2.温泉へ行こう/後
「ねえ、これは何?」
「ああ、そうやって畑の野菜を売ってるんだよ」
不思議そうに野菜の無人販売を見るイルに、システムを説明する。
「……“性善説”って、こういうことなのね」
しみじみと感心したように、イルは無人販売の台をじっと見つめて頷いていた。
「いやまあ……そうはいっても、やっぱり持ってっちゃう人はいるみたいだけどね」
「いえ、そもそもこういう形式で売ろうっていう発想があるのがすごいわ。あっちで同じことやろうとしたら、間違いなく一瞬で無くなるもの」
あははと笑いながらも、断片的に聞こえるイルの世界は、ずいぶん殺伐としているところなんだなと考える。
「まあ、最近はこれでも物騒になったんだけどね。あ、ほら、橋だ。部屋から見える川に架かってるんじゃないかな」
橋のたもとまで行ってみると、川は谷とまではいかないが、少し低いところを流れていた。山の中なので川幅は狭く、流れも急だ。
「川原に下りられるようになってる」
「いってみましょうか」
橋のたもとにある小さな階段から、石がごろごろと転がった川原へと下りる。川原といっても、ほんの数メートル先にはもう流れがあるくらいの幅しかない。
「日本って、川だらけって印象だわ」
「そう?」
じっと流れを見つめながら、イルは頷いた。考えたこともなかったけれど、そんなに多いだろうか。
「少し歩くだけで水場があるんだもの。ルカが水をざぶざぶ使うわけね」
「え」
普段の妹のようすを考えて、ああそういえば、よく蛇口の締め忘れを怒られたりしていたなあと思い出す。
「これだけ水が豊富なら、しかたないわね」
ふふと笑いながらイルが肩を竦めるのを見て、なんだか申し訳ない気持ちになってしまった。
「なんだか、本当に君たちには妹が世話になったんだね」
「うちの斬込隊長に齎してくれた春で、十分お釣りがくるくらいにはね」
「いやいや、それはこっちの台詞だよ」
お互いぷっと吹き出しながら、そんなことを言い合うと、彼女はぐっと背伸びをして、「なんだか本当に、ここ何年かで一番のんびりできてるわ」と呟いた。
「冒険者って、そんなに忙しいんだ?」
「どうなのかしら。私たちの場合、教会から依頼されて何かすることが多いから、たぶん他よりは忙しいんだと思うけど」
少し首を捻りながらそう答えるイルに、そういえば、カイルは教会でも結構いい立場なんだったかと思い出す。
忙しいだけではなくて、危険とも隣り合わせなのだろうとは思っても、そっちはあまり想像できなかった。
「宮仕えしてるみたいなものなのかな」
「ああ、たしかにそんなものよ」
イルはぽんと手を叩いて納得したように頷いた。
「冒険者って基本フリーで活動するんだけど、うちのリーダーはカイルだから、教会の依頼があれば優先的に引き受けなきゃならないしね。あんまりフリーっていう感じでもないのよ」
「へえ。どこの世界でも自由業って気を遣うものなんだな」
そんなことを話しているうちに、太陽はいつの間にかすっかり山陰に隠れていた。空はまだまだ青いのに、もう辺りは夕刻が迫っているかのように暗くなり始めている。
「さて、戻ろうか。夕飯前にひと風呂浴びたいし」
「そうね」
川原を後に、日本人て本当にお風呂が好きねと、イルにくすくす笑われつつ歩き出した。
部屋に戻ると、畳の上には浴衣を纏った銀色の竜人がひとりぐったりと伸びていて、その横では、伸びた彼を扇いでいるのか、浴衣の上を肌蹴てゆるゆると翼をはためかせ、風を送っている天人がひとり。
「おかえりなさい。少々長湯をしすぎまして」
「おかえり」
「……ただいま。なんだかすごくシュールな図だね」
これを写真に撮って誰かに見せたら、いったいどんな感想が来るだろうかと考えてしまう。
「ヘスカンは熱さにはあまり耐性がないのに、なんだかはしゃいでてね」
「あなたこそ、“インコシュウ”がどうとかで、翼までしっかり手入れをしてたじゃないですか」
「インコ……ああ、インコ臭か」
つい吹き出すと、カイルが少し憮然とした顔になった。
「前から気になっていたのですが、“インコシュウ”というのは何ですか?」
「ああ……んー、なんと言うか、そのまんま」
ちらっとカイルを見る。
「インコっていうよく懐く愛玩用の鳥がいて、その鳥の臭いってことだよ」
「……鳥。天使の翼が、鳥臭い」
ぶふっとヘスカンも吹き出して、くくくと笑い始める。
「絶対そうやって笑うと思ってたよ」
やはり憮然とした顔のままのカイルに、おおかた、インコ臭がすると瑠夏が臭いでも嗅ぎまくってたんだろうと想像できて、つい苦笑した。
せっかく温泉宿なんだからと、混む前に大浴場のほうの露天へ行くことにした。部屋風呂も気兼ねが無くてよいものだが、やはりのんびり体を伸ばして入れる大浴場は捨てがたい。
心ゆくまで温泉を堪能し、仕上げに入り口前の休憩所でアイスコーヒーを飲んでいると、イルが出てきた。
「あら」
「あれ」
あまりのタイミングの良さに驚いたけれど、考えてみたら一緒に散歩をしてきて戻ってから入りに来たなら、出てくるタイミングが重なってもあまり変ではないのかもしれない。
「あなたもこっちに来てたの?」
「ああ、アイスコーヒー飲む?」
「いただこうかしら」
サービスコーナーでコーヒーを淹れて戻ると、イルは「ありがとう」と受け取り、そのままぐいと半分ほど飲み干した。
「こっちでこんな贅沢に慣れちゃったら、あっちに戻るのが嫌になりそうだわ」
そう言って宙を仰ぐイルに、はは、と笑う。
「温泉、気に入ったみたいだね」
「たしかにこれ、立派な娯楽よ。しかもとても贅沢な。向こうじゃ貴族でもなかなかできないわ」
「そりゃ何よりだ」
「それに、種類もいろいろあるのね」
「種類?」
「ええ、打たせ湯に、サウナに、露天に……ひと通り試してみるだけでもおもしろかったわ」
真剣にそれぞれの感想を述べながら、「サウナなら向こうの家にも作れそうね」とイルは言い出した。
「水もそこまで必要はないし、金属を熱する魔法ならあるから、それを魔術道具にできれば……たしかもうあったはず……」
ぶつぶつと、どうやら向こうの家にサウナを作ろうと考え始めたのか、ああでもないこうでもないと、計画を練っている。
「それじゃ、今度はスーパー銭湯に行ってみるのもいいかもね」
「スーパー銭湯?」
「そう。温泉とは違うけど、こういう、浴場専門の施設だよ。もっとたくさん種類があるし、面白いんじゃないかな」
「……それは、ぜひとも行かなきゃいけないわね」
拳を握りしめて目を輝かせるイルに、また笑ってしまった。
夕食は、このあたりの地のものを使った郷土料理だ。大きな囲炉裏を囲んで、炭火で炙った岩魚や、この辺の有名なブランド牛の焼肉もあったりする、豪華なものだ。並べられた色とりどりの食器と前菜に今日はどんな料理が出てくるのかと、嫌が応にも期待は高まる。
「おはし、つかえる! ほら!」
ナイアラが箸を取り、さっそく嬉々として前菜をつまみ始めた。カイルも散々練習したのか、それなりに使えている。
「……持ち方や動かし方は書物で読みましたし、知識としては頭に入っているのですが、その通りに指が動くかどうかというのは別問題なのですよ」
「まったくその通りだわ」
難しい顔をして箸を持ったものの、ぶるぶる震えてまともに動かせないヘスカンとイルに、仲居さんが「お箸になれていらっしゃらないようでしたら、フォークとナイフをどうぞ」と持ってきてくれた。
「仕方ありません、今日はこちらを使わせてもらいましょう」
「そうね」
得意げに箸を使いこなすナイアラに、イルは、この子は手先が器用だものねと少し悔しげに息を吐いて、フォークで料理をつまみ始めた。
「おさけ、おいしい!」
「これはなんですか?」
「どうして料理がこんなに綺麗なの」
「カイル、これあげる」
「好き嫌いはよくないよ」
賑やかにあれこれ話しながら、食事が進んでいく。
「ちょっとした宮廷料理並ですよ。どうして日本はこんなに食事がおいしいんですか」
ヘスカンがしみじみと呟く。彼は意外に美食家なのだろうか。日本料理の教本を向こうへ持ち帰って、翻訳して広めてはどうかとまで言い始めていた。
「この酒もおいしいですね。ワインやエールとはまた違って、とても香りがいい」
「私、ワインよりもこっちのほうが好みだわ。口に含んだとたんにふわっと香るなんて、どんな高級酒なの」
せっかくだからこれにしようと決めた地酒も気に入ったらしい。
「だって、あっちの料理って、よく言えば豪快っていうか、大雑把っていうか、出汁って何? ってレベルだったもんね。飲み物も、だいたいビール? エール? そんなんだったし」
瑠夏が器用に岩魚をほぐしながら、そんな話をする。
「へえ? たとえば?」
「んー、鳥を塩振っただけで丸ごと焼いたりとか? オーブンで焼くものか、ひたすら煮込むものが多かったと思う。あ、でもシチューはおいしかった。いろんな具が入ってて」
向こうではほとんど宿暮らしだったというから、あまり手間をかけずに出せるものが多かったんだろうなと考える。
「まあ、瑠夏も人のこと言えるほど、料理ができるわけじゃないからな」
「ええ、人並みにはできるよ。人並みには」
「でも、お前のアパートの台所、あまり使ってるようには見えなかったぞ。冷蔵庫も空だったし」
そんなことないもん、と言いながら岩魚をもそもそと頬張る瑠夏の声は小さい。
「たしかに、ルカが何か料理をしているところは見たことがないね」
「カイルまで! ……わかった、今度すごいの作って驚かすから」
「楽しみにしてる」
はいはいとにこやかに応じるカイルに気を良くしてか、瑠夏はじゃあ何を作ろうかと言い出した。
「胃薬はちゃんと用意しておいてやるから、安心して何でも作ればいいよ」
「ひどい、お兄ちゃん! カイルは病気にならないもん!」
「──問題はそこか?」
「あ……食べられるものなら、何でも大丈夫だから」
「カイルもひどい!」
ぽかぽかとカイルの腕を叩いて、瑠夏は頬を膨らませた。
その横から、イルがくいくいと袖を引っ張る。
「ねえ、ナート。このお酒、どこかで買えるかしら」
イルは相当、この地酒が気に入ったらしい。
「あとで訊いてみようか。
……あ、日本酒が気に入ったなら、明日、蔵元にも行ってみる?」
「クラモト?」
「日本酒を作ってるところがこの近くにあったはずだから、明日いくつかまわってみよう。試飲もできるし、気に入ったのを買って帰ればいいよ」
「なら、ぜひお願いしたいわ」
翌日は、予定通りまた観光地を巡り、蔵元もいくつか立ち寄り、土産をたくさん買い込んで帰路に着いたのだった。
立ち寄った蔵元で大吟醸を2升ばかり買ったイルは、車の中で通信販売のペーパーにじっと見入っていた。
「ねえナート、このお酒、通信販売で、遠方からも買えるみたいなの。頼んでもいいかしら」
次は、お取り寄せとかにハマるんじゃないだろうか。