4.興味を持った、やってみる
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上がりそうな息を無理矢理整えながら、ユリエルは歩く。
壁に手を添えてでも歩くが、コルセットを巻いた身にはさすがに厳しいものがある。
─誰だこんなものを考えたのはただ苦しいだけじゃない自分で着けて窒息して────
「ヴェホッ、ボフォッ……がっ!」
思い付く限りの罵詈雑言をつく余裕もなく、えづいてしまったその時である。
あまり前をみていなかったせいか、誰かにぶつかってしまった。
跳ね返されよろめいた体を、そっと抱き抱えられる。
しっかりとした腕が頼もしく、暖かい。
「あっ、あぁ……すみません」
「来たのか。そら、立って落ち着いて、息を整えろ」
礼を言わねば。そう思っていたのだけれども、それよりも先に面を挙げた。
耳馴染みのあるいつもの声だった。
「あぁ──なんだロックでしたか」
「助けられてその言いぐさはなんだい」
「いえ、ぶつかって申し訳ありませんね──手をはなしても構いませんのよ」
「そいつはどうも──そのまま地面にキスでもしたいのかい」
「えぇ、何度やってしまったことか」
「まったく、なんて女だい」
ロックはユリエルを立たせるように抱え直し、共に壁に背を預けた。
彼の言葉に応じるように、小さく、短く、確実に呼吸する。
そうすれば、次第に息も整ってくる。
深呼吸できれば楽なのに、とはいつも思う。けれども胸が締め付けられているのだから仕方ない。
邪魔だけれども、つけている方が”いい”はずなのだから、つけないわけにもいかないのだ。
「落ち着いたか」
「えぇ、まあ」
いつのまにやら離れていたロックは、物陰に佇んでいた。
ちら、とユリエルの方を見ては、すぐに視線をもとの方に戻す。
暇そうにたたずんでいるようにも見えるが、それは違う。何かを”見ている”のだ。
そっと肩越しに、ユリエルも覗いてみる。
その視線をたどると、そこには少々古ぼけた劇場があった。
道路の角という目立つ位置にあるというのに、周囲と同じの五六階の建物でも馴染んでしまう、地味な印象。
「あいつはあそこに駆け込んでね」
どうしたものかと、他人事のようにあっけらかんと、ロックは言う。
けれどもそんなこともよそに、ユリエルは目をしばかせてた
「ああ、ここだったの」
「おや、知っているのか」
視線はそこからそらさず。それでも意外そうな眼を見開く。
「楽団の舞台探し、あったじゃないですか。あのときにここも見たんですよ」
それは、リンファのいる楽団のこと。
屋内の舞台をいくらか見繕っている彼女らを、ユリエルもベルディと一緒に手伝っていた。
そのひとつが、今目の前にしている劇場。
「で、どうだった?」
「取りつくしまも無し。すぐにあしらってくれちゃってね」
「へぇ、どこの劇団がやってるんだかね……今の演目は『騎士王物語』?」
「いいわよ、もうあそこのは」
「なるほどね。じゃあ、行ってくるから」
──え?
肩をすくめて首を振った、その一瞬。
フラりと進んだロックの姿は人混みに紛れて、見えなくなった。
「あら」
嘆息して壁にもたれ掛かれば、演目広告の張り紙が眼に入ってきた。
銘打たれているのは『騎士王物語』。
かの神代に国を伐り拓いたという、重騎士の王と円卓の騎士にまつわる物語。
”騎士”の話だというけれど、ユリエルは興味も引かれず、首を振る。
ふと、その隣に眼がいった。並ぶように張り出されているのは、監督のコメントらしい。
監督ローラン・グリンウッドのお言葉だが、壮大で、美麗。
しかし装飾過剰で中身のない内容には、辟易する。
「いつの間にこんなの貼ってあったのかしらねぇ……」
日付からして、今日に貼り出されたのだろうか。
そのわりにボロボロな紙に見覚えもなくて、ユリエルを首を捻った。
●
人々の集う喫茶店のなかに、ユリエルはいた。
窓際の席に居場所を定めて、薄汚れた窓から当の劇場を覗き込む。
劇場の脇の玄関を目にできるその場所は、人の出入りを見るには絶好。
ぬぐっても拭きれない窓汚れは邪魔ではあるが、監視するにはちょうどいい──かもしれない。
聞きかじりなので、自信はなかった。
「あまりじろじろ見るな、でしたっけ」
新聞を広げながらなんとなしに横目を向けるのだが、これが意外と難しい。
どんな人が入るのか、人通りはどれ程なのか。
様々なことをうかがっていると、気づけばじろりと目を向けてしまう。
先ほどのロックの姿を思い返してみるも、どうやればいいのやら分からない。
「ほんとすごいのねぇ、あの人も」
やはり、あの人は探偵なのだ。思わず、ため息をついた。
ロックが劇場に飛び込んで、暫しのこと。
戻ってくるのに大方の時間はかからないだろう。曲がりなりにもあれは侵入─勝手に立ち入っているのだ。
あのような侵入者は警戒しているのだと、リンファや”ファンクラブ”から聞いたことがある。
妬みそねみは限りないから、端から弾くに限るそう。
しかし事務所に帰るにも、中途半端な時間になるだろう。
なので、目についた喫茶店に飛び込んでみたのだけれども──
「遅いですねぇ……そうあっさりとはいきませんよねぇ」
──待ちぼうけ。退屈すら、感じてきている。
ようやく出されたサンドイッチでもつまんでいれば、そのままうとうとと眠ってしまいそう。
けれども、ともに出されたコーヒーの香りはむせかえるほどに濃く、そばにあるだけで目を覚まさせてくれる。
「それにしても……」
少年と一緒にいたという大男が、劇場にいるという。けれどもなぜ樽なんて喜んで持っていったのか。
それにロックがあの樽から引きずり出した、あの像も気になってくる。
その名前は新聞に目を通してみても、見つからない。
「『ビルストイ』ってなにかしらねぇ……」
「──もしや『ビルストイの騎士』という彫像ではありませんかね」
ふいにつぶやいた言葉に、返事が帰ってきた。その声がしたのは、となりの席から。
目を向ければ、端正な顔立ちの男が一人。整えられた茶のスーツと撫で付けた金髪が目についた。
「五十年ほど前、芸術家ヤーン・ギュルイン晩年の逸品のこと。もしや、違いましたかな」
「あぁ、いえ、その……わたし、芸術のことはまだまだ学んでいる最中でして」
「あぁ、失敬。突然勝手なことを言ってしまいましたね」
そう言って彼は苦笑い。
よく通るはっきりとした声はその見目と相まって、ずいぶんと自信のある男のように思えた。
男が差し出した名刺を覗いて、ユリエルは瞬き一つ。納得いったように、声をあげた。
「あら、美術商ですか」
「ええ。ロンドンの方に画廊がありますので、よろしければ」
「面白そうね。でもあいにく機会があるかどうか」
「用向きの時は、お手紙でも構いません。直接お越しいただければなおのこと。時間があれば是非にでも」
「あら、うれしい」
「このくらい、当然のことです」
見苦しい営業努力、そう彼は謙遜するが、その笑みは自信に溢れたもの。
──美術商なら……
ふとしたように、聞いてみた。
「ねぇ『ビルストイの騎士』って詳しいのですよね。どのようなものなのです。こう……見目とか?」
「ビルストイ──ええ、気になりますよね」
良いことを聞いてきた、とばかりに何度も頷く。
その顔はなんとも嬉しそうに、輝いている。
「彫像ですね。少々小さいものですが、それに見合わぬ力を秘めた素晴らしいものです──興味がおありで?」
「いや、その、近頃友人から最近それを見た、とか騒いでまして。不勉強で、どんなものかと思った次第で」
──こう、乳白色の。
先程見た特徴を聞いて、男は唸りをひとつ。眉をつり上げた。
「ささいなことからご興味をお持ちになるのはよいこと。ご友人が拝見なさったのは恐らく、レプリカでございましょう」
「レプリカ──ですか?」
「まあ、良くある石膏像ですよ。あいにく今は在庫がござませんが、すぐに用意をつけます」
「あぁ、いえ、そちらは結構です」
そう言った時には、すでに鞄から取り出した資料が広がっていた。
笑顔で示したページには、しっかりと『ビルストイの騎士』も精巧な図として載っている。
振り上げる剣。美麗な装甲、剣を振りかざす姿の勇猛な様。
色が真白なことを除けば、ロックが眺めてほくそえんでいたあの像に違いない。
よろしければ、と他のものも勧めようとするので、慌てて差し止める。商談はご遠慮願いたいところ。
惜しむような顔で資料をしまいこむが、油断も隙もあったものじゃない。
「ちなみに、もし……万が一、本物ならばいかほどになります?」
「まあ、そこいらの金持ちは土地か屋敷ををひとつか二つ手放すことになるでしょうな。まあ、本物は盗まれてもう数年は見つかっていません」
「──あら、そうなのですか」
驚きを押さえる。息を呑んだことは、悟られなかったようだ。
「ええ。そのご友人が拝見なさったのは偽物ですよ。本物そっくりに塗装することも、たまにあります」
「お教えくださってありがとうございます。でも伝えないでおきましょう。あの人、夢から覚めてしまいそう」
「一応、お気をつけなさってくださいよ。レプリカをそ知らぬ顔で売りさばく輩は多いのですから」
「ええ、それはもちろん」
私はちゃんとお伝えしてますよ。そう神妙な顔で節に説く男に、ユリエルも深く頷いた。
「ロンドンで画廊をなさっているというのならどうしてこちらに? 美術商というからには、やはり何かをお探しですか」
その言葉を聞いて、男の動きは止まった。あぁ、と膝を打つ。
「いや、私は噂に、良いものをここマンチェスターで購入した、という話をよく聞いたのですよ。それこそ紛失してしまったような珍しいものですとか、掘り出しものとか珍しいものを、だそうですよ」
「その確認に、ですか?」
「ええ」
力強く美術商は頷いた。
あわよくば仕入れたかった、とその思いをにじませていたのだが、今までの端正な顔を盛大に歪めて、ため息ひとつ。
「なかなか手がかりがつかめずじまいでしてね。そのご友人のお話を聞いて、杞憂だったかと思ってしまいましたが」
「そうは言いましても、偽物なんて良くあることでしょう。もしかしたらそれが本物かもしれませんよ?」
「それならどれ程いいことか。まぁ、根気強く探してみますよ。何人か同業も見ました。ここになにかはあるでしょう」
「応援してます」
ありがとう、と彼は微笑んで、コーヒーを一口。
盛大に顔を歪めて、そっとカップを置いた。
「どうしました?」
「──これ、飲んでは?」
ふっとそばのカップをみれば、緩くなった湯気のたつカップには、今だ満ちたコーヒーがある。
「……あら? 考え事をしていましたから忘れてました。行けませんね、これは」
「そう……ですか」
ユリエルの手をとるとそっと何かを男は握らせた。
「それで何か、お飲みください」
その手を開いてみれば、なかには銀貨が五枚。思わず男を見るが、彼はすでに扉を潜っていた。
「合わなかったのかしらねぇ。好みもあるし、仕方ないけど」
手元に残った銀貨を見つめて、考える。
レプリカも多いという、あの騎士像。ならばそれは石膏だろいう。
──あれは”石”だったわよねぇ……
だけれども。あのときに一瞬見たものは、明らかに違った。石膏のような、単純な白ではなかった。
レプリカなんて良くあると、あの男は言っていたけれど。
──まさかねぇ
戸惑ったその視線をそっと外に戻して──
「──あら」
ぴんとたった背は、まさしくロックの姿を見つけた。
その傍らには、小さな影──
「あの子は!」
慌てて駆け出そうとして、手元に残ったサンドイッチとコーヒーを思い出す。
考えたのは一瞬。サンドイッチは新聞にくるんだ。ロックたちにも分けてもいいだろう。
コーヒーは、さっさと飲むしかない。
目の前には、いささか湯気の減ってしまったコーヒーカップ。
とはいえまだ香りはよく立って、鼻をくすぐってくる。
──ここのコーヒーはどんなものだろう。
急ぐこの瞬間にも、考えてしまう。
店ごとに茶やらコーヒーやら飲み比べるのは、ユリエルの密かな楽しみの一つ。
ここの客はみんな飲む度に唸っているほどだ。喫茶店のコーヒー、一体どれほどのものか。
くい、とカップを傾けて──
「──ぬガッ、グゥ……!?」
重く、濃い、纏わりつくような泥沼をユリエルは確かに視た。




