閑話.夏祭りと月と兎
たくさんの屋台と人出と喧騒、いろいろな食べ物の匂い、遠く本殿の前に設えられた臨時の舞台……今年も、この神社に夏祭りが来た。
境内の片隅、人気のない建物の陰に隠れるように座り、明るく照らされた一角をぼんやりと眺めながら、今年もたくさんの人がきているな、と考える。普段はなかなかこのお社に来られない月読尊も、今夜はきっと喜んでおられるだろう。
「おや、先客がいましたか。お隣、よろしいですか?」
格子の浴衣を着た長身の男が、いつの間にかそばに立ち、同席を求めていた。軽く頷くと、では、と躊躇も見せずに自分の隣へと座る。
「あなたもおひとついかがでしょう」
目の前にパックをぐいと差し出されて思わず頷き、楊枝に刺さった丸いたこ焼きをひとつ取った。やけに馴れ馴れしいのだなと思いながら。
「……こちらの夏祭りというものは楽しいですね。屋台の食べ物もなかなかに美味しいですし」
笑うように細められ、提灯あかりを反射してきらりと光る深い蒼い目を見て、少し考えて……「ああ、もしや、水神の御使いの方でしたか」と低く呟く。彼にもその声が聞こえたのか少し目を瞠り、「いえ、そのような大層な身分ではありませんし、私がお仕えしているのは知識の神です」と訂正されてしまった。
知識の神、と言われて、では思金神だろうかと考える。かの神は、このような銀色の竜の神使を召し抱えておられただろうか。
「どちらの社からいらっしゃったのでしょう」
「社……教会のことでしょうか?」
不思議そうに首を傾げる私に対して少し思案するように彼は首を捻り、それから、ようやく合点がいったと頷いた。
「私はこちらの神に仕えているのではないのですよ」
その言葉に、私は僅かに目を瞠って、まあ、と思わず声に出してしまう。
「それでは、遥か西方から海を渡ってこられたのでしょうか?」
「似たようなものですね」
私の言葉に、彼は楽しそうに笑ってますます目を細めた。
「相当に遠い場所からこちらに来たのです」
「そうなのですか。では、こちらのお祭りはそうとう珍しいのでしょうね」
「ええ……なんといいますか、市場のようで市場とは全然違いますし、神にかこつけて騒いでるだけでもなく……なかなか言葉にはしづらいですね。
けれど、神の存在がひとにとってとても身近なものなんだなと感じます。私の故郷の教会では、なかなかこうはいかない」
言わんとしていることがあまりピンと来なくて、そういうものなのかと、ぼんやりと考えて……。
ひとびとはいいことでも悪いことでも、何かあれば自然に神のことを頭に浮かべる。それは、ひとびとの心に神の存在が浸透していることの証だろう。つまり、そういうことなのか。
「……当初、こちらには人間だけしかおらず、神は存在しないと聞いていたのですよ」
「こちらに、ですか?」
彼の言葉に、不思議なことを言いだすのだなと考えた。この世界に神がいることなんて、妖の間では常識だと思っていたのに。
「ええ。けれど、いざ蓋を開けてみれば人間以外の種族もいるし魔法もあるし、おまけに出雲のお方と呼ばれる神もいる。しかもとても巧妙に人間たちに溶け込んでおられるし、これには驚きです。こんな世界があるとは、知りませんでした」
「こんな世界……そうなのですか?」
彼の口ぶりから察するに、かなり多くの国を渡り歩いた後、この国を訪れたということか。
「はい」
「……あなたは、随分といろいろなところを見てきたようですね」
月読尊より神使に召され、この月読神社を任されて以来、私はこの地域から一度たりとも離れたことはない。神に従い出雲の神議りに出掛けるのも、もっと上位の神使たちだ。私のような下位のものが同行することは、きっとこの先もないだろう。
「私は、この地しか知らないのです」
「ずっとこちらだけに?」
「はい。神よりこのお社を任されてから、ずっとここから離れておりません」
「なるほど……確かに、神の命であれば、そうそう離れるわけにはいかないのでしょうね」
男はふむ、と考え込み、「なら」と、何かを思いついたかのように笑った。
「ちょっと上から、ここのようすを眺めてみるのはいかがでしょう」
「上から、ですか? 人から見られては、騒ぎになってしまうのではないですか?」
「何、幻術を被せてしまえばどうとでもなりますよ」
くつくつと、何かいたずらを思いついたような顔で彼は笑う。
「……空を、飛べるのですか?」
「いえ、飛ぶのとは違います。なんというか……歩きます」
「歩く?」
彼はさらに笑いながら、「そう、歩くんですよ」と頷いた。
「さあ、手をどうぞ」
差し出された手を握ると、彼は不思議な響きの祝詞を唱え、胸元に下げた神の印をじっと握りしめた。すぐにふわりと何か聖なる力が現れ、まとわりつくように流れていく。
「さあ、それでは歩いてみましょうか」
男が一歩踏み出すのに合わせ、私もごくりと息を呑んで空中へと歩を踏み出すと……空気がまるで透明なまま凍っているかのようなしっかりとした足場となっていることに、「まあ」と声をあげて驚いてしまう。
私の踏み出した足は、空中に浮かんだままで……いや、浮かんでいるのではなく、まるで空中に見えない地面があるかのようにしっかりと足元を支えられ、佇んでいたのだ。
「その調子ですよ」
男は手を握ったまま、どんどんと階段を昇っていくように歩いていく。慌てて私もその後を追うと、あっという間に祭の喧騒どころか社殿の屋根までもを見下ろす高みにまで昇りきってしまった。
「すごい! まるで、月にまで昇っていけそうなくらいですね」
「月にまでというのは少し大袈裟ですが、その気になれば、この日本の本州の端から端まで、あっという間に移動することもできますよ」
「これは古い魔法とも違うようですが」
「我が神が私に降ろしてくれた神術です。たまにはこういうことに使っても、神は怒ったりしないだろうと思いまして」
「まあ」
私がくすくすと笑うと、彼もまた、はは、と笑った。
「こんなに高いところに昇ったのは、初めてです」
「そうでしたか」
私はすこし浮かれてはしゃいでしまう。何しろ、こんな経験は初めてなのだ。
「……月に、兎がいるという伝説はご存知ですか?」
「ええ、こちらで読んだ本にそんなことが書いてありましたね」
「満月に映る影が、まるで兎が月で餅つきをしているように見えるから、この国の兎は月にとても縁深いものであると考えられているんです。
だから、月読さまの神使に召されるものには兎が多くて、私も、そのご縁でこうして神使として召されました」
私は二十三夜の、半分に欠けた月を見上げる。
「もしかしたら、本当に月には兎がいるのかもしれませんが……神々ですら、それが本当なのか出まかせなのか、知らないんです」
彼は首を傾げながらも、黙って私の話を聞いていた。
「……私、月読さまの神使になれば、月の兎の話が聞けるんじゃないかと思っていたんですよね」
ちょっと困ったように笑って、私は視線を彼に戻した。
「でも、月読さまにお話を伺う機会もなかなか無くて、気づいたらあっという間に300年くらい過ぎていました。
その間に、いつのまにか人間の飛ばした“ろけっと”が月に行っていて、そこには兎どころか空気も何もないってわかってしまって、ちょっとがっかりしたんです」
なるほど、と彼も頷いて、月を見上げる。
「……この世界ではない、どこかの次元で、月を目指して竜の背に乗って空を飛んだものがいるという話を聞いたことがあります」
「竜、ですか?」
「はい。
もともと、その世界では月には何もないと言われていて……魔術で調べたけれど何も見つからなかったから、だから月には何もないのだと、皆がそう考えていました。
こちらの月と、事情が似ていると思いませんか?」
「たしかに、そうですね」
私がそう答えると、彼は「でしょう?」と笑って続けた
「月に飛ぶといっても、そのままでは遥か遠すぎて、いかな竜でも途中で力尽きてしまいます。そこで、手先の器用な小人と魔術師が協力して、竜の翼を強くし飛ぶことを助けるような魔道具を作ったりと試行錯誤を繰り返しました。何年も何年もかけていろんな方法を考えて、ようやく、竜の翼で月に辿り着くことができたのだそうです」
「……その月で、竜たちは何か見つけられたのでしょうか?」
「竜とともに辿り着いた月には何もないどころか、たくさんの生き物が住んでいたといいますよ。予想だにしなかった光景に、竜も竜に乗ったものもたいそう驚いて言葉を失ったとか」
「まあ」
目を丸くする私に、ですから、と男はくすりと笑った。
「こちらの月に辿り着いたのは人間なのでしょう? 見つけられなかっただけかもしれませんよ?」
私がぱちくりと目を瞬かせると、男はまた笑うように目を細める。
「何しろ、人間はこの地の神々や、ええと……妖すら、見つけられずにいるんですし」
その言葉にぱちぱちと何度か瞬きをしてから、思わず破顔する。
「そうかも、しれませんね」
くすくすと笑いながら、私はまた月を見上げる。何もないと判断するのはまだ早いということなのか。
空中に佇み、じっと月を眺めながら、私はふと思い出した。
「そういえば、あなたのお名前を聞いてなかったですね。何とお呼びすればよいのでしょうか。私は月読尊よりこちらのお社を任されております、神使の卯月と申します」
「ああ、これは失礼いたしました。私は“アーレス”と呼ばれる世界の魔術と知識の神の司祭ヘスカンです。以降、よろしくお見知り置きを」
くすりと笑って「今宵は楽しい話をありがとうございます」と礼を述べると、男……ヘスカン殿も、「こちらこそ」とまた目を細めた。
“アーレス”というのがどのような国なのかは知らないけれど、彼のような司祭がいるのなら、きっとよい国なのだろう。
「ヘスカン殿、また、このような……空中の散歩をお願いしても、よろしいですか?」
ヘスカン殿を見上げると、彼はほんの少し目を瞠り、それからにこりと微笑んだ。
「ええ、構いませんよ。お気に召したのであれば、何度でも」
なら、次はいつ頼もうか。
天上の星空と、地上の星空と、両方を眺めながら、私は考えた。