2.近くて遠い50ヤード
産業に溢れ煙に覆われたマンチェスターから東の方に馬車でほんの数時間ほど揺れれば、緑に溢れた自然豊かな光景が広がっていく。
その中を越えていくのは、形式高い馬車であった。整った内装、丁寧に磨かれた外装の四輪馬車だ。
まばらな石や窪みに馬車が揺れても、柔らかな椅子が包み込むようで、ロックは意外に心地よいと思っていた。そもそもひどく揺れることが不快なのが一番の問題だが。
対面に座る少女も同じように思うのか、眉を潜めている。
「ごめんなさいね、探偵さん。この前はこうまでは揺れないはずなんですけれど、なにかあったのかしら」
ふいに隣を見れば、ユリエルが俯いていた。その頭は揺れ、船を漕いでいる。
──この状況で寝るのか……。
呆れたように見ていると、対面の少女もクスクスと笑っている。慌てて肘でユリエルをつつけば、寝ぼけ眼で周囲を見ていた。
その時、ガタリと大きく馬車が揺れた。馬の悲鳴が聞こえる。馬車が突然止まり、ぐっと投げ出されるように、ロックとユリエルは前に倒れ込んだ。
「なに、なにっ!?」
衝撃に一気に目覚め、周囲を見回していたユリエル。ある一点に視線が向けられると、すうっと瞳が細まり、冷たい眼差しになっていく。
同じく倒れたロックの顔は、対面に座る少女の腿へと収まっていた。
厚めの布、それでもわかる細身の足。当たったとたんにふわりと華やぐ香水のような香り。
三つの柔らかさに包まれたロックは一瞬頬が緩むも、すぐに精悍な眼差しを取り戻した。
睨むユリエルに平静を装うように、咳払いを一つ。少女も、さも気にしていないように口に手を添え微笑む。
「すまないな」
「いえ、構いません。それより──何かあったのですか?」
「いやすみません、でっかい窪みか何かに車輪が引っ掛かっちまったみたいです」
外から馭者の大層縮こまった、平伏する声が聞こえる。
ロックが扉を開けて覗いてみればその言葉の通り、四輪の左前輪が深みにはまっていた。
車体も少しばかり傾いてしまっているのだから、かなり厳しいものがある。
「深いし石まで噛んでる……踏み板噛ますにも地面が固いんですよ。時間がかかります」
「だが、それくらいしかないな」
「ですよねぇ……なんだってこんな穴が道の真ん中に」
「大きなものかなにかの資材が通ったときに引っ掻いたようだな──先にもちらほら見える」
「うへぇ……」
踏みしめられた地面は固い。馬が引きつつロックも押すが、穴はぴったり引っ掛かって動く気配も無い。
「ごめんなさいね、私の招待だっていうのに。大丈夫かしら?」
「このくらい問題ありませんよ」
「とは言ったものの、歩くほうが速いかしらねぇ……」
「家はもうそこまで近いの?」
「この辺りじゃあ、微妙なのよねぇ」
外でその様子を眺め、どうしようかと額を付き合わせあう少女をみて、ロックも首を捻る。
「歩くのは構いませんよ。あまり依頼人を歩かせたくはないが」
「それこそ、あなた方は私が案内しているのですから──」
歩きましょう、少女がそう言おうとしたその時である。ロックの隣に一人、馬車を押し出す男が現れた。
さらに馬車の横を馬が通り、馬車へと繋がれる。
「な、なんだ?」
「なあに、通りすがりの人ですよ」
「そうそう」
どこかから次々に人がやって来る。車輪に取り付いて穴を広げようとする人もいた。
「お嬢さんの馬車が立ち往生だって?」
「それは大変だ」
「困ってたのはお嬢さんだったか!」
「スコップ持ってきた、穴のあたりをちょいと掘れ!」
「いくぞ、せぇのぉ!」
わらわらと人が集まってくる。響く掛け声にロックも合わせた結果、馬車は大きく揺れて動き出した。
後輪も穴も避けて進むと、わぁと歓声が上がる。
あっという間の事に押されっぱなしだったロックは隣にいた男に話しかけた。一番最初にやって来た、農民風の男だ。
「これ、なんです?」
「なあに、ブロストンの馬車が困ってると思ったらお嬢様が乗ってらっしゃるじゃないか。なら手伝わなきゃな。なぁ!」
周囲に呼び掛ければ、あぁと返ってくる声は重なる。
「ブロストンのいけすかない奴らならともかく、ベルディさまなら歓迎さ!」
「まぁ、私もブロストンだというのにひどいわね」
「おぉ、これは申し訳ありません」
思い出したかのように慌てて平伏する男らに苦笑した少女─ベルディ・ブロストン。
「ありがとうね、皆さん!」
馬車の前で会釈と共に声をあげれば、また一段と大きな歓声が上がった。
ベルディとユリエルも馬車に乗り、ほとんどの人が去るなか、ロックは最初の人を呼び止めた。
「この穴ぼこだらけがなんなのか、知らないか」
「昨日か一昨日か、雑騎士が通っていったかな。そのときにやられたよ。埋めるにも固さが違うし、この先までずっとあるからやってもやっても追い付かねぇ」
さっさとあの旦那には直してほしい。そう苛立った面持ちでぼやいていた。
●
「ずいぶんと人気なようで」
「あら、お恥ずかしい」
再び揺れる馬車の中、ベルディは世辞ととったのか、クスクスと笑う。
「このあたりの人たちですよ。皆さん慕ってくれているだけ、いい人です」
そう微笑んではいる。
だが、彼らはベルディが外に出てから、姿を表した。
(ブロストン家そのものの評判は、ずいぶんと悪いのか?)
ブロストン家がこのあたりで石工や農林業をしているというのは、ロックも聞いたことがある。
内心首をかしげていると、馭者に誘われたベルディが外を覗く。すぐに声をあげた。
「ほらあそこ、あの大きな樹。あそこが私の家ですよ!」
少女の示す先、自然の垣間見得る町並みのなかに、高くそびえる樹が見える。
身を乗り出して覗いたロックも、思わず声をあげた。
その樹を目にしてから屋敷の屋根が見えてくるのだから、その大きさもよほどのもの。
「ほう、ありゃあ立派だな、依頼人」
「でしょう?」
「わーすごーい」
隣からユリエルも覗くが、あまり気を引いた様子はない。
「もう少し興味を示せよ、ユリエル」
「騎士が大好きだものね、ユリィは」
「重騎士の方がもっと好きよ」
すかさず挟み込まれた訂正に、少女は苦笑い。
「さすがに重騎士はうちには無いなぁ……でも、雑騎士ならあるよ、いじってく?」
「いいのベル!?」
「ユリィの腕なら任せられるわよ」
「あー、ユリエル、依頼に行くのであることを忘れてないか?」
「──わ、忘れてない、忘れてないわよ、うん!」
焦り慌てて弁明するユリエルに、二人は嘆息。
「探偵側で依頼についてくるのは初めてなんだ、すまない」
「構いませんよ。改めてご説明しましょうか?」
「お手数ですが、新たな発見もあるかも知れません。お願いします、ベルディ・ブロストン嬢」
「ベルディで構いません」
ロックの言葉に促され、ベルディは咳払いをひとつ。
「長兄が殺されたのは、四日ほど前になります──」
──この少女、ベルディ・ブロストンが今回の依頼人となる。
寮住まいの学生であり、ユリエルの同級生。実家はケデスバーグで石工や農林業を営む大地主。
愛らしい端正な顔を、緊張からか固めながら、淡々と語った。
●
事は四日前、遠くロンドンの大学に入学した長兄がたまの休みに顔を見せに帰ってくるとあって、ベルディも顔を出しに一度帰ることとなったという。
馬車で数時間ほどのベルディと違い、はるばるロンドンから列車を乗り継ぐ兄は数日がかりの道のり。
久々に会う家族を懐かしみ、ちょっとした豪勢な食事とともに、夜は更けた。
だが帰省して次の日、月もないその深夜に悲劇が起こった。
久々の自室での安眠を、うなり声と轟音が引き裂いた。なにごとかと不安に思うベルディの耳に、悲鳴が届く。
自室を飛び出して目にしたのは、乱暴に開け放たれ壊れた玄関扉と、吹き込む風。
ランタンで外を照らした使用人が見つけたのは、倒れていた兄であった。ピクリとも動かず、頭からはだくだくと血を流していた兄は、頭を打って死亡したと診断された。
●
「──お父様は、押し入った強盗が兄に見咎められたのを、殴り殺して逃げたと言っています」
「わざわざ玄関扉を、それも内側から壊すというのがわからないが、まあ理解はできる」
「でも、それが違うって言うの……よね?」
「警察は色々おかしいって言うんですよね。まず我が家のなかでは、玄関扉が一番頑丈だと言うのが一つ。押し込み強盗でも裏口とか窓とか、もうすこし簡単な場所から侵入するものです」
──もう一つ。
そう言いかけたところで、馬車は止まった。
塀と柵に囲われた、緑に溢れた広い庭の中程だ。門からの道の先、大樹のそばに大きな屋敷があった。
「あそこが、依頼の場所か」
そばの大樹はまた屋根のように大きく枝を張り出している。
近くまで来ても圧倒する塔のようなその威容に、ユリエルもさすがに驚かされた。
「ほんとにでっかいですね、この樹……」
「枝もまるでもう一つ屋根があるみたいだ」
「どんな嵐でもおれたり倒れたりしませんわ──止まって!」
へぇ、と二人見上げて歩いていると、ベルディの鋭い声がその足を止める。
つまづきそうになったユリエルの手を、ロックが取り支えた。
ありがとうの言葉に、軽い会釈を一つ。
「いきなり何よ、ベル」
「ああ、これか。下だよ」
ロックの言葉に導かれて下を見て、ユリエルもようやく気づき、息を飲む。
外に放り投げられ死んだ長兄。それを示すように、放られた五体が、地面に白線で縁取られていた。
「ここで兄さんが死んだの」
「──でも、ここって」
青い顔で、ユリエルは屋敷と白線を何度も見る。
「屋敷から50ヤードは優にあるわよ」
「それが、もう一つ」
神妙な顔で、ベルディが言った。
「強盗が、こんな場所でわざわざ殺すでしょうか」
「確かに奇妙だ。こんな離れた場所なんて」
「いまは警察の足跡で覆われていますが、当初は私たち以外の足跡もありませんでした──伝説があるんです。屋敷に伝わる伝説が」
思わず顔を見合わせた二人。促す視線にベルディも頷き、続けた。
「玄関そばに飾られた騎士鎧は、屋敷を守るため、悪しき侵入者を玄関から投げ飛ばす──変な古い伝説です」