返せ
「そろそろ、どんな相手か教えてくれないか?」
兄の質問に弟はにっこりと笑う。アイスティーにミルクをたらしかき混ぜている。
葛城は、温かいものをいただく。たとえまだ夏の残りを感じる季節でも、冷たいものは控えている。それが、医師のすすめだった。アッサムの良い香りが漂う。せっかく美しい琥珀色だが、ミルクをたらさなくてはいけない。これも医師のすすめだ。
学園の中庭の温室は適度な温度で保たれている。この季節にガラス張りの中、心地よい空気が流れているということは、そのように空調を管理しているのだろう。小鳥のさえずりが聞こえ、緑が目に優しい。多少、手間がかかったとしてもここ以上に目に楽しい場所はあるまい。
朔也はフィナンシェをつまんでいる。後ろには、柔和で端正な顔をした青年がいる。朔也のおつきでけっこうなお気に入りらしく、前にも見たことがあった。もう一人、先ほど会った青年がいた。彼は、朔也に叩かれていたが一体なにをしていたのだろう。よほど、見つかってはまずいところだったのか、なにも言わず、その場で走り去っていた。その様子を見て、朔也も含め周りの人間は呆気にとられたものだったが、その後、朔也がにやにやと笑っているのを見て、葛城は少しだけ名も知らぬ彼に同情した。
朔也がフィナンシェを半分平らげたところで、温室に新たな客人が来た。
「遅くなりました」
凛とした声が聞こえる。トーンは低いが女性のようだ。葛城はゆっくり声のするほうへと向く。
そこには古風な女子高生がいた。いや、女子高生というより女学生という雰囲気である。東都学園の制服は専門のデザイナーが五年ごとに作り変えているので、レトロな雰囲気はないというのに。すらりとした長身で、この季節に長袖のカーディガンを羽織っている。見ているほうまで暑くなりそうな格好だがその雰囲気は、切れ長の涼しげな眼もとで中和されていた。
葛城の頭に既視感がよぎる。
もう何度も見ているようなその感覚。一体、どこで見たのだろうか。
古風に切りそろえられた前髪は、日本人形のようで、少女もまた葛城をじっと見ている。
きっとお互い同じことを考えているのだろう。
似ていると。
そう、少女はよく似ていた。切れ長の目、細い輪郭、薄い唇、鏡に映る自分の姿に。
ただ明らかに違うのは、性別とその肌色だろうか。少女もまた色白だが、葛城のように青白くない。赤みのさした健康的な肌色だった。
少女は目を見開き、小さく口を動かした。
放心したような、がらんどうの目をしていた。
どうしたのだろうか。
ふらふらと引き寄せられるようにこちらに近づいてくる。しかし、その視線は、朔也のほうではなく葛城に向けられたままだ。
鞄からなにか細長いものを取り出すと、葛城のもとに近づいてくる。布に包まれたなにかを持っている。
「……せ」
ぱくぱくと動かしていた口から、その言葉を聞く。
「よせ!」
今度は、別の声が聞こえてきた。少女の入ってきた入口の反対側から男の声がする。
息を切らせ、やってきたのは先ほど、朔也の前から逃亡した青年だった。鋭い目つきと荒い息が獣のように思わせた。
なにを制止しようとしているのだろうか、その疑問を解決するように少女が行動した。
「……えせ」
少女の声が近づいてくる。
「……かえせ」
少女の持っていた布包みからなにかが見える。美しい拵えの鞘だった。後ろにいた護衛が身構えるがもう遅い。少女は布から懐刀を取り出すと己のほうに向かって襲い掛かった。
誰もが予想しなかった行動だった。そのなかでひとりだけ、少女の反応に追いついたものがいた。
制止の声をかけた青年、荒い息吐いて葛城の視界を遮っている。
「どうして……」
苦々しく言葉をもらす少女の持つ短刀には、赤いしずくが伝っていた。しずくのもとは、少女と葛城に割り込むように入っていた。
目つきの悪い青年がいた。脇腹に短刀の切っ先がめり込み、左手で少女の手を押さえこんでいる。
「なんで邪魔をする?」
まるで、子どもが怒られたときのようなあどけない物言いだった。どうしてしてはいけないのか、純粋にわからないようだ。
「……おまえは、……そんなこと、を、しなくてもいいんだ」
ぶっきらぼうにそれでいて、言い聞かせるような青年の声が聞こえる。青年の頭の向こうに、少女が呆然としていた。顔をしかめることもせず、ただ無表情にそこにいる。だが、その目には、涙があふれそうになっていた。
泣き出しそうな少女はゆっくりと刀から手をはなす。
青年は脂汗をかいてその場に座り込む。
葛城付の護衛たちが少女を取り押さえる。両手をねじ込まれ、顔を地面になすりつけられている。女子どもなど関係なく、皇族に刃を向けたのだから。発砲されないだけ、穏便といえる。
「どういうことだ」
朔也もまた混乱していた。
取り押さえられる少女と刺された青年を交互に見ていた。
なぜ、少女がこのような行動にうつったのか。
それがわかるのは、きっと己と少女と、そしてあの刺された青年の三人だけだろう。
ずっと己の肉体の不備について、不便だと思っていた。しかし、不満ではなかった。
不満に思うなど贅沢なことだった。
『かえせ』
少女はそう言った。
葛城は義手を残った手でつかみ、取り押さえられる少女を眺めた。
『私の身体を返せ』
少女は確かにこういった。
ああ、なるほど、そういうことか。
通りで使い難い身体のはずだ。
昔、行きずりの少年から奪ったのだった。
本当の肉体を失ったばかりのころに。健康な、同じ年頃の子どもから。
名前をなんといっただろうか。
たしか、少年の祖父らしき老人が言っていた。
「……真人」
傍流の血を継ぐ老人は、強張る唇でそうつむいでいた。
右手には少女と同じように刀を持っていた。孫であったものの血を刃先に垂らしながら。
すでに魂のないはずの肉体を冥府に送るために、心の臓を貫くつもりだったのだろうが、愛着というものはそう簡単にぬぐえるものではない。
左腕を失った真人だった肉体を連れて帰った。
葛城として再び生きるために。
「なんだ、そういうことか」
その昔、自分の犯した大罪に葛城は皮肉な笑みを浮かべていた。他人事のように思えるのは、ずっと忘れていたせいだろうか。
少女があのような言葉を吐くということは、彼女もまた、誰かの肉体を奪ったのだろう。
酷い話だ。返せなど、言える立場ではなかろうに。
自分も略奪者だとわかっているのだろうか。
漏れる笑い声に、周りの護衛たちが怪訝な目を向ける。その怪訝な視線はだんだん、強張っていき、なぜか未知のものに遭遇したかのような顔を向ける。
『どうした?』
自分の声が二重に聞こえる。
身体のきしみがひどくなる。まるで、身体の中に違うものが巣くっていて、孵化しようと内側から食い破られるような感覚がする。
「かつ、らぎ、さま……」
サングラスの奥から明らかに恐怖の色が見える。黒服のがたいの良い男が、情けない声を上げるなどと、最近のボディーガードは質が落ちたものだと思った。
なんだか、車の中が狭苦しい。
広い車体が自慢なのに息苦しくて仕方がない。
このままでは、窒息してしまう。
「でる」
葛城は車のドアを開ける。走行中に開いたドアは、隣の車体に当たり耳触りな音をたてたが気にしない。
身を乗り出すと、そのまま身体を風にまかせてみた。
いつのまにか人間のそれとは違うものに変化していた四肢は、ゆっくり風を受けると空へと舞いあがらせてくれた。鳥というより、蝙蝠に近い翼をしている。
半分しかない左の翼は、物理法則とは違ったもので身体を浮かせているらしい。
最初からこうすればよかった。
ぎこちなく動いていた身体が、自由に羽ばたいている。
こうして、完全な迷ひ神が生まれた。




