九話
薄墨の空、雪の舞う天候で山の中へ入る愚行を知りながらも、さえの足は止まらなかった。
雪道には嘉助のものと思われる血痕が点々と繋がっていて、さえを迷う事無く『黒鉄』の元へと導いてくれる。
雪を蹴る足音だけが響く中、針葉樹林の先、崖へと続くその道にそれはいた。
真白い雪の道を赤々と染めて、辺りには誰のものかも分かぬ肉片が四散している。
骨を噛み砕く音と共に、黒褐色の山が振り返った。
爛々と光るその両の目はやはり開いていて…
「『黒鉄』…っ!!」
さえは怒りのままに矢を放った。
だが、その矢は強固な毛皮の前に弾かれてしまう。さえが知る『黒鉄』よりも更に化け物度が増していた。
「我の気配を感じても逃げずに姿を現すとは、余程、我の妖力が体に馴染んだ様だな。」
『移し』を解いた黒鬼が腰の刀を抜いて『黒鉄』目掛け走り出す。
さえは林の中に飛び込み、樹々の隙間から矢を放つ好機をうかがった。
黒鬼が放つ斬撃の雨を前にしても『黒鉄』の蹠行は止まらず、逆に足の止まった黒鬼に、後肢で立ち上がると鋭い鉤爪を振り上げる。
黒鬼はその一撃を躱し、雪を蹴ると『黒鉄』の頭上を飛び越え、頸部への突きを入れた。
『黒鉄』の首から血飛沫が上がり、黒鬼の刀が赤く染まった。
「やったか!?」
矢を番え、『黒鉄』に狙いを定めていたさえは、黒鬼の刀が『黒鉄』の急所をついたと思った。
しかし、本来なら致命傷である筈の傷を物ともせず、『黒鉄』は咆哮を上げると首を回して己に刺さった黒鬼の刀を跳ね飛ばした。
直ぐに拾えぬ林の中へと刀が飛んで行く。
黒鬼は脇差を抜いて『黒鉄』に向き直った。
牙を剥き出しにした『黒鉄』は、爛々と光るその瞳に黒鬼を捉えている。
再び『黒鉄』の鉤爪が黒鬼を襲うかに思われたその時、『黒鉄』は一転して、さえを目掛けて走り出した。
予想外の行動に、黒鬼の反応が僅かに遅れる。
「さえっ!逃げろ!」
黒鬼の声がいつかの又吉の言葉と重なった。
首元から血を流しながらも疾風の様に迫り来る『黒鉄』に、さえは矢を射掛ける事も出来ず身を翻し走り出した。
複雑に並ぶ樹々を障害にして、さえは必死に走り考える。
何処かに、
何処かに勝機がある筈だ
刹那、さえの耳に『黒鉄』の咆哮と、僅かに聞こえる早瀬の音が届いた。
さえは林を抜け出し、雪を駆けた。
「さえ!その先は崖だ!行くな!」
背中から黒鬼の叫ぶ声が聞こえたが、さえの足は構わず雪を蹴り続ける。
そしてやっとさえの足が止まったのは、崖の先端に辿り着いた時だった。
さえはその先端に立ち、ゆっくりと後ろを振り返った。
思った通り、『黒鉄』はさえから少し離れた場所で唸り声を上げている。
さえが崖の下へ『黒鉄』を誘い込む事を警戒しているのだろう。
「どうやらこれまでのようだな。」
さえ達に追いついた黒鬼が、刀を構えて『黒鉄』を見据えた。
『黒鉄』はグルグルと喉を鳴らしていたが、やがて咆哮を上げると走り出した。
さえの顔に笑みが浮かぶ。
「おまえなら、必ずそうすると思ったよ。」
さえはギリギリまで崖の先に立ち、『黒鉄』が喰らい付く寸前、その身を崖へと投げ出した。




