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奇跡と軌跡の終点

作者: 海岳悠

【作者の思い】

障がいへの理解はとても難しい。

今回の作品は、そこを切り込んだ話なので一緒に考えて欲しい。

何が正解なのか。

 また、ここに来られた。あのときは一人だったけれど、今回は隣に彼女がいる。義夫ヨシオは深い谷底から空を見上げた。

 あらゆるものがちっぽけに感じてしまうほど、空は遥か遠くに存在している。どれだけ、手を伸ばしても届かない。世界から切り離されてしまったように感じる。

 義夫は目を細めた。断崖に沿って太陽の光が差し込んでいる。まるで進むべき道を照らしてくれているように、ずっとその光はある人々が暮らす場所まで続いていた。

「ずっと、歩いているけど疲れないかい?」

 義夫は優しく問いかける。

「私は全然平気よ。義夫さんこそ、歳なんだから無理しないでくださいね」

 彼女はそう言うと、屈託のない笑顔を浮かべる。

 ジャーナリストという職業を続けて良かったと、これほど思う瞬間はない。ずっと孤独との戦いだった。誰か一人でも隣にいるだけで、こんなにも心が穏やかになる。本当に続けて良かった。そして、またここに戻って来られて良かった。

 あとは――。

「気遣いありがとう。さあ、あともう少しだから頑張ろう」

「はい!」

 彼女を背中に感じながら、ゆっくりと細い道を歩んでいく。とてもこの先に人が住んでいるとは誰も思わないだろう。最初、義夫自身もこの先に人がいるとは思わなかった。でも、この先にはちゃんと人が住んでいる。それは間違いない。

 しばらく、無言で歩き続けた。昔なら、足元に全神経を使わなくとも歩けたのだが、今はそれもできない。少しずつできないことが増えてきて、怖くなった。いずれはこの足も動かなくなり、体も動かなくなる。そして――やりたいこともできなくなる。義夫は何度もその言葉を反芻した。

 日が傾き、空はセピア色に染まっていた。太陽が断崖に隠れ、谷底は暗くひんやりとしてきた。足元が見えづらくなり、自然と歩くペースも落ちてくる。急ぐ必要もないか。

義夫は足を止めた。

「ちょっと休憩にしますか」

 腰掛けるのにちょうど良さそうな岩を探し、彼女と並んで座る。こうやって、彼女とよく並んで座った。この感触を味わうように義夫は目を瞑る。もうこの感触さえ味わえなくなる。最後なんだ。

義夫はこみ上げてくる感情を押し殺し、彼女のほうを見た。

「覚えているかい?」

 義夫は小さな声で言った。

「義夫さん何か言いましたか?」

 彼女は首を傾げる。彼女には聞こえなかったらしい。内心聞こえていなくて、良かったなと思った。

「いいや、何も言っていないさ」

 義夫は地面に視線を落とす。これは自分の悪い癖だ。ちゃんと決心がついて、向き合おうと決めてここまで来たんだ。今更、その決心がぐらついている場合ではない。

「さあ、行きましょうか」

「はい!」

 彼女はまだ知らない。義夫は思いを噛み締めるようにゆっくりと歩き始めた。



「お願いします! 行かせてください」

「そんなこと言われてもね。君は、本当に耳が聞こえない人々が住む世界があるなんて噂、信じちゃってるの? そんな確証のないことを言われてもね。これは遊びじゃないんだから」

 男は渋い顔をしながら言った。

「一週間だけでいいです! 場所はもうだいたい見当がついているので」

 義夫はけして引き下がらなかった。ずっとこの噂を追い続けていたのだから、自分が満足するまでやり通したい。それが義夫の本心だった。本当にそんな世界がなくとも、何かをやり通したという充実感だけを求めていた。

「わかった。それで、ダメなら諦めろよ」

「ありがとうございます!」 

 許可を得たその日に、義夫は日本を飛んだ。目的地はアルプス山脈の最果ての峡谷。その不確かな情報だけを携えて向かった。

 

 最初は、障がい者支援のジャーナリズムだった。関心のある分野だったから、別に苦ではなかった。

義夫は真面目に取り組み、ある程度の貢献はしてきた。でも、理想とはとてもかけ離れていた。

 充実感が全くなかった。よくやったよと言われても、現実は何も変わらない。そんな理想と現実の溝が仕事の成果をあげるたびに広がっていった。もっと大きなことをしてみたいと思い始めたのも、その頃だった。

 そんなときに舞い込んできた話が、耳が聞こえない人々が住む世界の存在だった。これはやっと巡ってきたチャンスだと思い、義夫は独自で調査を始めた。

 ネットを駆けまわり、そういうことに精通している教授に訊きまわり、そうしてやっと漕ぎづけた情報がアルプス山脈の最果ての峡谷に、その世界があるかもしれないということだった。

 ただ、この情報は都市伝説に近いものだった。どこか曖昧で人によってはまるで違う内容を示した。

 それでも、アルプス山脈で行方不明になった人が奇跡の生還を果たした記事の中に、視力に長けた民族に会ったという証言があった。これはどこかの五感が失われていて、その補完作用で異常な視力が成り立っているのではないかと義夫は考えた。つまり、耳が聞こえない人々が住む世界は十分にありえる。

 義夫は胸が高鳴り、今すぐにでもアルプス山脈に向かいたかったが、現実的に難しかった。

 アルプス山脈での調査は登山を意味する。義夫はそれほど体力に自信があるわけでもないし、運動もあまりやっていない。それに登山に関する知識もない。何もかもが一からのスタートだった。

 

 万全な状態が整うまで十年の月日を要した。過ぎてしまえば、短いものだったと感じる。言葉に表せない気持ちがせり上がってくる。やっとだ。

 義夫はアルプス山脈を見つめた。実際に見る威圧感は想像以上だ。挑戦的に連なった峰々が気持ちを煽る。子供の頃に感じた、秘密基地に向かう時の高揚感に似ていた。未知の何かが待っているかもしれない。

 結局、十年経っても情報はアルプス山脈の最果ての峡谷だけだった。少し情報が加わったとすれば、場所がより限定されたくらいだ。

 義夫は目印をつけた地図を右手に握り締め、ゆっくりと斜面に向けて足を動かす。幸いにも天候は良い。天候が変わりやすいから気をつけろと、現地のガイドさんにアドバイスを受けたが、大丈夫そうだ。

 それから、地図を見て位置を確認してはまた歩くを繰り返した。こういう短調作業は慣れている。目印に向けて義夫は一歩一歩丁寧に進んだ。

 歩く道はとても険しい。少しでも気を許してしまったら、奈落の底へと落ちてしまう。それに加えて、慣れない雪道。神経をすり減らしていく。

 やはり、調査は難航した。地図にマルと書かれた場所に来てはバツをつける作業。次第に減っていくマルの数を見て義夫はだんだん不安になってきた。

 その不安に拍車をかけるようにあたりは暗くなる。風が義夫の顔めがけて吹き付けてくる。太陽が出ていたうちは暑いくらいだったのに、今は足先からじんわりと寒さが這いよってくる。

「嵐が来る」

 どこからかそんな声が聞こえた。

 義夫は空を見上げる。さっきまでの晴天が嘘のように黒々とした雲が空を埋めていた。今日はここまでにしようと踵を返す。

 そのときだった。強い風が山道を駆け抜けた。周囲の皆が足に力を入れて飛ばされないよう踏ん張った。義夫も足に力を入れて踏ん張ろうとした瞬間、音を立てて足場は崩れ去った。

 気がついたときには、斜面を滑り落ちていた。体が自分の意思に反して、転がり続ける。頭を庇うために 体を丸め、手で頭を押さえる。全身から伝わってくる衝撃が死への恐怖を煽る。

 遠くの方から悲鳴が聞こえた。おそらく、滑落した光景を見て悲鳴をあげているのだろう。その悲鳴が斜面に反射し、義夫の耳に何度も届く。もしかしたら、ここで人生を全うするのかもしれない。義夫は静かに目を閉じた。


 義夫は悪い夢を見たように飛び起きた。全身に広がる倦怠感と痛み。よかった、まだ生きている。ゆっくりと立ち上がり、上を見上げた義夫は驚愕した。

 よくこの高さから落ちて無事だった。斜面は先が見えないほど頭上高く続いており、斜面の角度も四十度くらいあるだろう。雪がなかったらあの世行きだった。義夫は息を吐く。

 さて、これからどうするべきか。この高さを登れるわけでもないし、ここで待っていても助けが来るとは限らない。どうやら、進むという選択肢以外なさそうだ。

 義夫は今ある持ち物を確認した。水が三本、懐中電灯、テント、カメラ、薬、チョコレート、画面が粉々に割れているスマホ。数日はこれらで持ちこたえられそうだ。スマホが使えればより良かったのだが、今はそんな贅沢を言っていられない。

 義夫はすぐに歩き始めた。止まっていればいたずらに体力を消耗し、生命の危機に直面するだけだ。それなら、少しでも可能性を広げるべきだと義夫は考えた。

 道のりは登山道ほど険しくはなかった。それに一本道だから位置確認をする必要もない。義夫の足取りは軽かった。今ならどこまででも歩き続けられると自信に満ちていた。

 しかし、実際はそんなこともなく右足がすぐに悲鳴をあげた。険しくないとはいえ、足への負担は大きい。斜面から滑り落ちたときのダメージもあるだろうし、これは相当やばい。足が使えなくなったら、それこそここで死んでしまう。

 絶望の波が押し寄せてくる。もう、厳しいかもしれないと視線を適当に前方へ向けたときだった。自分の目を疑った。なんと人が歩いていたのだ。それも、登山者ではなさそうだ。

右足が痛いことなんて忘れて彼らの元へと走り出した。彼らは義夫の存在に気づいていないようだった。

「おーい!」

 できるだけ大きな声で呼びかけてみたが、反応はなかった。義夫は怪訝に思う。ただ、単純に聞こえていないということではなさそうだ。そうなると、言葉の問題か。

 今度は英語で呼びかけてみたが、さっきと同様反応がなかった。義夫は不安と同時にある可能性が浮かんだ。まさか――。

 彼らにもっと近づく。義夫は彼らのすぐ後ろで叫んだ。が、彼らは何も反応を示さなかった。やはり、そうだ。間違いない。ここは耳が聞こえない人々が住む世界だと義夫は確信した。

 男と思わしき二人組の背中を叩いた。義夫はどんな反応が返ってきても良いように重心を低くする。

 彼らは顔を見合わせて固まっていた。特に警戒している様子もなく、義夫に対して興味を持っているようだった。それを見て、義夫も警戒心を解く。

それにしても、近くで見るとより大きく感じる。二メートルはあるだろうか。服装も見たことのない生地を何重にも重ねて着ている。そして、手には棒が持たれていた。

 義夫はジェスチャーでどうにか状況を伝えようとした。彼らのコミュニケーションもどうやらジェスチャーだったようでよかった。なんとなくだが、伝わったようだ。

 彼らの後をついていくと、縄文時代を思わせるような雰囲気の集落が見えてきた。集落は遥か向こうまで広がっている。義夫はジャーナリストとしての好奇心をくすぐられた。

 彼らは義夫の肩を叩き、遠くを指さした。義夫はその指差すほうを見ると、米粒くらいの人がこちらに向かって手を振っていた。そして、彼らはジェスチャーを始める。その光景に思わず目を奪われた。

 彼らの視力は異常だ。義夫は何度見つめても、遥か向こうにいる人のジェスチャーを正確に読み取れない。なんだこれは、これが補完する力なのか。

 情報を整理できないまま、再び歩き始める。義夫は興味津々にあちらこちらに視線を向けた。まるで文明の進化を無理やり止められたような場所だ。タイムスリップでもしたような感覚に陥る。

 

 集落は整然としていた。見た目にそぐわない技術力に身震いする。義夫はカメラを取り出し、そっとシャッターを切る。

 義夫は彼らの背中に視線を戻す。この人たちは生まれたときから音を知らない。集落から溢れる音はどこか死んでいた。足音や生活音など情緒がないものばかりだ。聴覚が生き生きと動いている義夫からすれば、沈黙よりも耐え難い空間だった。

 

「あ、あ」

 義夫の耳がうさぎのように動いた。この世界に踏み入ってから初めて聞く生きた音だった。音が聞こえたほうに目を向ける。

 そこには、小さく体育座りをしている女の子がいた。義夫が足を止めると、彼らもつられて足を止める。

 義夫はジェスチャーで女の子のことを彼らに訊いてみる。無表情だった彼らの顔が歪んだ。それは明らかに嫌悪感を抱いていた。義夫は不思議に思いながらも、ジェスチャーを続ける。

 彼らは、終始拒絶を貫いた。そのうち、不快なものが義夫と彼らとの間に降り積もっていく。義夫はその態度にどうも納得がいかなかった。

 でも、彼らが棒をこちらに向け、明らかな敵意を示したので義夫は問うのを諦めた。そして、彼らは義夫を横目に去っていった。

 義夫は深くため息をつく。なぜ、彼らはあれほど拒絶したのだろうか。義夫は小さな女の子の隣に座った。

 女の子は義夫を不思議そうに見つめる。その目がクリクリしていてとても可愛らしい。歳は五、六歳くらいだろうか。特に変わったところもない。では、どうしてこんな子どもを――。

 遠くからものすごい音が響いてきた。義夫は反射的に目を向ける。おそらく、この音を認識しているのは自分だけだろうなと思い、義夫は鼻で笑った。

 視線を再び女の子に向ける。すると、女の子も音の鳴ったほうを見つめていた。義夫は心臓が高鳴った。 もし、この女の子が自分と同じように音が聞こえていたとするなら、彼らが拒絶した理由もなんとなくうなずける。

 音の鳴ったほうを見つめ固まっている女の子の耳元で、義夫は手を鳴らした。女の子は体がビクッと飛び上がり、今にも泣き出しそうな顔でこちらを向いた。義夫は胸が締め付けられる思いだった。生まれてくる世界を間違ってしまったのか。

 音が死んでいる世界で女の子は孤独に生きた音を求めていたに違いない。義夫は今すぐにでも生きた音を聞かせたかった。

 女の子がこちらに向けて手を伸ばす。それを義夫は優しく握り締めた。手はとても冷たい。愛情も、温かみも知らない手だった。見た目は健康そうに見えた体も、ぶかぶかとした服によって隠されていた。近くで 見ればより悲痛さが伝わる。人間の骨格に皮だけを貼り付けたような感じだ。これだけで、どんな扱いを受けてきたのか容易に想像できた。

「言葉がわかるか?」

 義夫はゆっくり丁寧に発音した。

 女の子は義夫の顔を不思議そうに覗き込み、生きた音を取り込んでいるようだった。その様子を見た義夫は息を飲んだ。

 この世界いるよりも――いや、それはやってはいけない。義夫は雑念を取り払うように頭を横に振った。もっと違ったやり方はたくさんある。

 たとえば、共生だ。互いに理解し合い、こういう人間もいるのだと受け入れてもらう。彼らが見たこともない義夫を受け入れたようにこの子も受け入れてもらえばいい。

では、どう歩み寄ればいいのだろうか。義夫は唸った。

大概のマイノリティーは劣勢になる。それは義夫自身が一番よく知っている。マイノリティーを理解してもらうことは困難を極める。文明が発展していないこの世界なら尚更だ。

「あ、あ」

 誰に縋ることもできない女の子は自らの力で生きていた。それが動物としての本来あるべき姿なのかもしれないが、とても酷いものだ。義夫はそっと手を差し伸べた。もう、一人ではない。今日から、二人ぼっちだ。


 義夫は考えに考え抜き、彼らとの共生を選択した。


 最初は、音があるということや耳という存在を知ってもらおうと彼らにコミュニケーションを図った。けれども、どれも失敗に終わった。

 彼らからすれば、音が聞こえる我々が異端者だった。何度も見たことがある、あの差別するときの冷徹な目。その目が鋭く義夫と女の子に向けられた。こればかりはいつまで経っても慣れない。身を引き裂かれる思いだった。

 次第に義夫も音を認識している変わり者として、誰にも相手されなくなってしまった。彼らとの関係が悪化していくにつれ、女の子との関係は強くなっていた。

 女の子はよく笑う子だった。義夫が何か話しかけると必ず笑った。それに女の子はとても優しい性格の持ち主だった。食べ物を差し出せば、自分のものを半分に割って、余ったもう半分を義夫に差し出す。不幸なはずなのに、自分が一番苦しいはずなのに、女の子は義夫を気遣った。我慢できなかった。頬につたう涙をはらい、再び音が失われた世界に挑んだ。


 そんなある日だった。義夫はいつものように女の子を寝かしつけながら、ルーティンになっている言葉を呟く。

「おやすみ」

 いつものように独り言で誰にも拾われることなく、暗闇の中に溶け込む。だが、その日は違った。

「お……や…み!」

 義夫は耳を疑った。

「そうだ! おやすみ」

 さっきよりもゆっくりと丁寧に女の子の目を見て言った。

「おやちゅ……み!」

 そう言って、女の子は微笑んだ。

 気づいたら、女の子を抱きしめて何度も「おやすみ」と繰り返していた。もう一方通行ではない。ちゃんと投げたボールは返ってくる。

 義夫は決心した。この子は生きた音が溢れる世界で生きるべきだ。この世界にいてはいけない。障がい者ジャーナリストとしては失格なのかもしれないが、一人の人間としてそうしてやりたかった。

 ただ、それはリスクを伴う。第一にこの高くそびえ立つ斜面を登ることはできるのかということ。そして、無事に下山できるかということだ。

 一人で歩くのも精一杯な状況なのに、女の子を連れて下山することはかなり厳しい。でも、義夫はその問題すら小さく思えた。

 こんな世界で生きるよりはましだ。もう、ジャーナリストとしてのプライドはなかった。彼らが閉ざし受け入れてくれないのなら、こちらも彼らを拒絶する。耳が聞こえることのほうが正常なんだ。彼らのほうがおかしい。耳が聞こえないことが障がいなんだ。

 義夫は憤りをぶつけるように女の子を抱え、歩き始めた。


 奇跡の生還だった。日本の新聞が義夫たちのことを大きく取り上げた。滑落からの奇跡の生還劇。遭難していた女の子も助ける。義夫は一夜にして、日本中に名が知れ渡った。

「それで耳が聞こえない人々が住む世界は見つかったかい?」

 男は鼻を鳴らす。

「いいえ……。そんな世界ありませんでした」

「お前はもう奇跡の生還の自伝書でも書けばいいじゃないのか。あれほど騒がれたんだ。売れないはずはない」

 男は嘲笑った。そして、男は女の子を指差す。

「で、君の隣にいる子はどうするつもりなんだい?」

「私が育てます。この子は元々親がいないです」

「ほう、親がいないのにその子は一人で山登りして、遭難していたのか。それは面白い話だ」

 男の鋭い視線が義夫を襲う。でも、義夫は怖気づかなかった。あそこでの境遇より苦しいものはない。

「真実はいずれお伝えします。ですので、これ以上の詮索は……やめてください」

 目で制すように義夫は言った。そして、女の子の手をぎゅっと握り締める。

「それは楽しみにしている」

 

 気づけば、足を止めていた。もうすぐ見えてくる。ずっと逃げ続けてきたことに向き合う瞬間がやってくる。

「あれ、ですかね! 義夫さん」

 義夫は小さく頷く。彼女は義夫とは対照的に明るかった。何も知らないということは幸せなことだ。

義夫は彼女が指さしたほうを見つめた。二十年前の記憶がフラッシュバックする。何も変わっていない。妙に整然とした街並みも、時代がタイムスリップしたような雰囲気も。

「帰って来れたな」

 義夫の声は震えていた。義夫と彼女はゆっくりと集落の中へと歩んでいく。

 集落の人々の視線が義夫と彼女に集まる。以前と同じように彼らは警戒心よりも興味のほうが上回っているようだった。

「義夫さんこれ大スクープですよ!」

 彼女は集落のあちらこちらにカメラを向けた。本当に何も覚えていないのか。義夫は彼女が思い出してくれることを願ったが、どうやらそれは無理そうだ。自らの口で切り出さないといけない。そう思うと、重力が二倍になったように体が重くなった。

「もう、今日は暗い。テントを張って体を休めようか」

 義夫は努めて冷静に言った。

「はい!」

 彼女は慣れた手つきでテントを組み立てていく。義夫はその様子を見つめた。もう、潮時かな。義夫が口を開こうとした瞬間、彼女はこちらを振り向いた。

 彼女は屈託のない笑顔を浮かべる。

「義夫さん。何も言わなくても大丈夫です。私はもう知っています」

 義夫は驚いた。彼女はどこまでも優しい人間だ。もう、未練などない。

「義夫さんは私のことが心配でついてきてくれていることも、ここが私の住んでいた世界だということも」

 彼女はふうと息を吐き、言葉を続ける。

「義夫さんは私からすれば神様みたいな人でした。多分、私のためにすごく葛藤してくれたと思います。私がこの世界で生きるべきなのか、それとも、別の世界で生きるべきなのか。ずっと助手としてやってきた私だからこそわかります。だから、私がその決着をつけます。義夫さんが最後成し遂げられなかったことへの……」

 彼女は微笑む。でも、体は震えていた。

「おやすみ。義夫さん、ゆっくり休んでください。あとは、私自身がやっておきます」

 あのときのようなたどたどしいおやすみではない。しっかりと意味も、重要性も理解された重みのある言葉として放たれていた。

 義夫は安堵した表情を浮かべて、静かに姿を闇の中へと溶け込ませていった。



「おやすみなさい」

 暗闇に放たれたその言葉は宙に浮いたまま誰に拾われることなく、そっと消えていった。


【作者の思い】

障がいへの理解はとても難しい。

今回の作品は、そこを切り込んだ話なので一緒に考えて欲しい。

何が正解なのか。

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