十話
その場所には何も無かった。
さえの他に誰も何も存在せず、暗闇だけが広がっている。
手足が寒さで悴んでいる。寒くて、寒くて体が氷にでもなったかの様だった。
ふと、誰かに呼ばれた気がして、さえは暗闇の中で目を凝らした。
誰かは分からないが、確かにさえの名を呼んでいる。
さえは歯を鳴らし体を擦りながら、声のする方へと足を進めた。
何処へ続くかも分からぬ暗闇の中、声だけを頼りにして。
どれ位、歩いただろう。
突如、暗闇が一転して青い空が見えた。
「じいさま、見てくれ!私の初矢の獲物だ!これで私も一人前の狩人だろ?」
さえの喉から出た音は幼かった。
いつの間にか背も縮み、手足も短くなっている。けれど、不思議とそれが当然の様に思えた。
―ああ、そうか。私は今、子供の頃に戻ったのか…
足元にはさえが狩った牡鹿が転がっている。
「ふんっ、一人前にはまだ程遠いわ。じゃが、矢開きの獲物としてはまずまずか。」
又吉が鼻を鳴らしてさえに言う。
憎まれ口を叩きながらもさえを誉める又吉に、さえの心は温まった。
「ほれ、何をぐずぐず突っ立ってるんじゃ、直ぐに血抜きに取り掛からんか!」
又吉がさえの頭を小突いて、顎で指す。
さえは小突かれた頭を大袈裟に擦りながら唇を尖らせた。
「何も殴らんでもよかろう!今やろうとしてたところなのに!」
「だったら、一人前なのは口だけかと思われる前に、早くやるんじゃな。」
ジロリと又吉に睨まれて、さえは慌てて牡鹿に向かった。
「まったく、この跳ねっ返りが。おまえを嫁にする奴は苦労するじゃろうな。」
未だ女童の様子のさえには少しばかり早い話だが、何れさえも何処かに嫁ぐ時が来るだろう。
又吉が育てた事ですっかり粗野な娘へと成長してしまい、又吉はまだ見ぬ婿殿に軽く同情した。
「私はじいさまより弓が上手くて、狩が上手い奴に嫁ぐんだから、跳ねっ返りで丁度良いんだ。」
吊り上げた牡鹿の皮を剥ぎながら、頬を膨らませさえが言った。
そんなさえの様子に、又吉は片眉を上げる。
「なら、おまえの嫁ぎ先は里には無いわな。わしより上手い弓使いは里にはおらんからの。」
さえの頭に振って来たのは、又吉の大きな掌、又吉はさえの髪をぐしゃぐしゃと搔き回すと豪快に笑った。
さえも、そんな又吉を見て声を出して笑う。
―温かい…やっぱり、じいさまの手は温かい…
涙が頬を濡らして行くのが分かった。
青い空はまたしても一転して暗闇に戻って行く。
けれど、もうさえの体は凍えていなかった。
体中を温かい何かが包んでくれている。
涙を拭われ、そっと頬に添えられたものは、又吉の手と同じ温かさだった。
「さえ、さえ…」
呼ぶ声に導かれ、震える瞼をどうにか開ける。
そこには眉根を寄せて、さえを見つめる黒鬼の顔があった。




