2.茶豆問屋の御老体
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二人が向かったのはマンチェスターの西。
商店も多く、買い物客から仕入れ、配達人まで多くの人が忙しなく行き交う。
そんな雑踏の表通りを抜けて、ロックが通るのは脇の路地。
細くも晴れやかな空の日差しがよく入り込む。乾いた空気が心地よくて、ユリエルは目を細めた。
この細日を浴びて、窓辺で船をこぐのもさぞ気持ちいいだろう。
思わず沸いた欠伸をそっと噛み締める。
「良い日差しですよねぇ……運河で小舟にでも揺られながらうたた寝もしたいですよ」
「貨物船に煽られてひっくり返るだけだと思うぞ」
「……それもそうね」
それもしかり。ユリエルは否定ができなかった。
ずぶ濡れになってしまっては、寝ることも叶うまい。
いや、恐らく叶うだろうが、それは熱と悪寒に蝕まれる安眠とはほど遠いもの。またやりたくはない。
「残念ねぇ」
「事務所で寝ててもよかったんだぞ?」
「わかってないわね。そういうのは風のよく通る場所だから良いの」
「そうか。てっきり薄暗い騎士の操縦席なのかと思ていたが」
「ひどいこと言わねぇ。いくら”騎士”でも寝るときまでは嫌よ、息が詰まるわ。最近はそんなことも多いってのに」
「ノックスの整備はまだ終わってないんだったな。まあ、のんびりやりなさいな」
「そうはいっても──」
そう言って、また欠伸。
「そうしようかしら」
「それが良い」
”騎士”に抱かれて荘厳な気配に身を寄せるのも良いが、暖かな日差しに包まれるのもまたひとしお。
緑を溢れる木の下でも、窓辺のテーブルでもいい。
それこそ草原のなかで寝転べたら、どれだけ気持ちの良いことか。
その誘惑は今もそっと手を引き寄せてくる。
油断してたら、連れていかれてしまいそうで、きっと心を引き締めた。
「ま、こんなお日様を逃したらもったいないですものね。さっさと終わらせましょう」
「それもそうだな」
ロックも、同意して頷いた。
「ところでウィンストン通りの路地の中半って言ってましたけど……どこら辺です、それ?」
周囲を見渡しても、雑然とした通りには茶豆問屋たらしい姿は見あたらない。
「この辺りは小さな商家とかいくらかあったりしたものだほら、あった」
ロックが示した先には、軒先に止まる馬車が一台。
そのそばで小さく下がった質素な看板に、『モンド茶豆問屋』とだけかかれてる。
添えられるのは、香り立たせる豆と葉のマークだけ。
余りにも簡素で目立たないもの。気をつけなければ気づかず通りすぎてしまいそう。
ユリエルが困惑する間にも、ロックはあっさりと店のなかに入っていく。
「草ばかりで何もないじゃない」
「いや、こっちだ」
店内は、店と言うことが信じられないような薄暗さ。
気まぐれにでも置いたような観葉植物の間を抜けると、ほんのりとした明かりが階段から漏れていた。
こちらへ、などと言う簡素に過ぎる案内に従って、階段に向かい──ぶわりと、一気に香りが広がった。
「これって……」
ほう、と思わず息を呑む。
きしむ階段を一歩一歩、踏みしめ降りていくたびに、茶の香りが、コーヒーの香りが広がっていく。
地下のせいか、少しばかり肌寒い部屋で出迎えたのは、いくつもの大きさの樽と棚。
階段の脇に積まれた棚の上には、小枝や豆の瓶詰めがずらりと並び、中にも瓶詰めされた葉がいくらも並ぶ。
脇に山積みにされた小枝はシナモンだろうか? だとしても、種類が多い。それだけではないように見える。
蝋燭明かりの下には、いくつもの大樽。樽の中身は、ぎっしりとつまった豆。
それぞれが違うようなのだが、把握できそうにもない量には目を回しそうになってしまう。
そうなってしまうのは、店内に漂う香りが原因だろう。コーヒーと紅茶。さらに香辛料の香りが混ざって、殴ってくるかのような衝撃になる。
そのなかをロックはずかずかと進み、奥へと進んでいった。
ついてくと、コーヒーの香りがどんどんと強くなっていく。
行き着いた先には、カウンターのようになっていた。そこには、今もポッドに湯を注ぎ入れる老人が一人。
小柄であったが、背が丸まっていることで、余計に小さく見える。
じっと、ポッドなどの一式を食い入るように見つめているのも、一因だろう。
細い手が握るケトルからポッドへ音もなく注ぎ入れる度に、香りが広がっていく。
匂いが濃くなっている大本はあれなのだ。
ユリエルは、声をかけようとする。だけどすぐに閉じることになった。
そっと、老人が人差し指を、真っ直ぐ掲げたのだ。
声もなく、ただ滴り満ちるコーヒーに眼を向けていた。
●
「──さて、なんのようかな」
老人は低くしゃがれた声を絞るようにして、言った。柔和な表情には見合わぬ、油の切れたような声だ。
「ここはモンドの茶豆問屋だ。お前さんたちの顔は初めて見るな」
「あれ、ロックは知っているのでは……」
「俺はね、ここを知っているだけ。会ったことは無いんだな、これが」
さも当然、というようにあっさりと言った。
「大家──ああ、ミリー・ハドック夫人のお使いだよ。葉と豆が来てないってんでね。こっちに直接来たわけだ」
「《小鳥の宿り木》だったか。最近は盛り上がってるね─ああ、来てないってか。そこ、確かにあるんだが」
そう言って示したのは、先程の入り口階段の脇。いくらかつまれた箱の山。
ユリエルが覗いてみれば、確かに『小鳥の宿り木』と宛先に記された札が下げられた小箱がいくらかある。
「こっちも困ってるんだ」
たいしてそうでもないような、飄々とした語り口であった。
「──なに?」
「うちの子らが帰ってこんのだ。あいつらが配達に行くんだがな、肝心の脚が足りなくてな」
「配達にも行ったわけではないんですか?」
「港に今日の荷を取りに行っているのだ──だが、なんでも警察が捜査をしているらしい」
「はぁ、なんでまた」
「そいつは──」
ひょい、と店主が二人の背後を覗き込む。同時に、きしむ階段の音。
「店主さん、次の樽はどちらです!?」
「そいつにでも聞いてくれ」
堰を切ったような勢いで降りてきた男を指してそう言った。
けれども、信じられずに瞬きをする。
男は、揃いの濃紺に金糸の服に身を包んでいた。頭の制帽に輝く星は──
「おまわり、さん?」
●
「──へぇ、密輸品の捜査?」
「そうなんですよ」
小箱や瓶でぎゅうづめになった箱を共に下ろしながら、警官は言った。
ぼろの荷馬車に、多くの箱が詰め込まれている。
どれもが茶葉や豆の詰まった瓶を詰め込まれているものだから、見た目よりも十分に重い。
──店先に止まっていたのはこれだったのね。
端に追いやられたユリエルは、つまらなそうに眺めながらも思う。
繋がれた茶色の馬は、何を考えているのだろうか。ぶるぶると鳴いて辺りを見回している。
ふいに目が合い、首をかしげて見せれば、馬もそれに倣った。
──事の起こりは、グラント警部らしい。その部下である警官は、そう言った。
彼が見事摘発したのは、とある密輸品。
なんでも昔にどこぞの貴族邸から盗まれたという大層な代物なのだそう。
その輸送ルートの調査の際に浮上したのが、運河の港。
ならばと思いきって捜査に出たところに、店主の息子ヴィギンも、巻き込まれたらしい。
「そこでな、そいつらは孫を探しているらしい」
「孫……ですか?」
「ホープキンというが、捜査なんぞ知らんとばかりに抜け出したっていう。まあ、早めの荷を抱えてさっさと帰ってくるなんていつものことよ」
「警察にしてみれば抜け出されたのには変わりないので、追っ手を掛けた……ということですけれど?」
”どっちも”言い訳だろうがな、と老人は笑いながらも、首肯した。
「どうなのでしょう、追っ手さん?」
ユリエルにじっと見つめられて、警官はそっぽを向いている。
目を合わせたくないのか、天井やら床やら視線をさ迷わせていたが、店主に尻を叩かれた。
「まぁ、それがこやつよ。おう、しっかり腰を入れて運ばんか」
「は、はいぃ!」
そうして、店の中へと慌てたように運び出されたにを積んでいく。
ペースは落ちていないようだが、瓶やら荷の中で擦れては鳴ってと耳障りなもので、店主の唾がまた飛んだ。
「なんだって呑気に手伝いなぞしているかねぇ」
ロックの呆れた眼差しに、警官はばつの悪い顔をする。
「いや、その……ね、ここで待ち構えてたら、差し入れなんてしてくれまして」
「いい豆?」
「でしたねぇ……」
うっとりと、ため息を漏らす。その笑みは、よほどの衝撃だったのだろうか。
気恥ずかしそうにしていたが、なにも恥じることはないと、ように、ユリエルには思う。
なんどか檄を飛ばし、さらに十数回の往復を終わらせて、ようやくると、店主は足を引きずるようにして、やっとのように馭者台に乗った。
「ワシは配達、こやつは番。そんな訳だ。すまんが、あんたたちは孫を見に行っといてくれんか」
「息子さんは良いのかい」
「サツ程度あしらえんでどうする」
ポッドとカップを手にして首をすくめる警官を横目に、店主は言った。
「お前さんらの事はあいつから聞いたことがある。探偵だってな? だから、依頼だ」
「──報酬はなんだい」
「ここから好きに持っていけ」
そう言うなり鞭を走らせて、馬車はとことこ駆けていく。
皆のこともほっぽって、彼は町に消えていった。
「ここって、なぁ……」
ロックも、ユリエルも、傍らで知らぬ存ぜぬ振りをしていたはずの警官も、揃って首を傾げた。
そこには茶豆問屋があるだけ。
頭を掻き、ロックはため息ひとつ。その顔を、ユリエルが覗き込む。
「どうします?」
「適当に探しておけば、なにかあるだろうよぉ……」
面倒そうに、だけれどもどこか嬉しそうにぼやくのを、ユリエルは微笑んで見つめていた。
●
「じゃあ、お留守番よろしくお願いしますね?」
「先に子供が帰ってきてたら”おっさん”にもよろしく頼む」
「警部、でしょ!」
二人も立ち去って、警官は一人、茶豆問屋の前に立ち尽くしていた。
警護、門前での見張り業務は日常茶飯事。慣れきっている。
雨でも風でも雪でも、灰色の雲のなかでも微動だにせぬ自信が、彼にはあった。
腕を後ろに、両足は合わせ、背筋までぴんと伸ばす。
前を向く彼の姿は、まるで大樹のようにどっしりとしたもの。
それでいて周囲を覗く視線はしっかりと広く、警戒を怠らない。
──それでも。
周囲に視線を巡らせ、人一人いないことを確認すると、じりじりと入り口の物影に身を寄せる。
ひょいと身を隠してから、脇におかれたテーブルから手に取ったのは、カップがひとつ。
もちろん、波々とコーヒーが注がれている。
湯気は落ち着いてしまったが、まだ少し、うっすらと立ち上っている。ちらと陽光に触れて、煌めいた。
その光景に感激しながら、くいと飲む。
「──あぁ……っ!」
感服の吐息を、殺しきれなかった。




