4.七夕の祝い事/後
さすがに旅館の浴衣よりも私服のほうが良かろうと着替えて待っていると、ようやく仲居が呼びに来た。
案内に続いて宴会の間へ入り、ざっと部屋を見回す。親戚総出でと言っていたとおり、広間にずらりと並んだ御膳の前には浴衣姿の人々が思い思いの格好で座っていた。40から50人……いや、もっといるかもしれない。
「あ、その、この度はおめでたい場にお招きいただきまして……」
「おお、来てくださったか! いやいや堅苦しいのは抜きにして、どうぞ座ってください」
挨拶もそこそこに、いちばん手近なところに座っていた中年の男に手招きされ、それでは、と空いていた席に座る。
すかさずグラスを渡されビールを注がれると、それを待っていたかのように「では」と声がかかった。上座の主役と思われるのは、まるで花嫁衣装のような白装束の女性だ。その横に座った年嵩の男の音頭でグラスを掲げ、乾杯と唱和しながら、どうやら、この楓という女性がかなりの出世をするということなのだなと考える。
「出世っていうけれど、まるで結婚するみたいな口ぶりね」
「ああ」
イルの言うとおり、年嵩の男の言葉は、まるで花嫁の門出を祝うような内容だった。楓嬢もほんのりと頬を染めて、とても幸せそうに笑っているようだ。
けれど、肝心の花婿にあたる男性の姿は見えない。
「その……不躾な質問で申し訳ないんですが、どういうお祝いなのですか?」
さっき自分を手招きした男に耳打ちするように尋ねると、ああ、と彼は大きく頷いた。
「いやあ、実はですね」
あまり音量の下がっていない声に少し焦るが、周りも大騒ぎであまり気にされていないようだ。イルも興味深げに、ややこちらに身を乗り出して耳を傾けている。
「樋沢様には長いこと側仕えのものが居なかったんですがね、あの楓がようやく側仕えに召し上げられることが決まったんですよ」
わはははと笑いながら、男はぐいとグラスを空けた。慌てて傍らの瓶を取り、どうぞとビールを注ぐ。
「ああ、こりゃどうも。
……それで、これまでおひとりで頑張っておられた樋沢様もようやくこれで楽ができるし、楓も長いこと望んでた樋沢様のお側に仕えることができるしで、二重にめでたいと」
「はあ……」
それでこの宴会なんですよと続く男の話を聞きながら、側仕えとかなんとか、かなりの時代錯誤な単語にかなり驚いてしまった。このあたりにはそういう風習でもあるのだろうか。
「ねえナート、日本にも貴族がいるの?」
くいくいと袖を引かれ、小声でイルに尋ねられる。
「いや、貴族制度はないけど、田舎のほうはそれに近い風習が残ってたりするんだよ」
「風習?」
風習で身分制度? と首を傾げるイルに、少しだけ説明をする。
「昔はこの辺りをまとめてた地主だったりとか、藩主だったりとか、そういう先祖のしがらみや関係が続いてたりするんだ」
「ああ……なるほど、なんだかわかるわ」
彼らの言う“樋沢様”というのは、まだ若い、旧家の家長なのだろうか。未婚の彼に楓嬢が片思いしていて、ようやくチャンスが来たと、そういうことなのだろうか。
なんだか時代劇のような話だなと考えながらビールを飲み、御膳の料理をつまむ。
「ところで、樋沢様というのは、どんな方なんですか?」
横の男に尋ねると、「そりゃあ、このあたり一帯をお護りしておられる、守神様ですよ」とにっこり笑った。
「……え?」
「もともとはただの人間だったんですがね、この土地を豊かにするために頑張ったお方で、温泉を掘り当てたのも樋沢様なんです」
「はあ」
守神? とイルにちらりと目をやると、彼女も目を丸くしている。
「若くして亡くなった後に、 土地のものに祀られましてねえ……そこから神になられて、ずーっと、おひとりでこの土地を守ってこられたんですよ」
「そ、そうなんですか」
まるで近所の有名人のように話されて、困惑する。神になった? 守神?
「ねえ、ナート……」
「ん?」
「こっちには、神への嫁入りっていう伝説が結構あった気がするんだけど」
「あるね」
そのままふたりで黙り込んでしまう。神への嫁入りといえば、たいていの場合は神への生贄に同義ではなかったか。
まさか、と思いながら上座の楓嬢を見るが、これから生贄に捧げられるのだというような悲壮さはまったくなく、それとは真逆の、喜びに満ち溢れた印象しか伝わってこない。
「あの……その、側仕えっていうのは?」
さらに男に尋ねる。酒が回ってきたのか、かなりの上機嫌だ。
「ん? ああ、そりゃ、文字通りさ。楓は樋沢様に召し上げられて、死ぬまでずっとお仕えするんだよ」
“お仕え”がどういうことなのか、いまひとつ要領を得ず、やはり困ってしまう。
どう質問すればわかるのだろうかと考えていると、またイルが袖を引いてきた。
「……ナート」
「ん?」
「あれ……」
イルが小さく示した方向を見ると、皆、酔いが回ってきたのか、あちこちかなりの騒ぎになっていた。はしゃいだ酔っ払いは全国共通だなと思いながら、よく見てみると。
「……なんだ、あれ」
思わずぽかんと口を開けてしまう。陽気に踊っている若い男の浴衣の裾から覗いているのは、どう見てもふさふさとした尻尾で……。
唖然としている俺の横で、さっき話していた男がげらげらと笑い始めた。
「いやあ、下谷の次男坊は、まだまだヘッタクソだなあ!」
「へ?」
「この程度の酒で尻尾を出すとか、まだまだひよっこで! ねえ?
そっちのお嬢さんは、まだ若くても上手に化けてるってのにねえ」
「えっ」
思わずイルと顔を見合わせる。
「あの、皆さん、ご親族なんですよね」
「そうそう。一族のものの門出を祝って、こうして全員で集まっているんだよ」
……まさかとは思っていたが、これ全員人外だったとは。あの尻尾からすると、やはり化け狐なのだろうか。心なしかイルも青くなっているようだった。
「……ナート、もしかして、私たち、とんでもないところに来ちゃったのかしら」
「そうかも、しれない」
守神に嫁入りというのは、もしかしたら本当に言葉の通りなのかもしれない。
「こういう時、セオリーどおりだと、どうなるの?」
「……先方が気にいるような祝いの芸や贈り物ができれば無事に帰れるけど、できなければ何かを奪われる……ってのが、王道かな」
「どうしよう、何も浮かばないわ」
「俺もだ」
はあ、と溜息を吐くと、隣の男が「どうした? 酒が足りないか?」と瓶を突き出した。
「あ、ありがとうございます」
グラスを出し、ビールを注がれながらどうしたものかと考える。
彼らが喜ぶようなめでたい芸なんて何もないし、贈り物だって言わずもがなだ。
「ナート」
また、イルが小さく囁いてきた。
「こちらで、結婚のお祝いっていうと、どんなものを贈るものなの?」
「え?」
「手持ちで、何か渡せそうなものがないか、見繕ってみるわ」
「大丈夫?」
「ええ。いつもの袋を持ち歩いてるから。そこに入ってるもの限定だけど」
ひそひそと相談しながら、上座のほうをちらりと見る。どうやらセオリーどおり、招待客が祝いの品を渡し始めているようだ。
「縁起を担ぐものだから、切れるとか割れるとかを連想させるものは良くないかな。何か、いい謂れのあるものだといいんだけど……」
「あ、お酒はどうかしら。少し前に手に入れて取っておいた、花蜜酒があるんだけど」
袋の中に手を入れてごそごそと確認しながら、イルが言う。
「酒は祝い事に付き物だから、いいかもしれない」
「なら良かったわ……あ、それと、身を飾るものは?」
「主役が女性だから、いいかもしれない。どんなもの?」
「……護符で、謂れはよくわからないの。悪いものではないし……ああ、手に入れた場所が大地の女神の所縁の地だから、いいかもしれない。豊穣と恵みを司る女神なんだけど……他の神のものを持ち出すのは、よくないかしら?」
「……なんとなくだけど、伝説とかでもよく神同士で贈り物のやりとりがあったりするから、大丈夫じゃないかな」
イルのおかげでどうにかなりそうだ。ほっと息を吐いて上座を見ると、もう俺たちの番が回ってこようとしていた。
「さ、あんたたちも、楓に祝いの言葉を」
隣の男に促され、上座へと向かう。少し俯き加減の楓嬢の前に座り、ひとつお辞儀をする。
「この度は、私どもまでこのようなおめでたい席へのお招きいただき、ありがとうございます。
何分にも急でしたので、あまり手の込んだものは用意できず、とてもささやかなものなのですが、よろしければ、私どもの祝いの気持ちをお納めください」
俺の言葉を待って、ずい、とイルが前に出た。
「楓様、私本来の姿でお祝いの口上を述べさせていただいてもよろしいでしょうか?」
楓嬢がこくりと頷くと、イルは髪をまとめていた紐を外した。たちまち、彼女の髪が白く、肌が黒くなる。
「私はアーレスより参りました、“善き魔術師”イルと申します。こちらはナート。本日は偶然ですが、このような祝宴へのお招きにあずかり、たいへん光栄に存じております」
……イルはこういう場に慣れているのだろうか。挨拶も口上も堂々たるものだ。
「先ほどナートが申しましたとおり、とても急なことでありましたので……私どもの献上する品が、楓様のお眼鏡に叶うと良いのですが」
ゆっくりと瓶と、それから金の護符を差し出す。
「こちらは私の故郷アーレスにて、祝いの席で好まれる花蜜酒でございます。妖精が集めたさまざまな花の蜜を混ぜ合わせ、酒に醸したものです。お口に合うとよいのですが」
コルクを開けると、あたりに少し甘い花の香りが漂い、その場にいた者たちが、ほう、と息を吐いた。
「こちらは、わが故郷の大地の女神の祝福を受けた護符でございます。楓様はもちろん、この地の皆様のますますの豊穣と恵みを願い、お持ちしました」
灯りを反射してきらりと輝く護符に、楓嬢は感嘆したようにまた溜息を吐いた。
宴を仕切る年嵩の男が、イルの差し出すそのふたつを大事そうに受け取り、「このような素晴らしい品を、ありがとうございます」と頭を下げる。
どうにか気に入ってもらえたようで、本当によかった。イルには、後でこの埋め合わせをしなくてはいけない。
ひと通り、全員のやりとりが終わり、ますます宴が盛り上がったあたりでパンパンと手を叩く音が響く。
「さあ、そろそろ樋沢様が来られるころだ。お迎えに出なくては」
年嵩の男の声に楓嬢が立ち上がると、皆も慌てて簡単に身づくろいをして立ち上がった。そのまま楓嬢を先頭に、後ろにぞろぞろと続いて外へと出る。
東の空には半分近くまで欠けた月が昇り始めていた。その、月の光に照らされた道を、誰か……楓嬢のような白装束を着た男が歩いてくる。彼が、樋沢様なのだろう。これまで誰も側仕えのものがいなかったとの言葉通り、ひとりきりでゆっくりと歩いてくると、居並ぶ人々が一斉に頭を下げ、恭しく彼を迎えた。
「楓」
柔らかい男の声が響く。さっきまであった音がすべて消え、静寂があたりを支配する。
「お前を我が使いとし、我が元へと召そう」
「はい。楓は、幾久しく、誠心誠意、樋沢様にお仕え申し上げます」
楓嬢が樋沢様の差し出す手を取ると、ふたたび樋沢様がゆっくりと歩き出した。楓嬢の手を引き、来た道をまた戻り始める。ちらりと見えた楓嬢の顔は、幸せにうっとりと微笑んでいて……ふたりの姿が見えなくなるまで全員が静かに、じっと見送っていた。まるで若いふたりの門出を静かに祝うかのように。
無事見送りを終えて、宴会場へとぞろぞろ戻っていく中、ふと思い出して立ち止まる。
「イル、天の川だよ」
空はきれいに晴れ渡り、満天の星が瞬いていた。
「織姫星と彦星は……あれだね」
湿度が高いせいか少し煙って見づらいけれど、それでもどうにかベガとアルタイルを見つけることができた。
「……やっぱり、特別な日だから、こんなことがあったのかしら」
「……さあ」
しみじみ呟くイルに、俺は肩を竦める。
「星も見えたし、戻ろうか。まだまだ宴会も続くみたいだしね」
「そうね」
くすりと笑って、また旅館の中へと入っていった。
翌朝、風を感じて目を開けると、そこは山の中だった。
屋内でもなんでもない、ただの山の中だ。道端には車が止められていて、草を敷き詰めたところに、きれいにまとめた荷物と一緒に寝かされていた。
さらさらと流れる沢は、昨日旅館の窓から見た沢だろうか。
あまりのことにぽかんとしたまま頭上の青空を見上げていると、横で寝ていたイルも目が覚めたのか、もぞもぞと起き出して……周りを見回して唖然とする。
「なっ……どういうことなの?」
そのようすを見ていたら、なんとなくおもしろくて、くっくっと笑い出してしまった。まさか、この時代にこんなことがあるなんて。
「いやあ、昨晩のあれ……狐に化かされるってこういうことなんだな。あ、でもこの引出物は本物みたいだよ」
笑いながら包みを開けると、別に木の葉でもなんでもなく、普通の折詰に引き菓子に……なんだろう、漆塗りのお椀が入っていた。
「……私が幻術に引っかかるなんて……って、え?」
「鯛の尾頭付きに、お赤飯に……へえ、蒲鉾と伊達巻が入ってる。きんとんも……ん、なかなか美味い」
一緒に入っていた箸でつまんでみると、意外にもかなりおいしい。
「ちょ、大丈夫なの?」
「枯れ葉に変わってないから大丈夫なんじゃないか? せっかくだし、朝飯代わりに食べていこう」
「ねえ……もう、仕方ないわね」
慌てるイルをよそに、なんだかやたらに楽しくなってしまってぱくぱくと食べ進めていると、観念したのか、彼女も折詰を開けてぱくりと鯛をつまむ。
「……あら、おいしい。結構いけるのね」
開き直って地べたに座ったまま、ふたりでぱくぱくと食べ続ける。欲を言えば温かい味噌汁かお吸い物が欲しいところだが、お湯も何もないんじゃ仕方ないなと残っていたペットボトルのお茶で我慢した。
「きっと、これはなかなか無い経験よね。でも、引出物を残してくれたってことは、お祝いの品を気に入ってもらえたってことかしらね」
「そうじゃないかな」
そのままふたりで折詰をきれいに平らげて、山に向かってご馳走様と挨拶をした後、ナビ頼りに山を下りたのだった。