五話
山の中腹に建てられた狩猟小屋には、薪の貯えと狩猟の為の予備・備品、何かあった時の為の薬が備えられている。さえは狩猟小屋に入ると備蓄に足りぬ物が無いかの確認を細かに行った。
実はこの狩猟小屋は、黒鬼がこちらに来て『黒鉄』と遣り合った後、妖力が安定するまで体を休めた場所でもあったのだが、その事に里の誰も気付いてはいなかった。
「ここでおまえの姿も見かけた事があるぞ。」
揶揄い混じりに言った黒鬼の言葉に、さえは自身の迂闊さを嘆いた。
気配には人一倍敏感であると自負していたが、どうやらそれを撤回せねばならない様だ。
惨劇の次の朝、再度組まれた討伐隊の中にはさえとタロの姿があった。
同じく生き残った庄吉もその場にいて、さえとタロを見つけると心配気に声を掛けて来た。
「さえ、無理はするもんじゃねえ、今日くらいは家にいて又吉さんを弔ってやりな…タロ、おまえ、生きてたんだな、俺はてっきり『黒鉄』の爪で腹を裂かれて死んじまったとばかり思ってたよ。」
「どうやら奴の爪では無く、腕で撥ね飛ばされたらしい。血飛沫が舞っていたので私も腹を裂かれたと思っていたんだが、怪我も無いし、あれは他の猟犬の血だったんだろうな。昨夜、じいさまの弓の欠片を咥えて戻って来たんだ。」
綺麗に前半の言葉だけを無視したさえに、溜息を吐きながら庄吉はタロの背中を擦ってやった。
そんな中、さえや庄吉がいる事に不満や不安を漏らす者もいたが、何せ人手が足りず、また『黒鉄』を実際に目撃している事が重視され、さえ達は討伐隊と共に行く事を許された。
まずは、さえ達の案内で討伐隊は『黒鉄』と対峙した場所へ向かい、惨たらしく殺された猟犬達の遺体を埋めてやった。
それから、山道を列となって『黒鉄』の足跡を辿ったが、渓流を前にその形跡は消え失せ、それ以上の追跡が困難となってしまった。
止め足を警戒しつつ、渓流を中心にして暫く辺りの探索を続けたが、やはり『黒鉄』を見つける事は出来ず、やがて今年初めての雪が降り始めた。
こうして、『黒鉄』退治は長期戦の構えを見せる事になったのである。
黒鬼がさえの元に来てから半月が過ぎ、さえも随分と黒鬼の存在に慣れてきた…とは言え、そのほとんどをタロの姿で過ごしているので慣れたとも言えるのだが。
黒鬼がさえに正体を明かしたのはタロの記憶を見たからだった。
さえが又吉の元でどの様に育てられ、どの様に育って行ったかをタロは今までその傍らで見ていた。
故に、『黒鉄』に襲われ逃げ帰ったさえが、例えその日、恐怖で震え、祖父とタロを失った悲しみに打ち拉がれたとしても、やがてその胸に宿るのは『黒鉄』に対する激しい怒りである事を黒鬼は分かっていたのだ。
「これは使えると思ったのでな。」
悪びれもせず黒鬼が言ったのを、さえは憎らし気に睨んだが、それは事実でもあった。
黒鬼に対して信頼や信用があるかと言えば否であったが、共通の敵を前にお互い利用し合っているのだと思えば人に非ざる者が側にいても案外気にならないものだなと、さえは思っていた。
狩猟小屋に置いている鉈に研石を当てていると、タロに化けた黒鬼が足元に寄って来た。
こう言う仕草はタロと全く同じであり、本物のタロはもういないのだと分かっていてもさえは複雑な気持ちになる。
そんなタロの顔を何事か思案する様に傾げて、黒鬼が言った。
「さえ、おまえは何処ぞに嫁ぐ当てでもあるのか?」
「何の話だ?」
手にした鉈で危うく指を切りそうになり、さえは慌てて研ぎを止めた。
「先程、庄吉が言っていただろう?良い男に嫁ぐのが最善だと。タロの記憶の中には許嫁の姿も見当たらなかったようだが、誰ぞ、好いた男でもいるのか?」
「…そんな事、おまえには関係あるまい。」
この鬼は突然何を言い出すのか…黒鬼に慣れてきたと思っていたが、やはりそれは勘違いだったかと、さえは溜息を吐いた。
そんなさえを見やり、黒鬼はタロの姿から本来の鬼の姿に戻って告げた。
「関係はある。我がこちらの界へ渡りし理由は、妻問いの為なのだから。」
ならば全く関係無いではないかと喉元まで出掛けた言葉は、口にするのも馬鹿らしくなり、さえは黒鬼を無視して鉈研ぎを再開する事にした。