二話
さえの暮らす里は狩人を多く輩出する里として広く名を知られていた。
さえの祖父である又吉は、そんな里でも歴代の弓使いで、狩人達を束ねる役目も担い、里の者からも厚い信頼を寄せられていた。
又吉には一人息子の佐一がいて、佐一も又吉譲りの良い弓使いであったのだが、さえが四つの頃に流行り病であっけなくこの世を去り、母親はさえを産んだ時の障りの為に既に亡くしていたので、さえは又吉によって育てられる事になった。
女童らしい遊びもせず、何かと又吉に付いて周ったさえが面白かったのか、又吉はさえに弓を与えた。
すると、天賦の才か、血の成せる業か、さえはめきめきと弓を覚え、狩を覚えた。
そうして、さえが八つになる頃には又吉がさえを連れて狩をする程の腕前へと育っていた。
「又吉さん、菅野村の奴らがどうやら『黒鉄』に食われちまって村は壊滅状態らしい」
引き戸を潜り、笠を取った次郎が囲炉裏でゆがけの手入れをしていた又吉に告げた。
さえは、次郎の足を拭うのに桶を用意したが、次郎はそれを笑って固辞し、懐から銭の束を出してさえに渡した。
次郎は狩人達の代わりにこの里で獲った肉や毛皮を加工し、行李に詰めて周辺の里や村へ売って周る行商人である。そして、金子と共にこの里に有意義な情報を持ち帰ると言った重要な役目を担う人物でもあった。
「何?『黒鉄』は確か二年前に北の狩人達に追われて奥地に逃げたと聞いた筈じゃが?」
「それが奴め、奥地に逃げたと思わせて、あっちの狩人も通れぬ渓谷を下ってこっちの山に流れ着いたみたいでな、村の生き残り連中が殿様にどうにかしてくれって訴え出たんだと。」
「なら、この里に殿様から討伐命令が下されるな。次郎、里の連中に声を掛けて来い、『黒鉄』退治の話し合いをするとな。」
次郎は頷き、笠を被り直すと直ぐに出て行った。
「じいさま、村を襲ったのは本当に『黒鉄』だと思うか?」
さえは囲炉裏で思案顔の又吉に尋ねた。
「菅野村は小さいと言ってもこの国に取っちゃ、北の国への通行手段の要でもある。ある程度の兵力を随所に置いていた筈じゃ。それが、壊滅状態と言うんなら、そんな事が出来る化け物は『黒鉄』しかおらんじゃろう。」
又吉の言葉にさえはごくりと喉を鳴らした。
『黒鉄』とは北の地を根城にする全身黒褐色の巨熊の通り名だ。
性格は狡猾であり、狂暴。また、人の味を知った紛れもない人食い熊である。
まるで黒い鉄の塊のようなその巨体に、『黒鉄』に遭遇して運良く生き残った者達が付けた名前だった。
人を襲う熊の中でも『黒鉄』は抜きん出て凶悪であった。
北の地にある村や里が襲われ、多くの住人は食い殺されたらしい。
それが月日を重ねる毎に、より一層、凶悪で残忍な噂となって周辺諸国に広まって行った。
優秀な狩人を輩出するこの里にも、そんな『黒鉄』の噂は流れて来て、それと同時に、北の地から討伐依頼が二年前に一度持ち上がっていたのだが、現地の狩人達が甚大な被害を被りながらも何とか『黒鉄』を撃退した事により、その話も流れて終わった。
以来、『黒鉄』は北の地の奥地で身を潜め、ここ二年程は噂にも上らなかったのだが…
「まさか、この地に流れ着いていたとはな…」
又吉は手の中にあったゆがけに一度目を落とし、それからさえに力強く頷いて言った。
「じゃが、ここは狩人の里、地の利はこちらにある。奴がどんな化け物じゃろうが、儂らに狩れぬ獲物はおらん。必ず、ここを奴の墓場としてやろうぞ。」
それから、又吉の元には里の多くの狩人が集まり『黒鉄』退治の話し合いが行われた。
城からの遣いも直ぐに来て、討伐の際の報酬も告げられると、俄然、狩人達の士気は上がった。
何せ、又吉の言う通り、この里は狩人の里、自分達は優秀な狩人なのだから。
如何に噂の『黒鉄』と言えども自分達の敵では無い。
―そんな誇りと驕りがあったのだろう…
「さえっ!逃げろ!」
弓を折られ、全身を血塗れにした又吉が叫ぶ。
鉈を振り上げ『黒鉄』に立ち向かう祖父に背を向け逃げ出したさえの瞳は、さえを見て笑った『黒鉄』を確かに映していた。