序
立花がその町に越して来たのは父親の転勤の為だった。
高校受験を控えた中三の夏に、慌ただしく父親からその事を告げられて、立花は志望校を変更して家族揃って父親の転勤先に付いて行くか、それとも立花と母親は残り父親は単身赴任で離れて暮らすかの選択を迫られた。
母親は家族が離れて暮らす事に難色を示し、立花もそれに同意した為、然程迷う事も無く、また、偏差値的にも全く問題も無かったので、当初考えていた都立の高校から田舎の県立高へと志望を変えた。
仕事の都合上、父親だけが先に新しい家で暮らす事にはなったが、休暇を利用して両親が引っ越しの準備を細目に行っていたので、立花は受験勉強に専念する事が出来た。
冬休み期間に新しい家を訪れた立花は、社宅ながらも二階建ての庭付き一軒家で、少々古さはあるものの高校に近いと言うこの家を気に入った。
「お母さん、ちょっと息抜きに高校まで散歩して来るね。」
庭先で雑草を抜いていた母親に声を掛け、門に手を掛ける。
「いいけど、遅くならない内に帰るのよ?あ、念の為、傘を持って行きなさい。雪が降るって、天気予報で言ってたわ。」
「え~、散歩には邪魔なんだけど。」
「いいから、持って行きなさい。雪に濡れて風邪でも引いたら、受験勉強にも響くわよ。」
「は~い。」
立花は渋々玄関に戻り、傘立てからビニール傘を掴んだ。
そうして、カツカツと傘先を地面で鳴らしながら、家を後にした。
立花の家から高校までは約2㎞の道のりで、ほぼ真っすぐの道順の為、方向音痴でも無い立花は迷う事無く足を進める。
小道をゆっくりと歩きながら、山沿いを眺めていると、ふと山の端が赤く色付いている事に気が付いた。
「確か、あそこには神社があったような?」
小首を傾げつつ、足を止めて見ていたが、どうにも気になった立花は、高校へ向かう筈だった足を神社へ続く左道へと向けた。
程なくして、鳥居に辿り着いた立花だったが、しかし、山頂に建てられた本殿までは、実に400段以上の石段を登らなければならず、立花は母親に言われて持って来たは良いが、どうにも持て余していた傘を杖代わりにしてどうにか最後の石段に足を掛けた。
「勉強、ばっかり、してたせいだ…っ、体力っ、なく、なってる…っ!」
膝をつき肩で息をしつつ、目の端に映った赤色に、立花はのそりと頭を上げた。
そこには本殿を囲むように椿が赤く咲いていて、美しくその存在を表わしていた。
散歩途中で目にした山の端の赤はこの椿だったのかと思いつつ、立花はその美しい筈の赤に何故か言い知れぬ不安を感じていた。
そんな自分に戸惑っていると、社務所の中から箒を持った宮司らしき男が出て来て立花に気が付き声を掛けた。
「こんにちは、こんな寒い日に参拝とは珍しいね。」
「こんにちは。えっと、入試が近いので、その、合格祈願と言うか…。」
立花はあながち間違いでも無い言い訳を口にしたが、宮司は成程と言った顔をして、けれど、直ぐに笑みを深めてこう言った。
「うちに合格祈願に来るとは、君はこの町の子では無いね?」
「え?何で分かるんですか?」
「それはね、うちで祀られている神様が学問とは程遠い、鬼の神様だからだよ。」
「鬼!?鬼が神様なんですか?」
立花はポカンとした顔で宮司を見上げた。
その顔が面白かったのか、宮司は少し噴き出して続けた。
「元は災いを呼ぶ一つ角の黒い鬼だったそうだけど、この地に暮らしていた狩人の乙女によって、この地を護る神様に変わったと伝えられているね。」
「災いを呼ぶ、一つ角の黒い鬼…」
「ははは、災いなんて言うと何とも物騒だよね?でも、そう言う災いをもたらすものだって、時と共に神へと変わり祀られる事もあるんだよ。ほら、学問の神様で有名な道真公だって、元は怨霊でもある訳だから…」
宮司の説明が何処か遠くで聞こえる気がした。そうして立花は次第に震え始めた自身の体をぎゅっと抱き締めた。
自分はここにいるのだと、その存在を実感出来るように、きつく。
そうでもしなければ、自分が自分で無くなるような不安に苛まれそうで。
―ああ、私はその黒い鬼を知っている。一つ角の黒い鬼を知っている…
頭に浮かぶのは、記憶に無い筈の黒い鬼。
立花の目の端に映った椿の花が、ゆらりと風に揺れていた。