始まりはハードモード
何でも初期衝動に勝るものはないと俺は思っている。何となく自分の中で良いと思ってやってみたことって、後であまり後悔しないことの方が多い気はしないだろうか。所謂直感って奴は、何故かよく分からないが、よく当たる。事実俺はガキの頃に見たあのテレビ中継のおかげで8年間もサッカーを続けることが出来たし、あの音楽家の伝記マンガで興味を持ったピアノだって、合唱コンの伴者を担当するくらいには上達した。それはやめたくなる時も何度かあったけれど、その度になんとか俺をつなぎ止めようとしてくれたのはきっとあの時の初期衝動たちだったのではないかと思う。あの時確かに俺の中に残った、憧れやら興奮やらが混じった感情が、俺を突き動かしてくれていたのではないかと。だからここまで続けて来られたのではないかと。だから両方ともやっていて良かったと、結果的にはそう思っているわけである。まあそれでも直感ってやつに確証は無い。だからこれは完全に俺の経験則。この持論を誰かに押し付けるつもりはない。だが今回も俺としてはこいつを信じてみようと思う。そう、この高1の春、この神奈川県立南山高校で、俺、高田渚は、軽音楽部に入部する予定でいる。とまあどこかのラノベのプロローグ風にこの決意についての理由付けを駅から高校までの通学路の途中で、まだ完治しきらない厨二心のもと一人考えていた。大丈夫だ、外からは誰にも俺の腹の内などわかるまい。もっとも、俺の外見がどう見えているかはわからないが。今しがた隣を歩いていた人が、俺の横を避けていったような気もするが。まあそれはいいとして、次はその決意に至ったきっかけについて思い起こそうか。あれは中学3年の冬、受験期真っ只中。塾から戻り、メシを食っているときにたまたま点いていた「ミュージックサブウェイ」に、彼らは出演していた。彼らの名はthe HERNESという初登場にして人気上昇中、とのロックバンドだった。俺は当時音楽聴くといったらJ-POPくらいしか聴かなかったからそういった路線には全く疎かった。こういう音楽って一体どういうものなのだろうと、そんな腹づもりで見ていたのだが、気づくと俺は茶碗と箸を持ったままその場で釘付けになっていた。初めの躰中を一気に電流が駆け巡るような、そして途中いつの間にか口元が緩んでいるような。どこか覚えのある、それでいて明らかに最初で最後の、新しく世界の広がる感覚を俺は確かに感じた。それからというもの俺の音楽プレーヤーの中身はすっかりエルネスをはじめとするロックバンド達によってものの見事に更新されていった。するとそのうち今度は自分が実際に演奏をしてみたいという流れがやって来る。次に始まる新生活、そうだ、高校には軽音楽部があるじゃないか。こうして軽音楽部入部へと決意を固めていったのである。俺のような根暗、もっと言えば枝の先まで陰っているような人間が入って良いような世界ではないような気もするが、そ、そんなことで引き下がるような俺ではない、断じて。と、一抹の不安を吹き飛ばすべく勢いよく鼻をふくらませ、改めて心中で決意を固め終わったところでちょうどよく校門前に到着した。校門前には「入学おめでとう」と書かれた看板が立てられていた。今日は新一年生を迎える入学式の日なのだ。他の新一年生と思しき学生たちにつられ、俺もこの校門前をくぐり抜けていく。この神奈川県立南山高校、通称南高は、小羽駅南口をでて徒歩10分ほどの所に位置する。何度か信号を渡りながら道なりに歩いていると、この少し古びた校舎が見える。去年が創立70年とかだったからまあこんなものだろう。校門を入った所から見て右側に3階建ての、左側に7階建ての校舎がふたつ分かれて建っている。右側は集会用のホールなどが設置されていて、学生が普段授業を受けるのは左側の校舎になる。この2つの校舎をつなぐ渡り廊下みたいなものが2階と3階に通っていて、2階の方は校門を入ってすぐの所にあるこの大きな階段ともつながっている。左校舎の1階は職員室や保健室があるので、普段であれば学生はこの大階段を上って左の2階校舎に入っていくのだろう。このふたつの校舎の奥にはグラウンドが見え、右の校舎のさらに右の方にはテニスコートが見える。外観で俺が知りうるのはこのくらい。南高に関しては一度学校説明会に行ったくらいで、文化祭なども一回も見に行ってないので校舎の中についてはまだ詳しく知らない状態なのだ。ならばどうしてここに入ったのかと聞かれると、まずひとつはシンプルに学力だろう。偏差値は中の上あたりにいるこの高校は俺の学力とちょうど釣り合っていた。進学率もそれほど悪くなく、まあ進学校と自称しても差し支えないレベルにあると思う。そしてもうひとつは家からの近さだ。いかに早く、そして乗り換えを少なくして家から学校へたどり着くか。これは俺のような陰キャにとっては死活問題であり、人生のテーマの一つと言ってもいい。いかにあのクソごった返した駅電車内の滞在時間を減らすか。きっとあの空間は徐々に俺の体力、そして精神をも吸い尽くしていくことは目に見えている。何としても俺は登校までに受ける毎日の固定ダメージ(いや可変ともいえるか)を最低限にとどめるため、家から二駅のこの高校を選ぶことにした。ぶっちゃけこちらの方が志望理由としては強いかもしれない。正直将来のこと云々かんぬんを考え高校を選ぶということが俺にはまだよく全くわからなかった。いや待て、アクセシビリティを意識することもある意味自分の将来について考えられているとは言えないだろうか。こうして自分自身に感心しつつ、校門を入った大きな階段を上り、右側のメインではない校舎の方へ進み、三階へと上がっていく。すると「入学式会場」と書かれた看板が、体育館(大ホール)の前に立っていた。そのまま特に何の変哲もない普通の体育館の中へそろそろとキョロキョロと入っていく。床一面に敷かれた深緑のシートの上に、折り畳み式の椅子たちがずらりと並んでいる。開始まで十五分くらい前であるが、もう結構な数の生徒たちがそこに着席していた。
「キミこれクラス表ね」
入口に入ってすぐの所にいる教員が、クラスと名前が書かれた紙を渡してきた。
「あっ、どうも」
しかしこの紙切れの及ぼす陰キャへの影響は大きい。毎年俺たちが必死に作り上げた人間関係など、この紙切れの前では意味をなさない。奴らが俺たちに教えるのは、不条理な現実だ。この半強制的ともいえるシャッフルによって新しく改変された配列と要素たちは、まるで先ほどの大移動の余韻を全く残さぬかのように、平然とそこに佇んでいる。この薄っぺらいたかが紙切れ一枚に、俺たちが翻弄させられていることもいざ知らず。いやしかし今年は入学の年である。そこにシャッフルの概念はない。しかも高校からは違う地区同士の人間が集まるので、まだほぼ何もデータは入っていない。だから普段ほどこいつに嫌悪は抱かない。すべては自分次第なのだ。よって言い訳は効かない。
(俺の名前は…っと)
四組のところに俺の名前があった。一学年七クラスなので、ちょうど真ん中の列だ。クラスごとに二列ずつ、出席番号順に並んでいる。速やかに四組列へ向かい、左列後ろの方の、自分の出席番号の書かれた椅子へ座る。隣にはもう先に男子が座っていた。メガネをかけ、高1と言うには少し大人びた、真面目そうな好青年、という感じだった。凛々しい面持ちで、一点をみつめていた。きっと彼も緊張しているのだろうか、そのすらりと伸びた細身の体が、微動だにしていない。ここはお互いの緊張をほぐすためにも、挨拶を交わすべきだろう、入学式の時点で友達が出来ているなんて、俺にしては上出来じゃないか。辺りを見回しても、さすがにまだ仲良く会話を交わしているような学生はほとんどいなかった。この200人を超える生徒たちの中で圧倒的アドバンテージを我が手中におさめるべく、俺は口を開いた。
「あ、あの、、、おれ」
気付いてしまった。彼の視線の先は、隣のクラス列に座っている女子の、スカートからのぞく太ももであった。彼は顎に手をあて、何か哲学的難題について思惟でもするかのようにそのただ一点をみつめていた。そしていぶかしげに鼻をならし、眉間にしわを寄せている。俺は悟った。こいつは後回しだ、と。クラス全体でも最後の方に攻略するタイプの奴だ、と。そう思った瞬間、彼の横に歩いてきたうちのクラスと思わしき女子が
「あのここ私の席だと思うんですけど、、、」
思わず席から上京芸人ばりの転げ落ちを見せるところだった。大体の雰囲気で分からんか。受付の人も出席番号順って言ってたじゃん。
「そうなんすか。じゃ俺前の方か」
と、特に動揺する様子も見せず彼はそう言って前の方へ歩いて行った。そして俺は彼と入れ替わった女子ととりあえず会釈を交わした。その後は特に何も話さなかった。いや、話せませんでした。
入学式は終わり、あとはクラスごとに教室でのオリエンテーションとのことだった。担任につれられて俺たちは一年の教室がある5階へと上がっていく。なるほど学年があがるごとに階が一つ下がっていく仕組みなのか、3階と4階からは非常に賑やかな声が聞こえてくる。俺たち新入生の中ではまだ新しくできた友達と会話をしているような学生も見当たらず、みんなどこか不安げな様子だ。さすがにこれくらいの学力の高校ともなると、最初からへまをやらかすような奴もそういない。高校にもなってくると、よりその学校独自の雰囲気、カラーというものがでてくる。不思議なことに、似たような感性をもった学生が集まってくるのだ。安心しろ、皆不安なんだ。そう心の中で自分に言い聞かせ、教室へと入っていく。1-4はちょうど校舎の角に位置する場所にあった。西向きの窓をもつこの教室は、夕方になれば太陽の光を一杯に浴び、夏はかなり熱くなりそうだ。
「じゃあとりあえずぅ、出席番号順に座ってってくれぇ」
担任のナカザワ?が教室に入っていく生徒たちに声をかける。俺の席は、ちょうど真ん中列の、一番前の席だった。くそ。生徒全員が自分の席に着き終わると、その少しぽてっとした小柄な初老教師が、
「とりあえず、みなさん、入学おめでとうぅ。俺が4組担任の中澤征之だ。これから一年みんなとHRや担当授業で過ごしていく事になりますぅ。担当授業は現文でぇ、、、」
と、その語尾を伸ばす特徴のある口調で自己紹介を始めた。まあまあしっかりと話を聞いていると、時折冗談を交えながら、生徒たちの笑いを誘っている。そしてそれに合わせて何人かがははは、、、と笑っている。いやしかしこういう時に笑える奴らって偉いよなあ。たとえ内容がつまらなかろうがちゃんと愛想良く人の話を聞いていられる。対照的に自分は、本当に心から面白いと思わなければ、表情ひとつ変えられない。そんな俺にとって彼らはどこか遠い存在のように感じられ、同時に憧れすら抱きそうになる。しかしなぜだか昔から、クラス全体が笑っているような瞬間に、それに合わせ自分も一緒になって笑うような事を俺はひどく避けていた。なぜだか絶対に笑ってやるものかという矜持というか、意地があった。そういった感覚をガキの頃から持ち続け、愛想をほとんど身に付けることなく、ここまで育ってしまったわけだ。きっとこの先治る事もないのだろうか。そうして俺は終始最前列で表情ひとつ変えることもなくこの担任の自己紹介を聞いていた。でもしかしこのオジサン、別によくいるネチネチとしためんどくさいタイプではなさそうだし、早くも良い担任に当たったのではないかと思う、これは本当に。担任の自己紹介云々は終わり、そしてその次はおそらく、いや必然的に、
「じゃあ次はみんなの自己紹介をしてもらおうかぁ」
だろうな。ここからが俺たちの最初の見せ場だ。第一印象が決め手のこの社会で、俺たちがアピールしうる最も重要な機会のひとつ。それが自己紹介。ここを制すものは、春を制す。周りの生徒たちからも、まるで臨戦態勢に入ったかのような空気を感じた。俺が勝手に。そして出席番号順に自己紹介が始まっていく。まだ考える猶予はある。どうする、小ボケを入れて笑いを取るか、それともユニークな趣味や特技で興味を引くか。どちらも確率はそう高くない。ひとつにタイミング。前の奴が結構ウケた後にやってもなかなか成功は見込めない。まあ運要素もあるか。そしてこれを言ってしまえばお終いになるかもしれないが、その人間の持つ雰囲気だろう。なぜか同じことを言っていたり、考えているつもりなのに、周りの反応が全く違うということがある。思うにウケるかどうかは、話す前から7割くらいは決まっているのではないか。明らかに陽キャの方が、大して面白い事も言っていない癖にウケがいいのは何故なのだろうか。おそらくそういう雰囲気を持った人間は、声に出す前から聞き手の承認を受けている。彼らはとても俺のような仏頂面の奴が話しても全くウケないようなネタを平気で使い倒し、好印象をつかみ取る。まあ要するに俺の持つキャラか。如何せん、キャラ付けというものは恐ろしい。
「ああ、こいつはクラスでボケをかますような奴ではないな」
こう思われてしまったらどうしようもない。人間は多分に無意識にこういったタイプ分けを行っている。そうだ、俺たち根暗キャラは、笑いを取るというその行動以前に、資格が不十分であるのだ。とそこに、自分の番が回ってくるまでは他人の自己紹介なぞ全く頭に入ってこないタイプの俺の耳にもはっきりと、生徒たちのさっきの愛想笑いとは打って変わった本当の、生きた笑い声が聞こえてくる。誰だ、誰がウケたんだ。そう思ってようやくずっと最前列で黒板に向けていたその体を、笑いの生みの親の方へと動かす。するとその正体は、あのメガネだった。真面目な顔して堂々とスケベをかましていた、あの彼だった。彼はしてやったり、という表情などは全くその比較的端正な顔立ちに見せることもなく、細めの黒縁フレームの両端を二本指で上げなおしながら姿勢よく着席した。一体何を言ったというのだろうか。さすがに女子もいる面前で、ドきつい下ネタを言うわけにもいくまい。ちなみに南校の男女比は3:7である。だから、猶更言えるわけがない。
「上村健太郎でーす!出身はー」
明らかに陽キャっぽい男子学生のターンになったところで、再び向き直って自分の内容について考え始める。が、思いつかない。あのメガネを超えるボケが。てかなんでアイツと勝負しようとしてんだよ、俺は。俺にしかないような個人情報、特技、趣味、面白い話、第一印象、、、。そうこう考えていると、
「じゃあ~次、三列目の人ね」
すぐに俺の番は来た。とりあえず生徒の方を向き、スッと背筋を伸ばした。なるべく聞き手との目が合わぬよう、後ろのまだ何も張られていないコルクボードの方を見ることにした。そして、ひと呼吸おきー
「田野西中から来ました、、、高田渚です、、、女っぽい名前ですけど、ちゃんと男です、、、よろしくお願いします」
と、とてつもなくつまらない自己紹介を、愛想の無いこわばった表情で終えていた。自分で表情が変わっていないことが分かるくらいなので、他人からは相当な仏頂面に見えていたことだろう。隣の席の女子にチラリと目をやると、こちらに微笑みを見せてくれているのが分かる。がしかしその微笑はどこか少し無理やり気に見えた、気がした。うわぁ、マジでありがとう、そしてごめんなさい。再び席に着いた後はだらりと脇の下を落ちる冷や汗を乾かすことに必死で、その後の生徒たちの自己紹介も全く耳に入ってこなかった。
生徒全員の番が終わると、時間割やら今後の日程やらを、担任がゆっくりと、しかしよどみなく説明していく。きっとその教師人生の中で何十回と同じやりとりを繰り返してきたのだろう。ひとしきり終わったところで、
「じゃあまあ今日はこれくらいしかやることないんで、終わりにしましょうかぁ」
早い。まあ初日はこんなものか。そしてやはりゆるいよ、この口調。
「この後は帰宅してもらってもかまいません。あ、あと部活見学も行っていいと思うよぅ。上級生も今日は君らと同じくらいの時間で終わるから、部活開始も早いと思うしねぇ」
と言って担任は教室の扉をガラガラと開け、出て行ってしまった。え?終わったの?という風に後ろがざわざわし始め、はじめましての会話が各所で行われていく。ならば俺もこのビックウェーブに乗るしかあるまい。スッと後ろを振り返り、会話の機会を伺おうとした。しかしその瞬間今更気が付く。俺の席周りは女子で固められていたのだった。その普段よりワントーンは上がっているであろう清廉な声でコミュニケーションを取っている。そんな状況に今更気が付いた俺はふぅ、と一息心を落ち着かせようとしたが、如何せん話しかけることは出来そうにない。ダメだ、今の俺にはまだ早い。なぜならば俺はRPGでもきっちりパーティー全員のレベルが上がるまでは次のシナリオに行かないタイプだもの!、よってさっきのメガネや女の子は後回し!、などと自分でもギリギリ納得がいくくらいの脆弱な言い訳を脳内で唱え、早々に荷物をまとめ始める。まあ分かっていたけれどね、別に。もう何度となく繰り返した新学期の焦燥や不安、そして失敗。それが高校生になったからと言って、そう簡単に無くなるものではない。急に全てが上手くいくわけでもない。新学期には少しのサプライズやハプニングがついて当然というものだろう。いつだって始まりはハードモード。こうして俺は一人、クラスの誰よりも早く教室を後にした。