もう戻れない
都内のワンルームマンションの一室に男はいた。
いつもと変わらず宅配の弁当を食べ終え、PCの電源を入れたその時、急激な胸の痛みを感じ風呂場へ駆け込んだ。
おさまるどころか痛みは突き上げてくるように全身を巡り、男は吐血して浴槽に倒れこむ。血が喉に溜まって呼吸が出来ず声も出せない。いつもは肌身離さず持っているスマートフォンは部屋のPCの横に置いてきた。
目の前が暗くなっていく。
人は死ぬ前に走馬灯のようにこれまでの人生がフラッシュバックされると聞いたことがあったがそんなものは無いと今になってわかった。
人とは宇宙とは死とはあの世とは何なのか、考えたことはあったがまさかこんなところで…最後くらい家族に会いたかったな…。
暗闇がどんどん広がっていく。
男の名は綾野 鷹。ごく普通の家庭に3人兄弟の長男として生まれた。
両親は共働きであったが子供に対する期待は大きかったのだろうか、鷹は小学校が終わると学童保育の後に水泳、剣道、そろばん、塾と書道を習うようになる。すべて両親が決めたことである。
小学生でこのスケジュールをこなすというのは社会人からみるとハードなように思えるが実際中身は遊び半分であった。
友達はすぐに出来るタイプだったし、持ち前の明るさで特段人間関係に困るようなことはなかった。
だが中学校に入ると父はより厳しくなり、鷹の模試や学校のテスト結果が少しでも悪いと顔や頭を殴る蹴る、ベランダや家の外へ締め出されることも頻繁にあった。
あまりの厳しさに母は鷹を庇ったが、怒った父は母にも暴力をふるうようになった。
反抗期の鷹が反論や殴り合いのケンカをするようになるまでは父の躾という名の愛のムチなのか、自分への憎しみからの暴力なのかは区別できずにいた。
鷹の動きを観察して動くのが弟の亮だ。
年は鷹の3つ下なのだが、鷹の行く先には常についてくる。鷹と同じ物を食べ、鷹の友達と遊び、鷹の失敗を教訓にして育つ。
兄の鷹とは違い勉強はイマイチであったが運動神経に秀でており、空手のインターハイに出場する程だった。名門校からの推薦もあり実家を出るのは早かった。亮にも期待を寄せていた父は鷹同様に厳しくあたったが、高校に入り父と体格差が逆転した亮は父と口論の末に殴り合いとなり、鼻と眼の骨を折る大怪我をさせてしまった。
包帯や眼帯をして顔を腫らした父が会社でどのような目で見られるのか、亮にはそこまで考えが及ばなかった。
それ以降、父との仲はギクシャクし始め、実家へ戻ってくることが少なくなった。
怒る相手がいなくなった父に懐いていたのは妹の菜季である。
菜季は亮のさらに3歳年下になるが、兄2人とは違い両親の言いつけをしっかりと守り、頭が良い上に運動も出来た。まさに兄弟2人の良い所だけを集めたような妹であり、両親は菜季の望むものは何でも用意した。
クラシックバレエの靴に衣裳、グランドピアノやギター、スノーボードまで買い揃えたが大半は途中で飽きてしまい、使わない楽器や衣装で菜季の部屋は散らかっていた。
鷹の家から自転車で15分程の距離に祖父母の家があった。祖父の口癖は決まって
「俺様は社長だ。だから時間は自分の自由に使えるんだ。」
内容は中古の自動車部品を売買する自営業である。
祖父は毎週日曜日の午後にタバコを吸いながら熱燗を呑み、市場で買ってきたおでんや刺身を肴に競馬中継を見るのが大好きだった。赤鉛筆を耳に挟んで何番の馬券を買ってくれと誰かに電話をしている。
幼い鷹には何が面白いのかさっぱりわからなかった。それよりも自分が見ていたウルトラマンにチャンネルを早く戻してもらいたいと思っていたし、祖父が食べているおでんが美味しそうに見えたので横から箸を出してほとんど食べてしまった。
「あれ、俺様の肴がない、ちぇっ。」
祖父は全く怒らなかった。肴が無いなら無いで戸棚から柿の種を出してきてポリポリやり始めた。
競馬が終わると時々上機嫌で近所のお寿司屋さんへ連れて行ってくれた。馬券が当たったのだろうか。「鷹、何でも好きなもの頼め。大将!俺は熱燗2合とお造りおまかせで!」
父親と違って太っ腹な人だ。
父親は自分よりも高いものを子供が注文することが許せない性分であった。体育会やサラリーマンの序列を家庭にも持ち込んでいるのか、鷹は自分の父親と祖父を自分の中で密かに天秤にかけていた。
そして自然と居心地がいいと感じた祖父母宅へ頻繁に通うようになっていた。
鷹を含めて祖父には孫が10人以上いるのだが、誰が家にやって来ても祖父は年齢によって対応を変えることができた。保育園児の積み木の遊びに付き合う事もあれば小学生には将棋とトランプやオセロ、中学生には百人一首や魚釣り、高校生には自身の経験した太平洋戦争の話に歴史文学や麻雀、進路の相談まで受ける。
何でもこなせるマルチタレントであり、頭は禿げて光っているのだがそれを差し引いても格好良いと思える男であった。
鷹が大学に入って3年目に祖父は胃がんを患った。
あれほどヘビースモーカーだった男が全くタバコを吸わない姿にも驚いたが、何よりも驚いたのは別人のように痩せ細ってしまったことだ。医者からは家族に対してがんが転移していることを伝えられた。
鷹が見舞に行くと祖父は痛みをやわらげる為にモルヒネを投与された状態だった。病室は6階だったが、窓の外にいる知り合いを呼んでほしいと言ったりテレビのリモコンを耳にあてて誰かと話している。
最初は笑っていた鷹も病室を出た瞬間に涙がこぼれた。
あれだけ豪快だった男の姿を哀れみの目で見ることがつらかった。
その1週間後に祖父は亡くなった。