六話
狩猟小屋の中、無言でさえは鉈を研ぎ続けた。
黒鬼がこれから何を言い出すのか知らないが、さえは無言を通すつもりだ。
「さえ、我に名を与えてはくれまいか?」
「おまえ、名が無いのか?」
しかし、先程の妻問い云々の戯言から続いた全く脈絡の無い言葉に、さえは思わず応えてしまった。しくじったと思いはしたが、疑問にも思う。
そもそも半月共に暮らしているが、タロの名を呼べど黒鬼の名を呼ぶ必要も無く、知りたいとも思わなかった。
だが、鬼界とやらからやって来たのならば、当然、その場所は鬼の住む場所であり、この鬼にも呼び名はあるのではないか。
黒鬼は頷き、さえを見やって言った。
「親の付けた名ならある。だがそれは伴侶が現れるまでの仮の名だな。伴侶に名を与えられて初めてそれが我の真名になる。」
結局、戯言の続きだったのかとさえは溜息を吐いた。
こうなれば、鉈研ぎは中断せざるを得まい。さえに取って、話が物騒な方向へ向かっている。
「仮の名は何と言うんだ?」
「一鬼と言う。鏑鬼の一鬼、鏑鬼が氏の様なもので、その家に産まれた一人目の鬼だから、一鬼だな。仮の名は何れ呼ばれなくなる故、何処の家も大概、子供には一鬼と名付けるが、それを区別するのに氏と合わせて呼ばれる事が多い。」
鬼が門を渡るのは妻問いの為であり、その生涯で門を往来する事が出来るのは一回限りの事。
門を渡った先で妻と決めた者から名を与えられると婚姻が結ばれる。
その後、再び伴侶を連れて門を渡り二人で鬼界で暮らすか、残って人間界で暮らすのか選択する事が出来るのだが、その場合、鬼界に人間が渡れば鬼へ、人間界に鬼が残れば人間へと体が造り変わり、寿命もそれに応じたものになる。
鬼の婚姻とは、やはり人間のそれとは遠く離れたものだった。
「私はおまえに名を付けるつもりは無い。」
「我が人に非ざる者だからか?」
黒鬼がその黄金色の瞳で真っ直ぐにさえを捉えた。それは嘘や誤魔化しを見抜く様な真っ直ぐな眼差しだった。
だから、さえもその目を逸らさずに答えた。
「…誰の元にも嫁ぐつもりはない。私はこれから先、一生独りで狩人を続けるつもりだ。」
さえを欲しいと請われても、さえの花嫁姿を見せたかった人はもういない。
狩人として厳しく育てられたが、それでもその人は不器用な愛情をたくさん与えてくれた。
二人っきりの家族だったのに、さえはそんな祖父を見捨てて逃げ出したのだ。
逃げたさえに、また家族を持ち、愛し、愛される事なんて許される筈が無い。
「…だとしても、我はおまえを妻に欲しい。『黒鉄』との決着を着ける事が先ではあるが、これからはしっかりと口説かせて貰うので覚悟しておくのだな。」
黒鬼は黄金色の瞳を細め、口の端を上げた。
そうして、さえの返事も待たず、再びタロの姿に変わると、それ以上は何も言わずに身を伏せた。
「馬鹿な事を…」
呆気に取られて呟くさえに、タロが一度だけ尾を振った。
その仕草はやはり本物のタロの様であり、女を口説くのとは程遠いものであったので、さえは黒鬼に揶揄われたのだと思う事にした。
だが、この翌日から、さえは毎日黒鬼から椿を一輪贈られる様になり、その度に顔を引き攣らせる事になったのである。