一話
「―さえ、さえっ!」
風上から聞こえた嘉助の声にさえはふっと意識を浮上させた。
「見切りの最中に呑気に居眠りか?これだから女を狩に連れて来るのは嫌なんだ」
「…すまない」
苦々しい嘉助の言葉にさえは素直に謝罪した。
呑気に居眠りをしていた訳では無いが、確かに嘉助の言う通り、狩の最中に余所事を考えていたさえが悪い。
「まあまあ、嘉助、落ち着けって。さえも又吉さんが死んだばっかりで気落ちしてるんだろうて。…又吉さんは良い弓使いだったし、さえは女と言っても、その又吉さんの弓を一番に教わってるんだから、そう邪険にすることもなかろう。」
「庄吉さんはさえに甘過ぎる!さえは、又吉さんとは違う!いくら弓が上手かろうが、非力な女に狩はむかん!シジマ、行くぞ!」
嘉助はそう言うと、自身の猟犬であるシジマを連れて雪の山道を降りて行った。
「まったく、嘉助の奴は…。だが、あいつの言う事も一理ある。さえ、おまえさんが又吉さんの後を継いで狩人を続けるのは『黒鉄』のせいか?」
「それは…」
「それが理由なら、悪い事は言わん、狩人になるのは辞めておけ。」
諭す様な庄吉の言葉にさえは唇を噛み締めた。
そんなさえに庄吉は一つ息を吐くと、緩く頭を振って続けた。
「又吉さんが『黒鉄』に殺されたのは、さえ、おまえのせいじゃない。あの場にいた誰もが又吉さんを助けられなかったんだ。又吉さんの矢が『黒鉄』の左目を射抜いた時、俺達も一斉に矢を射掛けるべきだった。だが、逆上した『黒鉄』にその場にいた皆が足を竦めちまった。誰も動けなかった…いや、又吉さんを犠牲にして我先と逃げ出したんだ。」
庄吉の言葉にさえは俯き目を閉じた。
庄吉は、さえの肩に手を置くと慰めるように言った。
「さえ、確かにおまえさんは又吉さんが鍛えただけあって良い弓使いだ。うちの里にもおまえ程、早撃ちの出来る弓使いはいない。それに狩人としての資質も充分備わってる。この先、『黒鉄』を仕留める時に、おまえがいるのといないのとじゃ、大分戦況も変わるだろう。…それでも、俺達には又吉さんへの負い目もある。だから、おまえには狩人を辞めて、誰か良い男に嫁ぐのが最善だと思う気持ちもあるんだよ。」
「…じいさまは、そんな事思わないさ。」
「そうだな、又吉さんはさえを女だてらに一端の弓使いに仕立てたんだもんな。だけど、きっと心の中じゃ、おまえさんの花嫁姿を拝みたかったと思うぞ?」
さえは肩に置かれた庄吉の手を払い、顔を上げた。
「だとしても、このまま『黒鉄』を野放しには出来んだろう。奴のせいでうちの主だった狩人は傷を負い、里の猟犬の多くは殺された。戦力の足りない中、奴を倒すには奴が冬篭りしている今しか無い。冬を越し、春になればじいさまを食った『黒鉄』はきっと里を襲って来るぞ。その前に、奴の塒を見つけるのが先決さ。」
さえは手に馴染んだ愛用の弓を握り締め、庄吉を置いて雪道を登り始めた。
「おい、さえ!」
「庄吉さんは嘉助の後を追って先に里に戻っていてくれ。」
「おまえも一緒に戻れば良いじゃねえか」
「いや、私はもう少し山に残る。…安心してくれ、無理はしないさ。それに、そろそろ狩猟小屋の様子も見に行く時期だろう?ついでだから、行って来るよ。」
「まったく!言い出したら聞かんところは頑固な又吉さんにそっくりだ!…タロ、さえを頼むぞ。」
庄吉は又吉の猟犬であったタロに声を掛けると、嘉助の後を追う事にした。
「いいか、絶対に無茶するんじゃねえぞ!」
雪を駆けながらも念を押す庄吉に、さえは軽く手を振って雪道を登って行った。