2.血の臭い
探偵事務所から馬車でしばらく進んだ先の小さな屋敷が、ユリエルの住まう家であった。
レンガの壁や塀にツタを這わせたままだったりと、少々植栽の手入れが雑なのが、ロックは勿体なく思った。
正面玄関への道に飛び出た繁みをかき分けていたユリエルが、ふとしたように言った。
「そういえば招待客は久し振りですね。しかもそれが、探偵なんて。いつもは呼んでない客ばかりですから」
「へぇ……まさか泥棒でも?」
「そちらがマシでしたよ。子供からお調子者のオジサンまでよく来るんです。度胸試しだそうで」
「となるとここは幽霊城か化物屋敷?」
「みなさんそう仰るんです」
はぁ、と心底うんざりしたようにため息をつく。
誰も住んでいないのでは、とも怪しまれる幽霊屋敷の扱いをされていたことを、ロックは聞いたことがある。
物音やら奇声やらを聞くものだから正しく"それ"だったのだが、しっかりと人が住んでいた。
それがこの少女であったとは、ロックも意外ではあったが。
小さな庭を進んだ先にある屋敷、その奥ほどにある一室が事件の現場だとユリエルは言う。
「こちらが、研究室になります」
荒れ気味の庭が見る影もないほどに、廊下は埃もない。
なぜか紙がそこら中に散らばった廊下を抜けた先に、ポツンと研究室の扉があった。
その扉を開けると溢れた血の臭いに、ロックは顔をしかめた。
「ずいぶんとひどいなぁ、こりゃぁ」
「ええ……やっぱり、そうでしょう」
案内をしたユリエルも、顔を強ばらせている。その手の震えをそっとなだめて、ロックは中に入る。
暗い部屋も明かりをつければランプをかざせば、その全貌を見せた。
窓もない彩った壁紙もない無機質な室内には、研究用と思われる資料棚と作業机が多くを閉めている。
その部屋の中央、ばらまかれた資料のなかで、老人が一人倒れていた。
薄くなった白髪と鷲鼻の男。彼がジルスト・アウグストル。
腹からおびただしく溢れた血は生乾きになっている。その体は、すでに冷たくなっていた。
その顔は苦悶に歪み険しい顔になっている。まるで憎悪とも悔恨ともとれる鋭い眼光が、そこにあった。
──死んでいるというのになぁ
悔しかったのか、憎かったのか、ロックにはわからない。
だが生気のないはずの眼に、威圧されるように感じた。
「まだ軟らかいな。死後そう間もないか」
そっと触れて、意外なようにロックは言った。
「私が学校から帰ってきて、見つけたときには、もうすでに死んでいました」
「それで”師匠”のところにか」
「はい……おじいさまも、以前に、そう……」
震えるユリエルは涙を溢し、俯いた。嗚咽が漏れ聞こえても、ジルストは身動きもしない。
ロックはただ、彼の力強く見開かれた眼をそっと閉じて、黙祷を捧げた。
──ユリエルが学校から帰ると、廊下に祖父の研究資料が散らばっていたという。
行き詰まりあげく資料等をばらまいてしまうのはたまに祖父がやっていたこと。だから最初は疑わなかった。
だが祖父を呼んでも返事もなく、怪しんで研究室に入れば、息を引き取った祖父を見つけてしまったという。
"祖父ジルストを殺した犯人を見つけてほしい"。
それが、ユリエルの依頼だった。
●
早速ロックは検分にかかった。
ジロジロと、なめ回すように部屋中を物色する。
棚にきれいに整頓された資料のなか、一ヶ所だけ大きく空間が空き、ファイルが傾き倒れた場所がある。
研究室や廊下にばらまかれた資料はここから持ち出されたものだろう。
ばらまかれた資料を拾い上げる。血に濡れていないものはいくらかの束の中の一枚と見え、理論を書き連ねたものや、設計図らしきものもあった。
手に取った資料に描かれていたのは、機械の手。それもかなり複雑、精緻なもの。
それにロックは見覚えがあった。たしか工事現場で雑騎士の整備を見たときに、似た構造があった。
「博士は雑騎士でも研究していたのか?」
「……いいえ、違います」
涙声のまま、ユリエルははっきりと否定した。
「重騎士です、正確には。純正の”騎士”ですよ。祖父が研究していたのは」
「なるほどね」
ロックは一人、納得がいったように頷いた。
となると、ロックに引っ掛かることが一点。
全くもって、この一帯はただの戸締まりしか、障害がない。
殺人現場に付き物の”揃いの姿”がどこにもない。
「それで、本当に警察への通報はしてないのですか?」
「えぇ、全く」
何がいけないのか、とばかりにユリエルは首を傾げるものだから、ロックは苦い顔をする。
「祖父は、昔になにかトラブルがあったようで……とにかく警察は嫌ってましたから。信用ならんといつも言っていましたよ」
「まぁ、たまにいるわな、警察嫌いも」
「ええ。どうも家に近寄らせたくないみたいでしたし、おじいさまの言う事ですから」
ユリエルはコクリと頷く。
どうもただそれだけとあって、拍子抜けする思いであった。
頼りなくはあっても、ロックとしては面倒なことを押し付けるとこもできて重宝するのだが。
「頼るのはエリック・セイムズだとも、いつも言っていました」
「嬉しいね、そう言ってくれるのは」
師匠を頼られていたというのは、ロックには誇らしい。それも警察よりもいいと言ってくれるのだからなおさらだ。
だが、同時に申し訳なくも思う。その”師匠”は、今は居ない。どこにいるのかは、ロックも知らない。
いつか師が帰ってくることを願い、事務所を維持するのが今の務めとロックは心に決めている。
そして何より、彼女は依頼者なのだ。悲痛な思いに胸を引き裂かれそうにしている。
──師も、それを見過ごすのを、何より嫌っていた。
せっかく手掛けることになった大きな事件。
「この犯人、必ず突き止めて見せます」
大きく胸を張って、毅然と言った。
●
重騎士。それは現代の神秘とも言われる機械巨人。
雑騎士の原型であるが、真価を発揮する姿を見たことがあるものは、そういない。
割合手頃な─それでも一年食えるほどには高いが─雑騎士に比べて高級ゆえ、持つのは上流階級が主。
財産をなしたものが箔付けに重騎士を購入することがあるほどには、”格”を持つ代物だ。
その重騎士研究家が殺され、いくらかの資料も盗まれた。
「ふぅん……なるほどねぇ……」
真っ赤に染まった資料を見つめて、ロックはポツリと呟いた。
血がベットリとついたお陰で、読むのも一苦労だろう。
そこへ、柔らかな鈴のような声がかけられる。
「──こちらをどうぞ」
「おや、ありがとうございます──良い具合に酢と胡椒が利いてるな」
ユリエルの差し出したサンドイッチをロックはむさぼる。
添えられた瑞々しい葉が鶏肉とよく合い、酸味のきいたソースがよく絡まっている。
ユリエルもまた手にとって、食べ始めた。
小さな口でついばんでいくのを興味深そうに見ていたのにユリエルが気付き、眉をひそめる。
「……なんですか」
「あれだけ動揺していたわりにはよく料理まで気が回った上で、食べられるな」
「まだ驚いてます」
ぼそぼそと食べ、呑み込む。
「まだ、悲しいのは確かです。でもおじいさまはよく言ってたんですよ」
「なんてだい?」
「『どうにもならない怒りと悲しみは枕の上で。寝るときなら時間も一杯。きっと心労もどこかへ飛んでいく』」
「なんとまぁ……強いことで」
「おじいさまはいつもそう。こんな時に動揺は見せません。ひとまずは泣きました。だから、犯人を探します」
そういうユリエルの眼は、じっと布をかけられた祖父の姿を見つめていた。
「それで、なにかわかりました……?」
「ある程度は」
恐る恐る尋ねるユリエルに、あっさりとロックは答えた。
「まず犯人だが、恐らく知り合い、少なくとも同業の方でしょう。資料ばかりが盗まれてる」
「やっぱり、ですか」
「金目当てなら重騎士の部品を持っていっても良いはず。あれは良い稼ぎになりますから」
”地中から掘り起こされて”市場に流れるのが重騎士。パーツでも良い値段がつくことはままあることだ。
「廊下に落ちていたのがそれということはないでしょう?」
「盗まれた量には全くもって足りません」
──その研究対象は”重”か”雑”かは定かでないけれど。
その言葉にユリエルはそう驚いた様子はない。淀みなく答える言動から、いくらか落ち着いたようだ。
「心当たりはあるか?」
「いえ。ただ確か何人の知り合いがおられたそうですが、ここ数年は連絡をとってないそうです」
「そうか」
廊下に落ちていた資料の上には、くっきりと足跡が残っていた。資料をこぼしながらも逃げていたが、踏んでしまってへばりつき、邪魔だからと取ったのだろう。
「もう、困っちゃいますよ。資料が血まみれ土汚れに穴だらけ!せっかくのおじいさまの物なのに……!」
いくらか平静を取り戻したユリエルは、部屋の惨状に改めて憤慨している。
「そうだろうな。こんなに汚れて、こうまでくっきり足跡が残っている」
「おじいさまは実験には邪魔だからていっつもきれいにしてたっていうのに、ひどいですよね!」
「全くだ。だが、ちょうどよかったよ」
ロックが手にしていた紙には、靴の溝に沿って土の山がへばりついていた。
それを目にして土を払おうとするユリエルを、ロックは止める。
不満を露にする彼女へと、そっと言った。
「こいつは重要な証拠だ──さて。依頼は、犯人の場所を探してほしいという話だったか」
「ええ。資料が束でいくつか足りないし、おじいさまの仇も取りたい。取り返さないといけないんです!」
「じゃあ会ってみようか。準備をお願いします」
息巻くユリエルだったが、その言葉には目を丸くし、言葉を止めた。
「え、それって、どこに……まさか、犯人が!?」
「近くまでは行けそうですからね。とりあえず行ってみよう」
「──すぐに準備しますから!」
足跡のついた紙を示しながら不敵な笑みを見せられて、ユリエルは研究室を飛び出した。