異なる立場
なぜ、こんなところにいるのかわからなかった。
いつもどおり、学校から帰っていたはずなのに。
建物の形を見ると、病院か学校のように見えた。たぶん、大学というものだろうか。
オープンキャンパスで見たところに雰囲気がよく似ている。
なんだか、身体がふわふわして気持ち悪かった。
どうにかして、足をうまくつこうとするが、自分の身体が自分のものでないようで動きづらい。
どうしたものだろうか、と周りを見る。
知らない場所だが、ずっとここにいるのも意味がないのでふらふらと歩いていく。
なんだかとてもお腹がすく。
さっき、コンビニで間食したばかりだと思ったのだけど。
うろうろとなにかないか探す。
すると、なんだかとても良い匂いがしてきた。
甘い甘い、糖蜜のような匂いがする。
本能に逆らえず、匂いのもとへと身体が動く。
地面を滑るように歩く自分は、まるで爬虫類かなにかにでもなった気分になった。不思議と、身体が蛇行するように動いている気がする。
おいしそうな匂い。
そこにあったのは、食べ物でなく、鬱屈とした青年だった。
目がどんよりとしている。
どうしたのだろうか、不思議と手が伸びていた。見ず知らずの青年に、こうして接触するなど、普段の自分には考えられなかった。
あれ、と触れた途端、お腹の中が少しだけ膨れた気がした。
鬱々とした青年が、触れたことに気がつかないのをいいことにもう一つ手をのせる。
甘い蜜が舌の上を撫でるような感覚がした。
なんでだろう、青年は気づかない。それとも、気づかないふりをしているのだろうか。
自分のやっていることが、とてもはしたない真似だと思う。だが、本能には逆らえなかった。
青年の背中に枝垂れかかり、その首筋に舌をはわせた。
とてもおいしかった。
甘く濃厚でお腹を満たしてくれる。
ありがとう、と青年に伝えたかったが、青年は自分の言葉に耳を傾けようとしない。
それでも、これだけ密着した自分をはねのけようともしないのだから、問題ないのだろうと、食事を続けることにした。
これが、青年との出会いだった。
青年は悩みを抱えているらしく、中庭に来てはぶつぶつと独り言をもらしている。
ここにいても、問題はないだろうかと考えたが、そういうときの青年はとてもおいしくて離れようにも離れられない。
きっと、悩みを聞いてもらいたいのかもしれない、そう自分に都合のよい理由をつけて一緒にいた。
彼の悩みはどんどん深くなっていく、なにもできない自分がもどかしいが、どんどん彼がおいしくなっていくのを思うと、もっとおいしくならないかなとひどいことが頭に浮かぶようになった。
自分が嫌だと思ったけれど、一度食べた甘露は忘れられず、おなかいっぱいになるまですすった。
蜜月はずっと続くかと思われたのに、自分と彼を引き裂こうとするものが現れた。
いつものように、鬱屈な青年に密着し、食事をしていたところだった。
すると、全身が総毛立つような気持ち悪さが辺りに広がっていた。
わけがわからず、青年にすがりつく。不気味で気持ち悪くて
こわい、こわい、と震えるしかない。
近づいてくる男は、優しげな顔をしていたが、なんだか気持ち悪かった。
片手に持つ小包からとても気持ち悪い空気が流れている。
近づかないで、ねえ、どこかへ行こうよ、と青年にすがりつく。青年は、焦点のさだまらない眼を近づいてくる男に向けていた。
にこやかな青年は、ポケットからなにやら小瓶を取り出す。
蓋をとると、いきなり中身をふりかけた。
硫酸かなにかだろうか、触れた部分がじゅわじゅわと焼けただれていく。痛い、熱い、どうにかして、と青年にすがりつく。
ぎゅっとしがみついたせいだろうか、青年の声に呻きが混じる。
ごめんなさい、と腕をゆるめようとすると、笑顔のまま男が自分と青年の身体をはなそうとする。男の手に先ほどの液体がふりかけてあるらしい、触れた部分が熱く火傷の痕を残す。
どうしていじめるのか、わからなかった。
ただ、お腹がすいてさびしくて、だから、一緒にいたいだけだというのに。
くやしくて腕を振り上げて地面を叩くと、激しい地響きがおこった。
わけがわからず、周りを見渡すと、男の他に女の子がひとり呆然と立っていた。
手には、なんだか嫌な感じのする小包を持っていたが、どうでもよかった。
女の子の顔は、なんだか憐れむようなさびしそうな顔をしていた。青年ほどではないにしろ、なんだかおいしそうに見えた。
身体をひねり、女の子のほうへと近づいていく。
女の子はただ、呆然と立っていた。これは、自分を受け入れてくれると肯定してよいのだろうか。
いただきます、と女の子に触れようとしたとき、視界が急に変わった。
あれ、っと首を動かそうにも自由に動かない。
視線は空を舞い、校舎を過ぎ、衝撃とともに芝生が広がった。
太刀を持った男がそこにいた。
先ほどの笑顔の男とは違う、目つきの悪い、機嫌の悪そうな男だ。
銃刀法違反だ、と考えてしまう。
なんであんなものを持っているのだろうか。
不思議に思ったが、答えはその場に落ちていた。
ああ、そうか、と。
自分がなぜ、あのとき、見ず知らずの場所にいたのか。
学校帰り、道草を食いながら家路についていたはずなのに。
寄り道しなければよかったなあ、などと今頃反省しても遅かった。
でなければ、信号無視のバイクにはねられたりしなかったのに。
よほど、スピードを出していたのだろうか。
身体が勢いよく吹っ飛ばされ、そして、運の悪いことに、頭をひどく打ち付ける着地をしてしまった。
胴体と首が離れたことで、ようやく気が付いたことがある。
あんな身体をしていたのだと。
どおりで動きにくいわけだ。
蛇の身体に無数の脚の生えた奇妙なもの。
あれでは、たしかに化け物だと。
なぜだか笑えてきて、ゆっくり目を瞑った。
○●○
「ぼけっとするな、邪魔になる」
総一郎は、刀を鞘に収めると、遊子を見た。
遊子は目の前で、繰り広げられた惨劇に目を細めるしかなかった。
きっと、総一郎以外の二人、鈴城も小柳も、先日の化け物と同じように、異形のものに見えたのだろう。
大蛇に百足の脚がはえたかのようなそれに。
しかし、遊子の目にはそれに折り重なるように、自分とさほど変わらない少女の姿がうつりこんでいた。
自分がどのような姿になったのかもわからず、青年にすがるように憑りついていた。それは助けをもとめた姿だったのか、それとも単純に食事の相手としてだろうか、どちらでもよい。相手の精神を蝕んでいくのにも気づかずにいたのだろうか。
黒く霧散する塊には、何が起きたのかわからない少女の頭が横たわっていた。
遊子は目が良い。
すなわち、見なくてもよいものを見てしまうことをいう。
先日の神社の件もそうだ。最初、遊子だけが見えていた。
見えているものは人それぞれ違う。
あのとき助けた少年が、遊子を別のものと見えていたように。
総一郎らに罪悪感はない。
それを止める理由はない。
それを統括する朔也に至っては、化け物自体見えないのだから。
自分にできるのは、見ることだけ。
話しかけることも、話を聞くこともできない。
たとえ、できたとしても彼女に何をすることができようか。食事をやめてくれというのか。餓死をすすめることなどできようもない。
化け物となった少女は、すでにひとでなく、この世のものでないのだから。
この場にあり続けること自体が、澱みを生む原因であり、それを放置するわけにはいかないのだから。
あのまま、総一郎が飛び出さなければ、遊子は手に持った小包を開いて使っただろうか。
そっと風呂敷を開くと、白木の短刀が入っていた。
母親からもらった小柄の代わりだろう。
(本当に甘ちゃんだな)
沢渡に憑りついた化け物なら、躊躇なく首を狙うのに。
本質は変わらない、ただ、その割合が違うだけで。あの昆虫のような化け物は、あまりにいろんなものが混じり過ぎて、人間らしい欠片もなかった。きっと、先ほどの蛇の化け物も、時間がたてば似たようなものになっていただろう。
その差異は、遊子にとって大きかった。
(同情してはいけないか)
母もまた、同じように見てきたのだろうか。
そして、なにもできずに手をこまねいていたのだろうか。
「もう遅いけどな」
遊子はぽつりとこぼすと、消えゆく少女の生首から目をそらした。