翁
「どうする? 俺も一緒にいようか?」
鈴城は遊子を心配そうに見ている。遊子は首を振ると、部屋をノックした。
客間には女中がおり、奥のベッドには総一郎が横たわっていた。
部屋は快適な温度に保たれているのに、総一郎は眉間にしわをよせ、寝汗をかいていた。傷口が熱を持っているのだろうか。
「飲み物を用意しますので」
女中が退室する。とってつけた用事は、気を利かせてくれたのだろう。
遊子は、用意された椅子に座り、夢見の悪い青年の顔を見る。眉間のしわが普段より深く、顔色も悪い。
なんといえばいいのかわからないまま、一日が過ぎてしまった。自分がここにいてよいのかもわからない。目障りな顔を見せる前に退室したほうがよいだろうか。
「ありがとう」
遊子は、謝罪ではなく、礼を告げた。
自分を助けるためにやったことだとすれば、こちらのほうがふさわしいと思ったからだ。
椅子から立ち上がり、背を向けると、手首をぎゅっとつかまれた。
「そんだけか?」
不機嫌な青年は、鋭い眼光をこちらに向けている。
「他になんといえばいい?」
遊子は眉根を寄せて答える。本当に何をいえばいいかわからなかった。
総一郎は呆れたようにため息をついた。
「別に気にすることない。皮が少し切れただけだ。内臓に傷はない」
「その割に顔色は悪いぞ」
「気のせいだろ」
「目つきも悪いぞ」
「生まれつきだ」
遊子が顔を少しほころばせると、総一郎はつかんでいた手をようやくはなしてくれた。
遊子は椅子に座りなおすと、じっと総一郎を見る。
「なあ、あのまま、おまえが止めなかったらどうなっていた?」
確認するように遊子は聞いた。
「一般的に考えると、殺人もしくは殺人未遂だな。しかも、相手はVIPだ。お館様がたもただじゃすまない」
一応、今の状況も殺人未遂にあたるのだが、周りが何も証言せず総一郎が被害届をださなければもみ消すことは可能である。総一郎にその意思がないことは明白だが、葛城の出方が不可解で仕方ない。
朔也の手前、処理をまかせているということだろうか。
「あれは、やはり人間なのか」
遊子はうつろな目を総一郎に向ける。遊子はごくりと唾を飲み込む。
「ごく一般常識に当てはめればな」
人間の姿をした人間。その中に入っているものも同じく人間の姿をしていた。ただ、器と中身が食い違い、歪にぶれていた。
まるで遊子のように。
遊子は鏡を見るのが嫌だった。あの青年、葛城と同じ顔が遊子の顔とだぶって見える。忘れようとも忘れられない、だから遊子はいつまでも遊子になりきれなかった。
娘の身体に入り込んだ異物を母は排除しようとしなかった。ただ、遊子ではなく遊子と呼んだ。
遊子は自分の手のひらを見る。かつて、自分も同じような姿をしていた。いつも、幼い遊子を俯瞰するように浮かんでいた。それが、年月とともに同化していった。赤子として笑っていた自分と、それを眺めていた自分。前者が本当の遊子であったとすれば、今の自分は真人が遊子の身体を乗っ取った姿ということになるのではないだろうか。
「ごく一般ならば、か」
「ああ」
その常識を素直に飲み込めたら、今の自分はよほど楽なのだろう。なまじ、真人としての記憶を持っているから、今の苦しみがあるのだから。
「深く考えなくていい。奥様もおふくろも言ってただろう」
あんなに冷たかった総一郎が、今は駄々っ子を言いくるめるように話すのがおかしかった。遊子としては、自分のほうが年上だと思っているのに。
わかっている、わかっているが。
それは、同時に真人としての存在を否定されたかのようで、受け止められなかった。
自分の身体を奪ったあの男が憎くて憎くてしかたがない。だから、衝動的にあんな行動にうつした。母が護身用にと渡してくれた短刀はそんな使い方を望まなかったはずだ。
「私はおそらく、あの男の前で平静ではいられない」
遊子は、この世にあってはならないものを冥府へと突き落すために何でもするだろう。遊子として生まれてこのかた、そのことを考えていたのだから。
それが、今の自分の存在を否定することを意味していても。
「なら、俺が止めてやる」
それがいつもの役目だから仕方ないと、総一郎はそっぽを向いた。
遊子は唇を歪めると、そっとうつむいた。
「面倒ばかりかけて悪いな」
せっかく、自分から逃げてこの学園に来たというのに。
せめてお返しにと、なにかできることはないかと、
「たいしたことじゃないが……」
私がおまえにできることなら、なんでもやってやる、と伝えると、総一郎は細い目を見開き、じっとこちらを見る。
(やはり迷惑だったか?)
遊子にできることなどたかが知れている。いらぬものなのだろう。
遊子がしゅんとなると、総一郎は慌てて何かを言いかけようとしたが、ナイトテーブルに置いた携帯電話が鳴った。
『おい、木月、遊子もいる?』
「はい」
声の主は、朔也だった。声が大きい、総一郎の耳元をこえて遊子の耳にも届いた。
『今すぐ広間に来て』
ただならぬ様子で、着信を切られた。総一郎は目を伏せると、脇腹をおさえてベッドから立ち上がった。
広間につくなり見えたのは、遊子の見覚えのある人物だった。隣にいる総一郎が横腹を押さえながら半歩後ろに下がった。
「久しぶりだな」
低いしわがれた声が話しかけてくる。
「……お久しぶりです」
遊子は真っ白な髪に長い髭をたくわえた老人を見た。深く刻まれたしわには苦労がうかがえるが、背は曲がる様子もなく、空気を重くさせる威圧感を持っていた。
身内でもけっして甘さを見せない、それが祖父、孝人だった。
朔也の様子から、もう話はされているのだろう。朔也は浮かない顔をしている。
「健さまから話を聞いている。さぞや、迷惑をかけたようだな。うちに帰るぞ」
「……」
(なるほど)
葛城と朔也が黙っていても、事情を知る者はもうひとりいたのだった。
遊子を外聞にださず処罰するには、これが一番妥当だろう。
どのように説明したのかはわからないが、東皇の血筋に言われては祖父も動かざるをえない。
たとえ、どんな理由があろうとも、健皇子には葛城は兄なのだろうか。葛城が、肉体の上では他人だとわかっているというのに。
でなければこんな真似はすまい。
「おまちください、孝人さま」
遊子の手を掴む祖父を総一郎が止める。祖父が父に家督を譲ってから、父を『お館さま』とよび、祖父を名前で呼ぶようになった。
「その件につきましては……」
「使用人の連れ子が、口をはさむな!」
怒気を含んだ声が広間に響き渡った。
遊子は頭がかっとなり、祖父の手を振りほどこうとしたが、総一郎が無事な手を添えて制した。
遊子は唇を噛みながら、震える拳をおさえた。
いつもそうだ。
祖父は、自分を道具のようにしか考えず、総一郎を使用人の子として切り捨てる。
祖父は父を甘い人間だというが、反対だ。祖父があまりに冷たすぎるのだ。
家に対して、経営に対して責任のある立場だとわかっている。甘く見られては、誰につけこまれるかわからない。それによって、何千、何万という人間が露頭に迷う可能性もはらんでいることも。
遊子は、反抗的な目を見せないように瞼を強く閉じる。
祖父は表情の見えない鋭い目を遊子に向けていることだろう。
総一郎は、口を閉じたが引く様子はなく、遊子と祖父の間に立っている。
「随分と生意気になったものだな」
「……、申し訳ありません。口が過ぎました」
総一郎は、また一歩下がる。
遊子と同じく吐き出したい感情を必死に押し込めているようだった。
遊子以上に総一郎の立場は狭い。
「ねえ、東雲の翁」
今まで黙っていた朔也が口をだす。言い方はかえているが、つまりは『じじい』呼ばわりである。
豪胆な朔也の言葉に、遊子や総一郎だけでなく、鈴城も青ざめている。ただ、小柳だけは、言葉の意味を理解できないらしく首を傾げている。心底、このくまさんのような男を遊子はうらやましいと思った。
「いまは東雲の娘は、僕の預かりとなっている。いきなり来て、承諾なしに連れて行くのはどうかと思うよ。身内だから面会を許したのだけど」
朔也はおもむろに書面を見せる。以前、朔也とかわした契約書だった。仕事内容は大変うさんくさいものだが、契約自体は成立している。
祖父は一瞥すると、鼻を鳴らす。
「未成年者を保護者が引き取ることにどこが無礼といいますかな」
至極まともなことをいう。朔也も、言い返す言葉がないだろう。
しかし、朔也は落ち着いたもので、ならば、とちらりと総一郎を見る。
「わかりました。しかし、こちらとしても簡単に引き下がるわけにはいかない」
「なにか条件でも」
「ええ。木月を一緒に連れて行ってもらえませんか」
朔也はちらりといつもの底意地の悪い笑みを見せた。
祖父は一瞬、顔を曇らせたが、本家の皇子をないがしろにするわけでもなく頷いた。
遊子は、朔也の思惑になにか疑問を持ちながらも、祖父に従うことにした。
○●○
「思い違いだとよかったんだけど」
遊子が去ったあと、朔也は大きなモニターを前に苦笑いを浮かべた。東雲の爺が来る前にも見たが、もう一度確かめるように眺める。
それは、昨日から今日にかけて起きた事件現場の映像だった。
そこにいた人間が、何かに吸い込まれるように消えた。
到底、常識では考えられないことが起きていた。
学園内で三名、その場面にいたと思われる所在不明者がでていた。
学園内のモニターには、一人の男がうつっていた。痩身の青年、切れ長の涼しいまなざしをした男だった。
昨日、遊子が襲い掛かった葛城である。
食い入るように画面を見てもなにもわからない。映像越しではみえるものも歪んで見えるという。
どちらにしても、見鬼の才の欠片もない朔也にはわからないものだろう。
映像を切り替えると、色で区切られた温度分布図に異質のものがうつっていた。信じたくないとはいえ、現実を受け止められない朔也ではなかった。
「生ける屍か」
深く爪を噛む朔也。
歯がゆくてしかたないが、そこに兄と呼ぶものを心配する自分がいないことに気が付いて驚いた。不思議なほど冷静だった。
上の健ほど頻繁に会わず、母の愛情を一身に受ける兄を嫉妬しているのではないかと気づいて首を振った。
それでは、できそこないだけでなく、どうしようもなく醜いいきものになってしまう。
いや、いっそそうなってしまったほうが楽だろうか。
健は朔也とはちがった感情を葛城に持っているのだろう。
だからこそ、遊子を東雲の爺に引き渡す真似をしたのだから。
それは、逆に朔也としても都合がよかった。
朔也に今の葛城をどうにかする方法は、一つしか思いつかなかった。
兄と呼んでいたものが、そんなものだとわかっていてそれをどうすることもできない。
朔也に力はない。
西のもののように見えざるものを見る力も、それを打ち倒す力も。
東のものが化け物を打ち倒すには条件が必要である。
それを行うための道具さえあれば、誰よりも化け物どもの天敵となる存在になる。
迷ひ神をまったく感知できない東皇の男子は、かわりにある特性を持っている。完全に物理化しない限り、迷ひ神は東皇の血筋のものをまったく傷つけることができないのだ。
真人の場合、西皇の血が混じったことで、迷ひ神は見えないが干渉されるという貧乏くじを引いた体質となってしまったが。
つまり、そこに迷ひ神を見ることができる道具を手に入れれば、言うまでもないだろう。
無能者が東皇たる所以である。
東皇家には、宝刀といわれる見えざるものを見せ、それを斬る刀がある。朔也にはさわることもできない代物である。
現在は、伯父が所有しており、簡単に借りることはできないだろう。
ましてや、世継ぎたる葛城を斬るためとなると。
それに及ばずとも準ずる代物があることを朔也は知っていた。
宝刀が幾つか打たれたうちの真打であり、その兄弟刀があることを。
その中で、近代まで所在がわかっていたが、のちに不明になっているものがあった。
臣籍降下され、『東雲』の家ができたころである。
ひとつの賭けだ。
総一郎がうまく立ち回ってくれるとよいが。
兄を倒すことに、思考をめぐらす自分が何とも醜い生き物に違いないと、嗜虐的な笑みを浮かべた。
父に知らせれば、どのような行動に移すのか理解できる。その手間を省くために、朔也がいるのだ。
母にまた嫌われてしまうな、と。
「朔也さまは正しいですよ」
鈴城が心を読んだかのような言葉をかけるのがおかしかった。
差し出されたミルクティーを口に含んだ。