四話
その黒い鬼が門を潜ったのは一月前の事だった。
黒鬼が潜った門の先はさえの里近くの山奥で、鬼界から無事に人間界へ渡った安堵から、黒鬼は周りに気を配る事を怠ってしまった。
それは黒鬼の背後から突如現れ、鋭い鉤爪を振りかざした。
黒鬼は咄嗟に身を躱し、腰に帯びた刀を抜いてそれと対峙したが右腕を爪先が掠め、瞬く間にその柄を赤く染めて行った。
黒鬼を襲ったのは、まさに黒褐色の化け物熊、『黒鉄』だったのである。
「奴と対峙した時に我はこの左角を折られた。無論、奴にも相当の手傷を負わせたが、門を渡ったばかりの我の妖力はまだ安定しておらず、奴を取り逃がしてしまった。」
黒鬼は折られたと言う角の痕に触れながら言った。
「それで、何故『黒鉄』退治に加わりたい?まさか、角を折られた事への復讐か?」
「いや、復讐では無い。奪われた妖力を取り戻したいのだ。」
「奪われた妖力?」
「左角が折れた時、我の妖力の半分が『黒鉄』に流れたのを感じた。角は元には戻らぬが、奪われた妖力は取り戻さねばならぬ。」
鬼の妖力は人間の理の外にある力であり、先程この黒鬼がタロの姿に化けていたのもその力の一つ『移し』と呼ばれるものである。
触れた者の記憶と姿を『移す』事が出来る力であるが、妖力が完全では無い為、今の黒鬼では触れる者が死者で無いと変化出来ないと言う。
「死者…では、やはり、タロは…」
「我がこの犬を見つけた時には既に息は無かったな。傷だらけの体で這いながらも壊れた主人の弓の元まで辿り着き、弓を口に咥えたのがこの犬の最後の記憶だった。」
さえは持っていた包丁を放り、黒鬼から又吉の弓を奪った。
それは血に塗れた握りの一部。又吉のものか、タロのものか…恐らくその両方の血液が、握り革にも赤く深く染み込んでいる。
「この犬の記憶と現状を見て推測するが、一月前に我が『黒鉄』に手傷を負わせた後、奴は菅野村を襲ったのだろう。そうして、人を食い、我から奪った妖力で傷を完治させた。とは言っても、奴に妖力を使いこなす事等出来よう筈も無い故、体内にある妖力が自然と宿主を護る為に治癒の力を発動させ、奴は驚異的な速さで回復し…その後、自分を狩る為に山に入ったこの里の討伐隊である狩人達を返り討ちにした…そんな処か。」
さえは弓を握り締め、黒鬼を睨み据えた。
黒鬼はそんなさえを一瞥し、続ける。
「だが、不覚を取ったとは言え、我と互角に遣り合った『黒鉄』に文字通り一矢報いたおまえの祖父は、確かに優秀な狩人だったのだろうな。」
黒鬼はまるで又吉の最期の雄姿を見ていたかの様に語り…事実、タロの記憶を見たのだろう、短く告げられた言葉には又吉の死を悼むものがあった。
「…っ」
さえは又吉の遺した弓を掻き抱き唇を噛み締めた。
鼻の奥にツンとした痛みを感じる。
「我が奪われた妖力を辿り『黒鉄』を追っていた処、あの山で大量の猟犬の死骸を見つけた。猟犬の死骸に食われた跡は無く、奴の姿も無かった。恐らく、奴も我の気配を感じ、獲物も食わずにその場から姿を晦ませたのだろう。…今後の事もある故、タロの体はここへ運んで来たが、残してきた猟犬達の死骸の周りには念の為、結界を張っておいた。一両日中であれば、奴や山の獣に死骸を荒らされる事も無かろう。明日にでも彼らを弔ってやると良い。」
「タロは!?タロの体は何処にある!?」
「表にある井戸の横に。」
さえは翔ける様にして外へ飛び出し、井戸の片隅に寝かせられたタロの遺体に縋りついた。
「タロっ!タロっ!!」
月明りに照らされたタロの腹には、さえが最後に見た通り『黒鉄』の爪によって裂かれた傷があった。
血に塗れた惨たらしい亡骸となったタロを、それでもさえは嘗て生きていた時の様に大切に抱き締めた。さえの目からは涙が止め処無く零れて行く。
「…おまえの祖父を取り戻してやる事は出来なかった、すまぬ。」
背中超しに聞こえた黒鬼の言葉に、さえはこの日初めて声を出して泣いた。
『黒鉄』に対する恐怖でも、又吉に対する後ろめたさでも無い。
祖父を想い、タロを想い、そして共に闘って犠牲になった猟犬達を想ったそれは、さえの心からの慟哭だった。