真人
一体どれだけ歩いただろう。
深い霧に覆われた森は、自分の視界と平衡感覚を狂わせるには十分で、同じところを何度も回っていた。
総一郎は帰ってしまったし、このまま戻るのも癪だと進んでしまったのが間違いだった。
真人は、木を背もたれに座り込む。
つまらなかった。
母は妹が生まれるからといって部屋に籠もりきりで、おばさんもそれに付き従っている。出産は産婆を呼んで自宅で行うのが習わしだった。変な家だな、と真人は思う。小学校の誰もそんなことはしないって言ってた。
それよりも、明日は真人の誕生日だ。このままじゃ、せっかく誕生日なのに誰も祝ってくれない。
七つの祝いは特別だと母がいったことなのに。
真人は、左腕を見る。
指先でまじないをなぞる。見よう見まねで書いたそれは、母のなぞる紋様とは全く違う。
昨日まで毎日やっていたことだが、産気づいて今日はやってもらっていない。
七つになるまで毎日やれといわれていたことだ。
子どもは七つになるまで神さまのものだから。
返さなくてもいいように、まじないを唱えていたのに。
(赤ちゃんはずるい)
真人が不貞腐れて唇をとがらせていると、ふと背筋が寒くなった。
まだ、八月も半ばだというのに。
なんだかものすごく気持ち悪くなって、早く家に帰ろうと立とうとするが、身体が自由に動かない。
両肩に何かがずっしりのしかかり、身体を押さえこんでいるようだ。
(なにかいるのか?)
真人にはわからなかった。母やおばさん、それに総一郎ならなにか見えるのだろうが、真人にそれらしい能力はない。父も祖父も何も見えない、東雲の男子の血は、見えざるものをまったく感知できないのだ。
なにかが、身体のなかに入り込もうとしている。
気持ち悪くて動こうとするが、動けない。
涙目になりながら、そこにあるなにかにあがこうとするが、なんの意味も持たない。
そんな力はない。
だから、母は毎日呪いを唱えていた。
見えざるものに、攫われないように。
入り込むなにかに押されるように、自分という殻から真人のなにかが抜けていく。
俯瞰するように、己の身体が見えたとき、それに張り付くなにかがようやくみることができた。
少年、それが真人の身体を押さえこみ、入り込もうとしていた。眼窩の落ちこんだ病弱な子どもが今まさに真人の身体を奪おうとしていた。
(やめろ)
糸の切れた肉体に、少年は入り込み、口を開く。
「いやだ」
それは、先ほどまで真人として発していた声だった。
それなのに、自分はここにいるのに、違うなにかが自分の身体を使っている。
真人だった自分はなにもすることができず、ただ、その壊れたロボットのような動きをする少年が去るのを見ることしかできなかった。
叫ぼうにも、あがこうにも、それを行う肉体を奪われてしまった。
真人は真人でなくなった。
なすすべもなく漂うしかなかった。
遊子は、冷たく固い感触を頬に感じた。
上下のまつげが涙でやにが張り付いている。瞼をゆっくりあけると、そこはあまり趣味のよい場所ではなかった。
鉄格子がはめられたそこは、以前、老執事が眉をひそめて案内してくれた場所だった。朔也の屋敷の一部だ。古い洋館をそのまま移築したとはいえ、拷問部屋付とはいささか趣味を疑ってしまう。さすがに、それらしい道具はないが、壁に鎖と鉄枷がついたままである。
遊子はそれにつながれているわけではなかったが、手錠だけはしっかりはめられていた。
遊子は、ゆっくり身体を起こすと、目の前に知らない奇妙な人物が座っていた。
「よお。いいご身分だな」
和服に虎の毛皮を腰に巻いた奇妙な少年が顎を背もたれにのせて椅子に座っていた。逆立った髪といい、耳に大量にあけられたピアスといい、服装といい、一般常識をかけ離れたセンスをしていた。
少年は椅子から立つと、遊子の前にきた。鉄格子越しに遊子の髪をつかみ、空いた拳で殴りつける。
鉄格子が邪魔をして威力をそがれているが、鼻骨に衝撃を与えるには十分で、ぬるりとした感触と鉄の味が口に広がる。
「おまえ、兄貴になんの恨みがあんだ?」
石畳に遊子の顔を押さえつけ、高圧的に言ってくれる。
(兄貴か)
あの男の兄弟か。
遊子は思わず笑っていた。すると流れた鼻血の血だまりに顔面を打ち付けられた。
「何がおかしいんだよ」
少年は苛立たしげに言い放つ。
声の甲高く体格は遊子と変わらないくらいである。まだ、成長期だろうか。
護衛に縛り上げられ、牢に押し込められ、一方的に殴りつけられる。一見、理不尽なようにも思えるが、それだけのことを遊子はやった。秘密裡に消されてもおかしくないことを。
(そりゃ仕方ないか)
皇族に刃を向けたのに、このような処置で済んでいるのが不思議である。警吏に引き渡さず、こうしているのは朔也の計らいだろうか。それにしても悪趣味すぎる。
両手を雪駄で踏みつけられる。先ほどの殴り方といい、なかなか容赦がない少年だ。
だが、今はそれが心地よいとさえ思う。先ほどまで掴んでいた懐刀の肉をえぐる感触、血の滴り落ちる音、錆くさいにおい。それが自分の血と踏みつけられる手の痛みで上書きされるのなら、喜んで差し出そう。
あの男に襲いかかったことに後悔はない。ただ、総一郎を傷つけてしまったことには、自然と涙があふれてきた。
(なぜ邪魔をした?)
遊子は、憎々しげに見下ろす少年をぼんやりとみていると、複数の足音が近づいてきた。
「健、私刑とはいささか趣味が悪いよ」
朔也が鈴城と小柳、そして見慣れない和服の女性を連れて歩いてきた。中世の貴族女性を思わせる長くゆったりとした髪を、和紙でひとまとめにしている。女性は目を潤ませ、じっと健と呼ばれた少年を見ている。
「胎教にも悪いだろ」
朔也が、いつもと違う真面目な声で言った。
「知っていたのか?」
冗談めいた口調で健が言う。
「馬鹿にしないでよ。あにぎみの様子を見れば、一目瞭然だろう」
「そうですかい」
健は遊子の手を踏みつけていた足をどけると、和装の女性のもとへと近づく。女性が大きいのか、それとも健が小さいのか、二人の体格はほとんどかわりなかった。
朔也が『兄』といったところを見ると、あの男は朔也の兄でもあるのか。なるほど、朔也が会わせたかったのは自分の兄だというわけか。あの男もこの少年も皇子ということになる。
では、遊子のやった行為について許せるわけがなかろうと、納得する。
遊子が血と涙で汚れた顔を歪ませると、朔也と目があった。
朔也は、いつもの皮肉めいた笑みはなく、無表情のまま遊子を見下ろしていた。
「聞きたいことが多すぎる。居間まで来てくれる」
言い放つと鈴城を連れて出て行った。
小柳だけはつぶらな瞳に戸惑いをのせながら、遊子を檻からだしてくれた。ハンカチではなくスポーツタオルを差し出してくれたのは、彼らしかった。
アンティーク家具で揃えられた豪奢な居間には、朔也と鈴城、健皇子とそれに付き添う女性、それに左手と脇腹に包帯のまかれた総一郎がソファに座っていた。
総一郎の顔色は悪かったが、命に別状はないらしい。腹を完全に刺したわけでなく、左手を指し込んでいたようだ。親指で、自分の隣を指さす。ここに座れということらしい。
朔也も首を縦に振るので、遊子は総一郎の隣に座る。
遊子の両手にはまだ、手錠がかかったままで、顔だけは小柳が不器用ながら拭いてくれたので多少まともになっている。多少、青あざができているのに気付いたのか、総一郎は苦虫を潰した顔をした。遊子が怪我をすると、いつも怒られるのはお目付け役の総一郎だったからだ。
猫脚テーブルの上から、紅茶と香ばしいクッキーの香りが漂ってきたが、誰もそれに手をつけていない。そんな気分にはなれそうにない。
健皇子が口を開こうとすると、朔也は右手でそれを制した。
わかったといわんばかりに、健皇子は両手を広げて見せる。
「どういうことか教えてくれる? 意味もなく襲い掛かるわけでないよね。僕にはわからないけど、木月だけでなく、鈴城も妙な顔をしているからさ」
朔也は歪な笑みを浮かべていたが、いつもほど余裕はなかった。問いかけるというより、尋問に近い。
鈴城のほうを見ると、口に出しにくいようなもごもごとした顔をしている。
(ぼんやりと見えていたのか)
確信を持てないほどにぼんやりとした影。
まったく見ることのできない朔也には、あの男に重なるなにかなどわからないのだろう。
隣同士に座った遊子と総一郎は、珍しく顔を見合わせ、思いを合わせるように頷いた。
遊子はカードケース、総一郎は手帳を取り出した。それぞれに入っていたは同じものだった。
擦り切れたフイルム写真には、二人の少年が映っていた。ひとりは狐のような相貌に見覚えがあり、もうひとりは遊子によく似ていた。
朔也と健皇子の顔に動揺が走る。
見慣れたものに、片方の少年はよく似ていた。
遊子によく似た顔の主、葛城に酷似していた。
「十六年前の写真です」
遊子は、写真の日付をさす。付け加えるように、総一郎が口を開く。
「一人は俺で、もう一人は遊子の兄にあたり、真人といいます」
「おかしいだろ、資料には何も書かれていなかったではないか」
朔也は首を傾げる。鈴城はいつのまにか取り出した資料を朔也に渡していた。遊子について調べたファイルらしい。
今更ながら、個人情報はダダ漏れである。
「『兄』は私が生まれて数日後に鬼籍に入っています」
『兄』という言葉に妙な感覚をもちながら遊子はいった。
皇族に戸籍がないように、十華族にもかわった特例がある。男児の届け出は十までに行えばよいとのこと。低いながらも皇位継承権が与えられる血筋なので、時に東皇家へと養子に出される場合があるためだ。その際、大きな動揺を防ぐため、皇族はある程度大きくなるまで表には出さないようにする。
なるほど、と朔也が頷く。書類上、いないのであればいないのだ。情報などそのようなものだ。
「死んだの」
「公式には」
歯切れの悪い言い方に朔也は、唇を尖らせる。
「率直に言ってくれる」
「死体は見つかっていません。見つかったのは左肘から先でした」
遊子は事実だけを述べる。
川の氾濫で流されて、見つかったのは腕だけだったということになっている。今、東雲真人の墓にある遺骨は、その腕の部分だけだ。
左肘という言葉に、健皇子が眉をあげたのを遊子は見逃さなかった。
「他人の空似だよね」
「そんなわけがありません」
と、遊子は健皇子のほうをみる。
「なにをいうか、兄上は……」
「兄貴は義手だよ」
ぶっきらぼうに健皇子が言った。まずそうにクッキーを咀嚼している。
「オメーが知らないだけだ。俺も、忘れちまうくらい違和感ない動きするけどな」
ごく一部しか知らないはずの腕の話を知っていたことで、健皇子は不機嫌そうである。
「じゃあ、兄上は東雲真人だということか?」
朔也が首を傾げる。信じられない面持ちで、答えを待っている。いや、本当は答えなど聞きたくないのかもしれない。
困惑と憤りが彼の声をかすれさせていた。
(朔也は知らなかった)
遊子は以前、左腕のない二十代の男性について朔也に聞いていた。表情のとおりまったく知らなかったのだろう。
「いえ、それも正しくありません」
「率直に言え」
苛立たしげに朔也が言った。
「あれの中身は、少なくとも真人ではないからです」
言葉を選ぶように総一郎が言った。ちらちらと、遊子のほうを見る。
「真人は神隠しに遭い、中身が変わってしまいました。あれは人間ではありません。生ける屍です」
「なにかの冗談か?」
唸るような低い声は、到底、朔也から出ているとは思えなかった。
「その根拠はあるの? 三文小説の推測なんか聞きたくない」
いつものおどけた雰囲気とは全く違った朔也は、大の男でもひるませる迫力を持っていた。
遊子は大きく息を吐いた。
「総一郎、隠すことはない」
「遊子!!」
総一郎を手で制し、遊子は真実を語った。
「あれは、私の身体だったからです」
信じられないことをいう。
皆が皆、遊子を見る。
「私は東雲真人だったのです」
遊子の発言に総一郎は拳でテーブルを叩いた。傷口に響いたらしく、顔をゆがめる。
朔也はおろか鈴城、小柳も目を見開いていた。
「取り換え子なんです、私は」
肉体を奪われ、幾度も冥府に連れて行かれそうになった。
「自分の身体を奪われた私は、現世にとどまったまま」
遊子は自分の腹をゆっくり押さえた。
「母の胎に戻り、東雲遊子となりました」
総一郎は拳を強く握り過ぎて、血がにじんでいた。左手も包帯に血がにじんでいる。
「私は、妹の身体を奪い、今を生きているんです」
青あざを残した醜い顔に笑みが浮かんでいる。
胸のつかえがとれた気がした。
○●○
「おまえが遊子ちゃんのこと、隠したがっていたのはそういうことなんだね」
「さあ、どうでしょうね」
朔也の質問に、総一郎はしらばっくれた。
総一郎だけ部屋に残されていた。にじんだ包帯は替えられ、鎮痛剤を飲まされた。遊子はじっと総一郎を見ていたが、かける言葉が見つからず促されるまま退室した。
別に気にしなくてもいいと総一郎は思う。自分が好きでやったことなのだから。
あのまま、遊子を放置していたら、きっと遊子だけでなく東雲の家にも波紋が広がる大問題になっていたはずだ。
今も問題であるのに違いないが、現在、葛城と名乗る皇子はおおやけにせず、朔也に処分をまかせている。どういう意図があるのだろうか。
朔也は、鈴城と小柳からも話を聞いているようだ。ぼんやりとただよう何かを感じたのだろう。
総一郎がいち早く反応できたのも、遊子の目的を知っていたことと、葛城皇子に二重に浮かぶ別のものが浮かんで見えたことによる。
だいぶ落ち着いたものの朔也の怒りはぴくぴく動くこめかみに残っていた。
「祭妃の資格がある母に、東皇の流れを汲む父か。そこに生まれた男児なら、憑代にこれ以上はない」
調査ミスだ、と朔也は爪を噛んだ。
「一方的に怒るのは筋違いだろうな。大本の原因はこちら側にある」
病弱な長兄を見るのは、年に数度ほどだった。もう一人の兄弟は頻繁に顔を合わせているのに。
「十六年前、大きな祈祷を行った記録があった」
「葛城皇子のためですか」
「おそらくな。病の祈祷か、それとも怪しげな呪術をおこなったかは定かではない」
幼少時の皇族の記録は大きく扱われない慣習のため、詳しく調べられない。母が兄に対してただならぬ執着を持っていることは知っている。そして、その原因の一端に自分や健があることも。
「なにかしらの縁で兄は真人に乗り移った。それとも、最初からそのつもりで」
「それ以上は言わないでください」
湧き上がる感情を抑える総一郎がいる。総一郎とて悔しいのだ、まさか自分の幼馴染を奪ったのが目の前の朔也の実兄であるとは。
「兄上をどうしたいのか?」
「あおっていますか?」
遊子の言葉を借りれば、生ける屍だ。早く現世から常世へとうつるべきである。
一方で、肉体は東雲の長子たる真人の身体である。
「あのまま、何も起こらなければ、遊子はどうなってたんでしょうね」
真人は真人として、遊子は真人の妹として生まれ、その精神はまったく別のものなのだろう。
きっと、総一郎は母に頼まれて、遊子の面倒を見ることになったに違いない。
そして、三つを過ぎても「わたしは真人なんだ」と、いうことはなかっただろう。
「子供の世迷いごとだと思わなかったのか? 遊子のことは」
「ともだちだったんですよ。真人は」
小さな遊子の身体には、いつも奇妙なものがついていた。迷ひ神のようでそうでないようなもの。
それは、遊子が年を重ねるごとに、遊子の身体に吸い込まれていった。まるで、異物を長い年月をかけて同化していったかのような。
それが完全になくなったとき、遊子ははじめて『真人』としての思い出を語りだした。
最初、遊子が真人だと喋ったとき、信じられないのと同時に、この上なく嬉かった。小さな遊子を思い出の場所に連れてっては、昔と同じように遊んだ。
それは、いつまでも続くものではなかったのだが。
「複雑なことはこの上ないですけど」
だから、遊子から離れなければならなかった。問題は本人がそのことにまったく気が付かないことだった。
五つだった幼い記憶よりも、それからの遊子と過ごした時間のほうがずっと長かったのだ。昔の真人として扱うには、成長を追うごとに無理がでてきた。
「難儀な奴だね」
「そうかもしれません」
総一郎は、皮肉な笑いを見せた。
朔也も、つられるように笑う。
「おまえが、こちらに来たのは五年前だったよね」
「そうですね」
「そのとき、おまえは十六で、遊子は十一だったっけ」
総一郎は、朔也の確認するような言葉に、背筋が凍る思いをした。
朔也は、小刻みに頷きながら、じっと総一郎を見ている。どうやら、気づいてはならぬことに気づいてしまったらしい。
総一郎は冷や汗が背筋を流れるのを感じた。
「このロリコンめが!」
と、悪魔のような笑いを浮かべ、朔也は言ってくれた。
総一郎は、場に流されてとんでもないことを口走ってしまっていたことに、今頃気づくのだった。




