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1.世界はすべてこともなし

「ナート、本を返しに、来た」

 たどたどしく話しながら、彼女……イルが部屋に現れた。

「やあ。続きはそこにあるよ」

 書棚を指差すとイルは頷いて、そこに並んだ本の背表紙を指でなぞりながらひとつひとつ確認していく。ゆっくりではあるが、きちんと読み解いて確認をしているようだ。

 イルがここを訪れるようになってからまだ半年だというのに、もうここまで日本語を習得してしまったのか。

「この世界の知識は、どれもとても興味深いものばかりだわ。私のいた世界にはないものばかりなのよ。本当に驚いた」

 彼女はそう言って俺の書棚に並ぶ本をひとつひとつゆっくりと読みながら、言葉を習得していった。今じゃ、会話はもちろん、読むこともそれなりにこなせるようになっている。あとは語彙を増やしていけばなんとかなりそうだというが、驚くほどに習得は早い。

 ちなみに俺の名前は“直人(なおと)”だが、母音の連続がどうもうまく発音できないらしく、“ナート”と呼ばれている。俺も同じような理由で、彼女を“イル”と呼んでいる。


 そもそもの最初、俺に言葉を教えて欲しいと頭を下げてきたのは彼女のほうからだった。

 自分は魔術師で、ぜひともこの世界のいろいろな事物を知りたい、だからまずは知識を得るために言葉を……文字や発音や文法の基礎を教えて欲しいと頭を下げる彼女に、ちょうど転職を控えて暇を持て余していた俺は、二つ返事で引き受けたのだった。

 それにしても、妹の友人なのだから妹から教わればいいのにと言ったら「お邪魔虫は嫌なのよ」とは。たしかに妹は彼女の仲間とラブラブで、あれを邪魔するには鋼鉄製の心臓にチタンの毛でも生えてなきゃ無理だろうとは思う。イルも、見た目はかなりクールなくせに、妙なところで義理堅くて気を使うんだなと、なんだか感心した。


 ようやく見つけた本をぱらりとめくって、真剣に中身を眺め始めながら、「やっぱり、同音異義語は、やっかい。音と文の内容から判断して、適切な文字を当てるのは難しい」と呟く彼女をに苦笑する。

 だからって、眉間に皺を寄せ、真剣に国語辞書を読み解こうなんてことは、日本人でもあまりやらないと思う。そのうえ、同じ表情で児童文学から時代小説からラノベから、全部を読み倒すのだからおもしろい。


 その最近の彼女のお気に入りは、現代用語の基礎知識とウィキペディアだ。手っ取り早くこちらについての疑問の大枠が解消されるのですばらしいという。

 今じゃ慣れた手つきで各種検索エンジンまで使いこなす彼女は、ネット検索で調べ物をするローブ姿の魔術師なんてシュールな絵なのに、既に違和感を感じなくなっていることを凄いと思う。最初こそ“コンピューター”というものがよく理解できず操作も覚束なかったのに、いちど一通りの操作方法を覚えた後は早かった。

「魔術の道具と思えば、問題ない。それに、無料で、こんなにたくさんのことを学べるなんてすごいこと。この世界は、ほんとうにすごい」

 目を輝かせて、彼女は言った。


 イルは人間ではない。黒妖精と呼ばれる種族なんだという。

 本来は世界の地下深くで暮らす、闇妖精とも呼ばれる種族で、魔法への造詣が深く、生まれながらに魔法を使いこなせる……らしいのだが、あまりピンと来ない。日本で魔法なんて、物語の中のものでしかないのだから。

 だから、彼女の長く尖った耳と白い髪に黒い肌は、最初は何かそういうコスプレなんじゃないかと思ったくらいだ。小柄で細身の身体は平均した日本人女性よりも華奢だけど、顔立ちを別にすれば日本人で十分通じるような体格だったし。


「ナート、外を案内してほしい」

 今日のイルは、朝からここへ来るなりそう言って、髪につけた飾りに何か不思議な響きの言葉でひとこと呟いた。瞬く間に彼女の耳が丸くなり、日本人のような肌色と髪色になる。

「いつもながら、すごいね、それ」

「ああ、変装のための魔術道具。ちょっとだけ見た目を変えることができる」

 イルの種族に対する偏見のひどい地域ではこれを使って種族を偽るのだと、肩を竦める彼女の頭を、ついひとつ撫でる。

 ファンタジーの世界でも、偏見というのは健在らしい。


 こちらに用意してある服に着替え、靴を履いて玄関の外へ踏み出すと、眩しそうにイルは空を見あげた。

「眩しい? 大丈夫?」

「大丈夫」

 夏の日差しはだいぶ強い。イルの話を聞く限り、彼女のいた地域よりも日本の方が緯度的には低く、ここでの日差しはきつく感じるようだ。

「ああ、妹の日傘があるから、借りて行こうか」

「日傘?」

「そう。はい」

「ありがとう」

 大丈夫とは言ったけれど、日差しを遮ることができて、少しほっとした顔になる。

「で、どこか行きたいところがあるの?」

「博物館というところに行きたい」

「……なら、上野かな。土曜日だから混んでると思うけれど」

「上野?」

「あそこには、国が作った博物館があるんだ。国立科学博物館と国立博物館、どっちがいい?」

 どんな展示物があるのかを説明すると、イルは「では、国立科学博物館を」と希望した。


 イルが電車に乗るのはこれで数度目だが、彼女は未だに慣れないようだった。轟音とともに隣の線路を飛ばしていく特急列車には、相変わらずびくりと驚くように反応する。

「大きな音は、苦手。襲われたかと、思う」

 くすりと笑ってしまう俺に少し顔を赤らめてそう言い訳する姿は、ちょっとかわいいんじゃないだろうか。

 初めて来た駅のホームで、爆音とともに通り過ぎる特急に心底驚いていきなり地面に伏せてしまったのは、それほど前ではない。

 似たような爆音を轟かせる魔法があって、身体がつい反応してしまうのだそうだ。


「……ナート、日本にも、ドラゴンがいる?」

「いや、これはドラゴンじゃないよ。トカゲの先祖。恐竜」

「先祖?」

 国立科学博物館で展示されている恐竜の骨格標本を見上げて、イルが目を丸くする。

 イルは、どうも“進化”という概念に馴染みがないようで、進化論はピンとこないらしい。イルの世界はどの生き物も実際に神々が作ったという、天地創造説を地でいく世界なのだ。進化の結果で今の生物がいるのではなく、神々が作ったから今の生物がいるという世界に、進化などというものはないらしい。

「ものすごく簡単に言うと、恐竜が何千万年もかけてこの世界の環境に適応して姿を変えていった結果が、今存在してる生き物なんだよ」

「……こんなに、変わるもの? この世界、神がいないって、ほんとうに?」

 ぐぅっと眉根を寄せ、納得がいかないと彼女は呟く。イルとしては、魔術で作った生物が野生化してこうなったと言われるほうが、よほど納得できるものらしい。


「何から何まで違うから、おもしろい」

 たぶん、イルの世界では科学の代わりに魔術が発達したってことなんだろうな、と数々の展示物を眺めながら話を聞く。宇宙の構造みたいなものへの考え方や認識までが全く違っていて、たしかに興味は尽きない。

 科博を出てからもあれこれと話し続ける彼女に苦笑しつつ、そういえば、そろそろ昼だったと中天に差し掛かった太陽に目をやった。

「せっかくだから、昼を食べて、それから甘味屋でも寄って行こうか」

「かんみや?」

「そう、上野界隈には結構多いんだ」

 甘いデザートを専門に出す店があると聞いて、イルは目を輝かせる。女の子が甘いものに弱いのは、どの世界も変わらないらしい。


「日本は、いろいろなおいしいものが食べられて、すばらしい」

 昼食を食べて腹ごなしに少し歩いた後、クリームあんみつと抹茶のセットをじっくりと味わいながら、しみじみとイルが言う。

「口に合ったみたいで、よかったよ」

「さっぱり甘くて、このお茶ともすごく合う。こんなに細やかな料理は、宮廷でもなければ食べられないものだ」

 こういうものをいつでも食べられるなんて、ほんとうに羨ましいと、スプーンにのった寒天をじっと見つめながら呟くのだからおもしろい。

「じゃあ、次にこっちへきた時は、カフェ巡りでもしようか」

「カフェ?」

「こういう、お茶やお菓子専門の食堂、といえばいいかな」

「それは楽しみ」

 にっこりと微笑むイルに、なんだかデートでもしているようだと考えてしまう。


 その後もせっかく都内まで出たのだからと、秋葉原やら皇居やらを案内し、日が暮れる頃にようやく帰宅した。

「あ、お兄ちゃん帰ってきた!」

「お帰りなさい」

 妹とその彼氏に出迎えられ、手を振りながら「父さんと母さんは?」と尋ねる。

「今日はふたりとも伯父さんのところに泊まるって、連絡があったよ」

「やっぱりそうか」

 父と伯父とは仲がよく、何かと言うとこうして遊びに行っては酒を飲んで結果お泊まりということがよくある。

「じゃあ、夕飯はどこかで適当に済ませようか。車を出すけど、何か食べたいものはあるか?」

「んー……しゃぶしゃぶ」

「また、あそこか」

 この辺りではおなじみのチェーン店の名前をあげる妹に呆れつつ、イルと彼氏を見ると、苦笑しながらも「では、そこで」と頷いた。


 1年半前、突然行方不明になった妹は、半年前にようやく帰ってきた。家族は皆死ぬほど心配していたのに、帰宅するなり彼氏を紹介するとか、うちの妹は26にもなって大丈夫なのかと、いっそう本気で心配したものだ。

 しかも、連れてきた彼氏の背中に翼が生えてるとか、その“仲間”がどいつこいつも人間ではないとか、何の冗談なのかと思った。父も母も今にも卒倒しそうな顔色で、混乱したまま「娘がお世話になりまして」と礼を言うのがやっとのありさまだった。まあ、無理もないだろう。

 だが結局、慣れとは恐ろしいもので、こうして、彼らが“次元渡りの魔術”とやらでふたつの世界を行き来することにも、すっかり家族全員が慣れてしまった。

 妹の「明日、カイルが来るって」という言葉に「あ、そう。じゃあ温泉にでも行ってきたら」と返す母の姿からは、最初の「天国へ嫁になんてやれません!」と叫んでいた時の面影など欠片も残っていない。

 俺も、まさか30を過ぎてから、こうして黒い肌の魔術師を相手に言葉を教えたり、あちこち連れ歩いたりするようになるなんて、何の因果だろうかと思ったものだ。


 まあ、でもこういうのも悪くないんじゃないだろうか。

 すべて世はこともなし、だ。


「ところでお兄ちゃん、まだイリヴァーラの名前、ちゃんと発音できないの?」

「……日本人には難しいんだよ」

 俺はカタカナ名前が覚えきれなくて、世界史選択を諦めたんだ。ほっといてくれ。

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