1.私は”視た”
1/6
ユリエルの目覚めの鈴は、妙な物音であった。
がさごそと何かを漁る物音が、部屋の片隅から聞こえてくる。
こんな朝に、だれだろう。
小さくあくびを一つ。寝起きで頭も瞼も重くて、つい眼を擦った。
寝台の片隅に置いたままの雑誌や道具を蹴飛ばさないようにして、そっと様子を伺う。
天幕で囲われたベッドから、部屋はあまり見えない。だけれども、小さな窓から外日が入り込んで、うずくまる人影を写しだした。ハラリと、紙が擦れる音。紙束やらを物色しているらしい。
一体だれなのだろうか。
ロック? でも部屋に入ってくるときは声をかけてくる。
なら、と浮かんできた人物に、ユリエルは心のざわめきを押さえられなかった。
──まさか、ベロムズ……?
それこそ、まさか。彼は塀の中だ。でも、一度脱走している。
一度わいた疑問はむくむくと膨れ上がっていく。
やつは資料を物色している。なら目的は変わらず研究資料? まさか今度は私の命?
ぐるぐると、疑念疑惑が頭のなかに渦を巻く。
そういえば、ロックはどうしたのだろう。
スリも見抜く彼のこと。侵入者に気づかないはずが無いだろうに。
彼もまた、ベロムズを邪魔した一人。おじいさまのように先に倒されたのだろうか? 彼が? そんなまさか。
──でも、と。
天幕を揺らさないようにして、ベッドの下から鉄パイプを取り出した。手慰めにも資材を持ってきてよかった。
2フィートもあれば、やつを撃退できるだろう。
家の中でノックスは使えない。ロックも、ここには居ない。この手にあるのは鉄パイプだけ。
拳銃に比べれば心もとないけれども。それでも立派な武器になる。
ロックは最初、これでベロムズに立ち向かったのだ。
ノックスに乗っても諦めたりしなかった。
──なら、わたしも。
パイプを抱き寄せて、寝台の端に寄る。できる限り、影に近づくように。
影は作業に夢中で、気づいていない様子。背を向けてドサドサと資料を重ねていた。
そっと天幕の隙間から覗き込んで──
「うん──……?」
思わず漏らした声に、座り込んだ人影が振り向く。
「おはよう」なんて気楽な挨拶に、ユリエルも返事をする。
「何してるんですか、ロック」
「いや、ちょいと過去の捜査資料を漁っててな」
そう言って、ロックはまた一つファイルの束を傍らに積み上げた。
ロックが掻き漁っているのは、エリックやロックと探偵が携わった事件の記録の数々、というもの。
棚一つにみっちりと詰まった膨大な資料を引っ張り出しては、さっと眼を通す。その作業を彼は続けていた。
何かあったのだろうか、と興味深そうに覗いていたユリエルを、ロックが横目で見る。
どことなく強いジロリとした視線に首をかしげていると、
「何で鉄パイプなんて持っている」
「え!あ、いや、その……」
スッと、手にしていたパイプをベッドの脇に隠した。
少しばかり言い淀んでから、耐えきれず絞り出すように吐き出してしまう。
「……てっきり、泥棒かと。いつもは、声をかけてくれるから、つい」
資料室とは言うものの、現状はユリエルの私室のようなもの。
家具やら資料に部品と色々持ち込んでいたユリエルも遠慮して片隅に固めていたものの、ロックも遠慮して過度に立ち入ることは少なくなっていた。
いくら天幕を備えたとはいえ朝方は特に来ることはなかったのが、ここ数ヵ月のこと。
そういえば、とロックは納得がいったように頷いた。
「すまん」と頭を下げるが、ユリエルはむっと唇を尖らせた。
「声をかけてくれれば良いのに」
「気持ち良さそうに寝てたんでな。さすがに余計な気がした」
「──見たんですか!?」
「ちょっとうるさかっただけだ」
「あなたは──……!」
顔を真っ赤にしてベッドにユリエルは潜り込んでしまう。
それを横目に、ロックは再び資料を取り出して、脇に取り上げる。
思わずじたばた悶えていると、困ったようにロックが言った。
「下に響くぞ」
「うるさい!」
ひゅう、とネジ入れの巾着を投げれば、ロックはあっさりファイルで受け止めた。
●
「ジルスト・アウグストル……おじいさまですか?」
「そう、そうなんだよ」
ロックは資料棚から引き出したファイルをまた一つ、傍らの山へと積み上げた。
なぜ、そんなことをまた言うのだろうか。首を傾げるユリエルに、ロックが答えた。
「この前の社長さんだよ。ちょっと会って、その時にな」
あの人かと、ユリエルはすぐに思い浮かんだ。
ワークナー部品を融通してもらったあの男だろう。危機に陥ったノックスを運んでくれたことを、よく覚えている。
「おじいさまとも知り合いでしたね」
「ジルスト氏は師匠を─エリック・セイムズを知っていた。『やつに頼れ』と言うほどだ」
だから、と。
「俺は師匠からその名前を聞いたことはなかった。ただの友人だったと思ってた。薦めるにしても命の危機に薦めるとはそう思えないからな」
あの社長はエリック・セイムズとも、ジルスト・アウグストルとも接点がある。
ロックは社長とノックスの関係を知ってから、彼に聞いてみたのだ。”ジルストと師匠の関係を知らないか”と。
両者を知っていたあの男なら、何か知っているのではないかと。
だけれども、余計に困惑を深めさせることになった。
──困っている時に、彼からエリック・セイムズを薦められたんだよ!
「何度か助けられた」とも、言っていたという。
ロックが師匠の元で社長の事件に関わったのは二年半は前のことになる。その時からすでにジルスト・アウグストルは師匠のことを知って、信頼までも置いていた。
「だから、捜査資料から過去の事件で接点を見落としてないかと探してるんだが……」
「いまだに情報なし、ですか」
「そういうこと」と、顎に手をつき嘆息。
「やんなっちゃうねぇ。大概のことは記録に残したりしているあの人だ。事件なりでなにかしら接触があるとは思うんだが、記録で見た覚えがない」
だから、記録を読み返しているというのだ。
とはいえその量はあまりに膨大。
「師匠が居れば話を聞けたんだが」とロックはぼやく。
「そういえばお師匠さんって今は行方知れず、でしたか」
「ある日、買い物にでもいくような気軽さで出掛けて、帰ってこなかった」
事も無げに、ロックは言う。
ずいぶんと慣れた物言いだった。
「いつのことです」
「一年と四ヶ月は前のことだ」
「となると、一昨年の暮れですか……うーむ?」
「何か、知っているのか!?」
ぐっと迫るロックに押されながらも、ユリエルは首をかしげる。
──はて、その頃に何かあったような。
引っ掛かるものを覚えて、すぐに思い当たった。
がさごそとそばの資料箱を漁ると、ファイルを一つ引き出した。そこに書かれた日付を見て、納得がいく。
「なにか!?」
「そういえばそれくらいでしたか。おじいさまがどこかからノックスを持ってきたのも」
ばさりと広げた資料をロックも覗き込む。
それは、ノックスの図解であった。美麗な装甲や、強堅な内部構造まで精緻に描かれている。
だが、描かれているのは頭と胴体だけだ。
「ほう、確かに手足がないな」
「ここから、おじいさまはノックスの手足を作ったんですよ。”今”のも、もちろんここから」
ほう、と感心する声が聞こえて、ユリエルは誇らしくなった。
ノックスの代わりの手足を作るために書かれた”解剖図”は、”おじいさま”が描いたのだ。
おじいさまは死んでしまったけれど、しっかりとここに残っている。そのお陰で、早く新たな手足を作ることができた。
もう声は届けられなくとも、感謝の念を抱かずにはいられない。
でも、と。ふいに気づく。
そう思えるのは”おじいさまが死んだこと”を知っているから。しっかりと、この眼で死んだ姿を見たから。
──ロックにはまだ、わからない。
ただ、行方知れずなだけ。死んでしまったかも知れないし、どこかに生きているかもしれない。
ずっと、心のどこかにそのモヤを抱えていなければいけないのだ。
「お師匠さん、まだみつからないんですよね」
「ああ」
ロックは静かに答えた。
「方々まで探していたが、枝葉もかからない」
「私も、会ってみたいです」
「──そうだな」
少しだけ、ロックは微笑んだ。
「私も良ければ、見てもいいですか。微力でもお手伝いしますよ!」
「そうか。ありがとう」
「じゃあ」とロックが伸ばした手が積み上がったファイルに触れたと思うと、ピタリと止まってしまった。
そして外の方を見たかと思えば、ゆっくりとユリエルへと振り返る。
やっぱり、嫌だったのだろうか。
心のどこかで落ち込みそうになるのを必死に止めていると、ロックは口を開く。
「……なぁ、ユリエル、思い出したんだが」
「なんです?」
嫌なものでも見たような渋顔のロックに首を傾げて、
「学校はいいのか?」
「──あっ」
外の光はずいぶんと明るくなっていた。
●
中央街から少し南に外れた場所に、”ジョン・ファンセム”校がある。
マンチェスターでも大きなこの学校では今日も授業も終わり、多くの学生が帰宅の徒にあった。
時おり馬車に乗り込む学生もいるが、ほとんどは徒歩での帰宅だ。
そのなかに、二人連れ添って歩くユリエルの姿もあった。
「あぁ、今日も授業終わったわぁ!」
「ええ、お疲れさまね、ユリィ」
ぐぅ、と大胆にも背伸びをするユリエルにそう言って笑うのは馴染みのベルディ・ブロストン。
「一緒に歩きで帰るなんて久しぶりな感じね」
「だってベルディはすぐに帰っちゃうんだもの、しょうがないでしょ」
「だって色々家であったものね」
その微笑みに陰りはなくて、ユリエルは心のどこかでほっとする。
以前のブロストン邸事件からしばらく、ベルディは学校に顔を出すことも、共に帰ることも少なくなっていた。
どうも家の方でいくらか起きていた問題を解決していたらしい。
だがそれも済んで、今はこうして共に帰ることができる。それが、嬉しい。
何も気に病む様子もなく笑顔を見せてくれることが、また嬉しかった。
「ユリィは最近どうなの。ずっと馬車だったのにいつのまにやら歩きに戻っちゃって」
「あれは一時的なもの。もう終わったから」
かつては馬車で送られていたものだけれども、あれは登下校の護衛もかねて、ロックが用意立ててくれたもの。
そのきっかけであるベロムズは、すでに──そう、すでに逮捕されたのだ。なら、もう要らない。
ずっと乗っているのは殻に閉じ籠っているようで窮屈だったから、ちょうどよかった。
「──うぅむ……」
大きな通りを一つ、跨いだときのこと。立ち止まったベルディが唸るような声をあげた。
どうしたのかと振り向けば、真剣な顔で何度も頷いている。
「そういえば、ここを曲がらないのね」
その言葉が意味することにユリエルは、すぐに思い当たった。
大きな通りはウェイン通り。ここで曲がって家に帰るのが”かつて”のユリエルの帰宅の道であった。
その通りを降りてずっと行けば、アウグストル邸があるのだ。
「あっちの家はたまに様子を見に行ってくるらいだしね。泥棒とか来ても、とるものもないだろうし」
「今もまだ探偵さんのところ? まあ、そっちのほうが楽しいか」
「色々道具とか資料とか持ち込んじゃったしねぇ」
なるほどなるほどと、ベルディは何度も頷いた。
やがて感慨深そうな、少し寂しそうな笑みを浮かべて、
「ユリィにいい彼氏ができて、私も嬉しいわぁ」
「──は、彼氏?」
今、なんと言った?
「まさかねぇ、先を取られるんて思わなかったわ」
羨ましい、とため息を一つ。
「先?」とユリエルはしばし首をかしげて、すぐに顔が紅潮する。
「そ、そんなことないわよ、何もないわよ!」
「何も言ってないんだけどなぁ」
ベルディがにやりと笑うものだから、むっつりと頬を膨らませる。
「なぁにを想像したの? 連想したの?」
「なんにもない!」
覗き込んでくるベルディから、顔を背ける。だけれどもすぐに追ってくるから。どうしようもなくて叫んだ。
「なんだってそんなこと言うのよ!」
「逃げた悪人からの避難先に、事件が終わっても居つくなんて何かあると思うじゃない──そういえば、朝も来るの遅かったわね」
そう言われて、今朝のことを思い出す。ロックを泥棒だのあの男だのと、間違えたときのこと。
申し訳なさと恥ずかしさで今度こそ顔を赤く染め手しまうのだが、詳細を知るよしもないベルディには良い餌でしかない。
「ま、まあ色々あるけど、やましいことは何もないわよ!」
「顔を真っ赤にしても、説得力ないわけね」
よくよく考えれば今の状況、なんとまあ大胆なことだろうか。
男の家に居候。なぜそこを気にしていなかったのか。
ノックスの操縦者だから? 資料を置いているから?
クスクスと囁くような笑いがユリエルの頭にこだまする。
グルグル巡る思考に巻き込まれて一層響き渡るので、ユリエルはつい俯いて黙りこくってしまう。
「どうしたの」とベルディが怪訝な顔で覗き込む。
どうしようか、いかにこの場を切り抜けようか。
そのとき、どこかから叫び声のようなものが、耳に届いた。
──叫びというよりは、歓声?
耳をすませば、また一つ、二つと聞こえてくる。どうも何人も声を上げているらしい。
ベルディも気づいたようで顔を上げている。
「あらあの声は何でしょう行ってみましょう!」
「ああもう、ごまかしちゃって」
「何もない!」
クスクスと笑われるのを振り切って、ユリエルは声の方へと駆け出した。
●
走った二人が行き着いたそこは大広場。百年近く前に、革命として衝突が起きていたということを授業で聞いた覚えがある。
その中央を大きく囲うように、人だかりができていた。
スーツを纏った紳士。奉公であろう厚手のエプロンをつけた少年。連れ添った老夫婦や、散歩中の親子。
通りがかった馬車も脚を止めて、街路樹に上る人も、周囲の建物から覗く人もいた。
老いも若きも隔てなく、すべての視線が広場の中央に釘付けになっていた。
そこにあるのは、古びた板の舞台。
そこにいたのは、一人の踊り子。
薄い顔立ち、吸い込まれるような黒髪、そして細身の体を肌も露な衣装に包んで、舞台の上でその艶姿を見せている。
しなやかに舞い、風をそのまま刀身としたような幅広の剣を細身の腕で軽々と見事に扱ってみせる。
毛先、布先、手先の剣が陽光を受けて鮮やかにきらめき、舞を彩る。
淀みなく、まるで風のように動く。
「大陸の、それも極東の衣装ね。きれいだわ……」
「剣を振り回して、危ないわねぇ」
うっとりと見つめていたベルディも、ユリエルの言葉には呆れるように、処置なしとばかりに首を振る。
「あなた、騎士をいじるときはあれくらい無茶してるわよ」
「え、なにそれ」
「まず人手を使いなさいな」
「えぇ? そんなに要らないわよ」
「まったくもぅ……」
言い合いもいつの間にかなくなって、ただただ舞台を見つめていた。
舞台の足元の楽団が奏でる音に合わせ、美女は踊る。だが、ただ剣を振り回しているのではない。
何かを、表現している。そこに、違う”もの”の姿が見える。
──これは舞によって演じられる”劇”だ。
詳しくないユリエルにも、その光景が浮かび上がってくる。
舞はすでに始まっていたこともあって、ユリエルがそれを理解した時には、物語はすでに佳境を迎えていた。
──それは放浪を続ける思い人を待ちきれず、意を決し家を飛び出した乙女の冒険譚。
道中で会った仲間と苦難の旅の末、思い人のもとに追い付くことが叶ったけれど、そこは死闘の決戦場。
重騎士が集まる戦場の中、世界の命運決する戦いに赴かんとする思い人に、乙女は戸惑う。
彼の相手は悪の首魁。乙女すら知る悪の象徴。
せっかく追い付いた彼が、行ってしまう。
迷い、悩み、それでも彼を送り出すと決め、乙女と仲間たちも戦線に加わって、往く道を切り開いていく──
彼女が語らずとも、その舞いだけでその光景が思い浮かんでくる。そのような景色が目に浮かぶ。
ふわりと体の熱が彼女から浮き上がり、霧となって彩りを一つ添えている。
周囲の観客もまた、ボルテージの絶頂と反するようにただただ見入り、静かにその舞を見つめていた。
舞台を縦横に跳ね回るように動いていた踊り子は、舞台の袖、太鼓を奏でていた青年が頭上に掲げた腕に、軽々と飛び乗った。
──その瞬間。
青年は腕を振り上げ、踊り子は縮めた足を一気に解き放った。
そして、皆の視線は空へと移る。わずかにどよめきが漏れた。
観客はまるで餌をねだる雛鳥のように大口を開けて、一様に空を見上げていた。
その上に舞うのは、鳥ではない。人だ。鳥のように剣を広げて、空を舞っている。
ひゅう、と急降下したかと思えばふわりと、まるで木の葉のように静かに降り立った。
木の舞台は軋みもあげず、受け止める。
音楽も止み、彼女ら一同は揃って深く礼をした。
広場は大きな拍手と歓声に包まれた。
みんなが悲鳴のような声をあげて、感激を吐き出している。
”舞台”の周囲、大きく広げられた楽器ケースには次々と貨幣が投じられていた。
遠くから投げるものも居る。近くの建物から入れようとする者もいて、大きく外れてコツリとユリエルの首筋に当たった。
みるみるうちに貨幣の山は膨れ上がっていく。銅や銀に混じって、金貨までも投げ込まれている。
ユリエルとベルディも、揃って銀を一枚投じた。
ずいぶんと掛けてチップの回収を終えた楽団らが消える頃には、パレードのように集まった観客も波が引くように街に流れてしまっていた。
広場に残っていたユリエルは、ほぅと息をつく。
「良いもの、見れましたね」
「ええ」と同意したベルディも、満足げな顔。
あの舞いはとても素晴らしいものだった。その興奮は今も余韻となって体を走る。
息の一つもつかねば、整理もできないほどに心に染み入っていた。
「それにしてもユリィが投げるとはね」
驚きを隠さない様子のベルディに、ユリエルは小首を傾げる。
はて、何かダメだったのだろうか?
「投げちゃいけなかった?」
「いーえ。素晴らしいものにはどんどん投げましょ。……でも正直、ユリィが芸に投げるなんて意外だったから」
「ひどいわ……私だってこういうのに感じ入るものはあるわよ」
「この手のもの、前は全然興味を示していなかったでしょうに。先生も嘆いていたわよ」
それがどうして。
心から不可解とばかりに眼を剥くベルディの反応に、ユリエルはそっと顔を背けた。
そしてポツリと、呟く。
「その……ちょっと、お話を読んで、ね。ああいう芸術も、いいなぁって」
「ちなみに何を読んだの?」
「……ストランド」と曖昧に呟けば、開いた口を隠すように手を当てた。
「あらまた意外。そこのだと、もしかしてホームズ? それも探偵さんから?」
「さっきからひどくない?……まぁ、そう、だけど」
それは確かな事実なので、ユリエルも頷いた。
にやつくベルディの顔がうっとおしい。
──だけれども
「その辺りだと、他にもおすすめできるものもあったりするわよ?」
「そ、そう……ベルディも、読んでいたの?」
えぇ、えぇとベルディは大きく頷く。
「ユリィはそこら辺が足りなかったからね!」
「まぁ、ちょっとは自覚してましたよ」
「いつも”騎士”とかでしょ。だからユリィともそういうお話もできるなんて、良かったわ」
「──ええ、良かった」
満面の笑みのベルディに、ユリエルも笑顔を返した。
●
どこかから金属を打ち付けたような、奇妙な大きな音が響いてきたのは、その時のことであった。
何事かと、ベルディは周囲を見渡した。
「鐘の音?……ロンドン塔じゃあるまいし」
「この音……まさか」
「なにか知ってる?」
険しい顔をするユリエルを怪訝に思って見た、その時である。
広場に通ずる一番大きな道。そこから引き裂くような悲鳴とともに人々が逃げ込んできた。
同じくして、空に一際大きな轟音が響いてくる。
地響きを立て、後ずさるようにして現れたのは近頃噂の『マスクマン』。
白の体に黒の手足と目立つ姿は変わらず、何事かわからぬ人も驚愕の悲鳴を上げている。
『マスクマン』はチラと足元を見たかと思うと、暖かな緑の眼差しを厳しくして、道路の奥へと向けていた。
「あぁら、これって……『マスクマン』!?」
「その通りよ、相手は──……!?」
そして彼を追うようにやって来るのは同じ機械巨人。
細身の足、それに不釣り合いな大きな腕。そして鍔広帽のごとく端が大きく広がった頭。
そこから見える単眼の青の瞳がギョロリと動き、マスクマンを見つめていた。
その眼差しを、頭部を見て、ユリエルは驚く。
「重騎士……どこの奴よ!?」
しっかりと動くその頭部は、決してハリボテではない。
それはつまり、相手もまた重騎士ということだ。
そこらの量産品でない、真正のもの。
「ちょ……ユリィ、それホント!?」
「頭があるでしょう、だからってなにをやりあってるのよあの二機は!」
幅広帽の重騎士が手斧をやたらめったらと振るっては『マスクマン』が籠手で弾き、そらしている。
痺れを切らしたように体当たりを仕掛けるが、『マスクマン』は両手で正面から受け止めた。
鐘のような大きな音が周囲に響き、広場の人間は思わず耳を塞いでしまう。
耳を塞いで顔を歪めながら、ベルディは面白そうにその姿を見上げた。
「『マスクマン』は初めて見たけど……被害を出さないようにしてるのね」
「あー……いつもそうみたいね。町を壊したくないみたいだから」
『マスクマン』──ノックスを操るロックは、普段からそのように心がけている。
マンチェスターを愛しているその姿が誇らしくて思わず微笑む。
その笑みを、ベルディは興味深く覗きこむ。
「詳しいのね。まさか……知ってるの、操縦者」
「ヴぇっ!? し、知らないわよ、ええ! 今のことなんてすぐにわかるでしょ? ベルディもわかったでしょ?」
「まぁ、そうだけど」
呆れながら興味を失った様子のベルディに、ほっと一息。
見上げれば、変わらず二機は戦っている。その動きに、ユリエルは眉を潜めた。
『マスクマン』が幅広帽の大きな腕を取るが、すぐさま振り払われてしまう。
手斧は大振り、かわすのは容易い。しかし『マスクマン』も有効打を見いだせていない。
「なんというか、この光景は……」
「親と子と言いますか……」
暴れん坊の子を親がたしなめあやすような、奇妙な風景であった。
武器をもって振り回しても、全く効果がない。だからといって力を見せても、容易くいなされる。
「たぶん……戦いなれている訳ではないですよね、あの重騎士」
「ええ。『マスクマン』に良い攻撃をできてない」
「でもそっちも手を焼いてないかしら?」
「ええ、そうみたい」
──ノックスが、普通の重騎士に追い付いていない。
『マスクマン』もすべて押さえ込めている訳ではない。
ボロボロに傷ついたその籠手を、ユリエルは苦々しく見つめていた。
下がった『マスクマン』に手斧が振り下ろされるが、半身を引かれたことであっさりとかわされ、石畳を割るだけに終わった。
幅広帽はすぐさま斧を引き出そうとして──動きを止めた。その頭を『マスクマン』が打ち据える。
倒れた幅広帽は起き上がることもなく、じっと辺りを見渡した。
不気味にすら思える青い瞳が、広場の姿を写していく。
二機も暴れたために、広場に人はほとんどいない。
いるのはユリエルのような物好きか、逃げ遅れた人々。周囲につながる路地から不安と好奇を混じ合わせながら顔を覗かせる人もいる。
他に残ったものと言えば、暴れた余波で剥がれた石畳や、中央の大きな樹のそばに楽団が残していった立て看板くらい。
「……なに、何なの、ユリエル」
「さぁ……戦う人まではさすがに私もわからないわ」
その広場にいる誰もが、その姿を怪訝な顔で見つめていた。
幅広帽がゆっくりと立ち上がるのに合わせて『マスクマン』も構えた。
いずれのアクションにも対応できる、常通りの受けの構え。
彼もまたじっと見つめる中、幅広帽は広場に背を向けた。
え、と拍子抜けともいった様子で誰もが見つめるなか、幅広帽は広場から逃げるように去って行く。
『マスクマン』も戸惑うようにしながらも、それを追って行ってしまった。
「なんだったの……?」
「さぁ……?」
静まり返った広場のなか、二人して首をかしげていたときだ。
背後から風が通ったのかと、ユリエルは思った。
頭上を覆う影が、そうでないといっていた。
風ではない、人だ。華麗な衣装を身に纏った女性が、広場を横切って走っていく。
纏った布をなびかせて、人も植栽もすべてを飛び越えすり抜けて、一迅の風のように駆けていく。
彼女が向かうのは大きな道。それは『マスクマン』が行った道。
あっという間に、そこへと消えてしまった。
「あれ、さっきのダンサーさん……?」
なんだったのだろう。また二人して、首を傾げあった。
●
「そんな訳でね、ずいぶんときれいってものだったのよ」
「ほう、そりゃ素晴らしいな」
「見てみたかった」と、隣でロックは大いに顔を歪めるものだから、ユリエルは居高々に薄い胸を張った。
「ベルもそう言ってたんだから、間違いないわよ」
「彼女のお墨付きときたか。ユリエルまでもそう誉めるんだから、相当だな」
「あなたもそう言う!? 良いわよ、それならベルに詳しく聞いてきなさいよ」
「もう全部、君が話しただろう。それに彼女はもう帰った」
「ベルったら、なんでロックと会うといつもでさっさと別れちゃうのかしらね」
「さてな。他になにか用事があったんじゃないか」
「……どうだか」
むう、とユリエルは頬を膨らす。
ロックがひょっこりと顔を出すなり、ベルディは帰っていってしまった。
──彼女はまだ勘違いをしているらしい。
何度言っても聞く耳を持たないのは少々腹立たしいものがある。
何か言ってやろうかと考えつつも、はっきりとした言葉は思い付かない。
「どうした?」
「……さぁて、ね」
不思議そうにするロックもぞんざいにあしらって燻っていると、その横を警察車両が慌ただしく走っていった。
どれもが、二人から遠ざかっていく向き。
それを見た周囲の人は『マスクマン』が現れたと、口々に言っている。
『マスクマン』─ノックス。ユリエルが、そして祖父が手掛けたゴルフォナイト。
ついさっきまで、すぐそこの風呂場で、ユリエルの目の前で戦っていた”騎士”
それが称えられるのは、どこか誇らしい気になる。
行動したのは、隣の男なのだけれど。
「それで、結局なにしてたのよ?」
ロックと合流したのは、つい先程のことだ。
どこか高揚とした気分で聞いたが、相手はどうも曇ったような顔をする。
「事故があってな、雑騎士同士がちょっと。警察は間に合いそうになくて”協力”したんだが、そこに襲いかかってきた」
「ふぅん? なんだってまたそんなこと」
「俺、というかノックスが目当てだったんだろうな」
「……また?」
以前相手にしたベロムズも、ユリエル自身、ひいてはノックスを目の敵にして襲いかかってきた。
まさか同一人物ではないだろう。
「少なくともベロムズじゃあないんだが、誰かもわからん。無闇な攻撃してきて危ないったらしょうがない」
「やっぱり違うのね。まぁそれならまだ良いけど?」
「癖がな、違う。もっと狡猾だったよ、あいつは」
思い出すその表情は、複雑なもの。苦々しいような、面白かったとでも言うように、悲喜交々。
「ロックは追い込まれてたし、相手には良さそうに見えるけど……じゃあなんであいつは逃げたのよ?」
「さぁ、なにを考えてんだかね──川にぶちこめればなぁ。さすがに遠かった」
髪を乱暴に掻いて、ぼやく。
南東のあの広場からして運河は少々遠い。
あの癇癪ぶりを見るに、誘導する間にどんな被害が起きてしまうか、わかったものではなかった。
「だから、あの広場と。でも逃げた理由がロックにも分からない?」
「俺にも全部がすぐにわかるわけじゃないよ」
「ふぅん」
「なんだ」
「いいえ、何でもないわよ」
「しかし、あの広場で舞踊ねぇ……」
面白そうにクツクツ笑うロックを見て、思う。
──ロックにもわからないことはある。
自分でもしっかりと考えなければならない。ずっと彼に頼っていられる訳でもない。
とはいえ、今回の相手の目的を考えても、いくらで首をひねっても、ちっともわからない。
──なぜノックスを襲った。それも重騎士で。
あれは個々の区別が付きやすい。偽装でもしなければ素性は分かりそうなもの。
ノックスもそこらの工夫をした結果が『マスクマン』だ。
ああ、何でだろう。歩きながらも、考えてしまう。
二つも三つも思考を巡らせて、ぼうっとしていたのがいけなかったのだろう。
前から小走りに向かってきていた青年とぶつかってしまった。
「ひゃぁっ!」
「うわっ!?」
尻餅を付きそうになるユリエルの体を、ロックが支えた。
「大丈夫か」
「えぇ、このくらい……ごめんなさいね、そっちは大丈夫かしら?」
「……チッ!」
そのままつんのめるように転んだのは、ハンチング帽からくすんだ金髪をこぼした、細身の青年。
ずれた眼鏡を直すと、ユリエルをにらんで舌打ち一つ。謝罪もなく、そのまま走っていってしまった。
「全くもう、話もしないなんて!」
「無礼なやつも居るもんだな。まあ怪我がなかっただけ幸いだ」
ユリエルは憤慨するが、文句を言おうにも彼は裏路地に駆け込んでしまっている。
「……手持ちには問題ないよな」
「ええ、全く。ホントにぶつかってきただけ。失礼しちゃうわね!」
そういうこともある、何事もなくて良かった。そう笑って、二人は気にも止めずに再び歩きだした。
●
「あらロック、お客さまが来てらっしゃるわよ」
「客?」
探偵事務所への石段を上がろうとしたときのこと。喫茶店《小鳥の宿り木》から顔を出した大家の言葉に、二人は足を止めた。
「ええ、依頼するってお姉さんが一人ね。”こっち”で待ってもらっているわ」
「おや、わざわざすみません」
「いいのよ」と大家も笑う。喫茶店としても結構な上客だったらしい。
稼ぎ等は考えていなくとも「それはそれ」とのこと。
「それにしても、ずいぶんと頑張っているようじゃない」
「ちゃんと家賃は払えていますよ」
「そうじゃないの……依頼がある、だなんて人がもう一人来てたのよ」
「へぇ、それは珍しい」
ロックも思わず声をあげた。
だが、一気に二つも依頼が舞い込むなんてことはなかったのだ。
大きな期待に、ロックの口もつり上がる。
「もしやその人も中に?」
「あいにくね、中に入れようとしたら嫌だったのか、すっ飛んでっちゃったのよ」
「それは残念」
「ホントにねぇ」
うなだれたロックの言葉に、大家も同意を示す。
「でももしかしたら会えたかとも思ったんだけどね。その人が行ったのと、同じ方から二人は来たんだし」
「その人の特徴、わかったりします?」
追いかけそうなロックの必死さが少しおかしくて、ユリエルは笑いをこらえた。
そのことも気づかずに大家は、「えっと……」と思い返すように紅を引いた唇に指を当て、
「灰のハンチングに眼鏡をかけて、細くて長い体。金髪の若い男よ」
へぇと思い返して、ユリエルの顔が歪む。
「……それ、さっき見たような」
「あら、ほんと? 入れ違いだったし、惜しいことをしちゃったかしら。でもずいぶん急いでいたしねぇ」
ユリエルがポツリとこぼせば、大家は悔やむように頬に手を当てる。
振り返ることもなく、二人は顔を見合わせた。
それは間違いなく、先程ぶつかった青年の特徴であった。




