって、それが年を越した今日も続いている。
さえは床の上に置かれた椿を苦々しく見つめ、暫しの逡巡の後、溜息を吐きながらそれを手にすると水屋の片隅にある桶の元へと向かった。
水の張ったその桶には、さえの思いとは裏腹に、溢れる程の椿が美しく生けられている。
決して黒鬼からは受け取らないが、だからと言って簡単に捨ててしまう程、さえは情の無い女でも無かった。
そんなさえの背中を、黒鬼はタロの姿で面白そうに眺めていた。
朝から黒鬼を叱りつけ、さえが腹立たしい気持ちで雪掻きをしていると、庄吉が雪道を歩いて来た。
「さえ、雪掻きの手伝いに来たぞ」
「あけましておめでとう、庄吉さん。助かるよ。」
「ああ、おめでとう。何、吹雪も随分と続いたし、男手が必要だと思ってな。」
庄吉は白い息を吐きながら、にんまりと笑った。
庄吉はさえの父親の佐一と幼馴染であり、昔からさえを可愛がってくれていたが、やはり『黒鉄』を前にして又吉を置いて逃げてしまった事が後ろめたいのだろう、あれ以来、何かとさえを気に掛ける様になった。
「そう言えば、嘉助の奴が仲間を引き連れて山に入って行ったぞ。何かあれば直ぐに里に戻れとは言っておいたが、あいつら若い連中は妙に血の気が多くていかん。」
「そうか、嘉助が…。」
「さえ、おまえさんも人の事は言えんぞ。狩に対して冷静に判断する半面、おまえさんは頑固なところがある。気を付けろよ。」
庄吉の言葉を曖昧に笑って誤魔化し、さえは雪掻きを続けた。
庄吉もそれ以上は何も言う事は無く、さえを手伝い、粗方雪を退けた頃には昼を随分と過ぎてしまっていた。
「ありがとう、庄吉さん。お礼に昼餉を一緒にどうだい?」
「それは良いな、と言いたいところだが、これから他にも寄る所があるんでな、またの機会によろしく頼むよ。」
笑って手を振る庄吉に、さえも手を振り返した。
青い空に雁の群れが、北に向かって飛んで行くのが見えた。